D/Gに巻き込まれる302-『千のプラトー』「3 BC10000年----道徳の地質学 (地球はおのれを何と心得るか)」 2:オレたちは「道」stradaを溜まり場にして「層」strataに変えてやるんだ-
われわれにはもはや、何がどうなっているのかよくわからない。
これらの問答には実にたくさんの事柄が含まれている。
実にたくさんの区別があって、それが増幅し続ける。
つまり、そこには実にたくさんの仕返しがあるのだ。
と言うのも、認識論というものは決して罪のないものではないからだ。
繊細でとても優しいジョフロワと、真面目で辛辣なキュヴィエが、ナポレオンの周囲で闘っている。
キュヴィエはいかにも専門家、ジョフロワの方はいつでも専門を変える用意がある。
キュヴィエはジョフロワを憎悪している。
キュヴィエにはジョフロワの軽やかなものの言い方、ジョフロワのユーモアが我慢ならないのだ (そう、<雌鶏>には歯があるし、<ロブスター>には骨の上に皮膚がある、等々)。
キュヴィエとは<権力>と<領域>の人であり、そのことをやがてジョフロワに悟らせることになるだろう。
ジョフロワの方は、さまざまな速度を持つ遊牧の人の姿をすでに体現している。
キュヴィエはユークリッド的空間で思索し、一方ジョフロワはトポロジックに思考する。
今日は、大脳皮質の褶曲をそのあらゆるパラドクスとともに考えてみようではないか。
地層とはトポロジックなものなのであり、ジョフロワは折りたたみの巨匠、最高の芸術家なのだ。
彼はそのことによってすでにある種の動物的リゾームを、驚くべきコミュニケーションをもつリゾームを、つまり<怪物>どもを予感しており、一方キュヴィエはもろもろの不連続な写真と化石的な複写の術語でもってこれに対抗する。
だが、われわれにはもはや何がどうなっているのかわからない。
なぜなら、もろもろの区別がありとあらゆる方向に多様化してしまっているからだ。
(※『千のプラトー』は1つのパラグラフが長いので、「D/Gに巻き込まれる」と題される一連の「落書き」では1文ずつ改行して引用している。なおパラグラフの区切りの場合は1行空けてある。)
◆
先日、ここを見てくれている篤実な編集者さんがヒップホップ関係の本の編集にも携わっている、と話してくれた際、私も『千のプラトー』の語り手(トリックスター)をデモや街頭でヒップホップ調で聴衆を体のノリから巻き込む役回りに見立てていたことが不意に見透かされた気がした(被害妄想だが)。そこで、編集者さんに、熱心ではないけど実はヒップホップ・ファンであることを告白した(今はメジャーどころしか知らないが)。
そんな自分の傾向を自覚すると、まだ『千のプラトー』の第3プラトーまでが、シュプレヒコール、ドキュメンタリー、小説のような語調がないまぜになって進む上に、この落書きの語り手のキャラをちょっとラッパー調にひねってさらにないまぜにする自分の意固地さに笑いが込み上げてきた。論文やまとめ記事っぽい文体にはしないぞ、という自分の稚拙な意図を再確認したからである。
とはいえ、ちょっとラッパーのような見立てにしたのは、なんでもないまぜにしていくストリートカルチャーと、街頭で通行人に呼びかけるラッパーの声が、『千のプラトー』の異種混交的なスタイルと語り手の演説っぽいトーンに重なったのは確かである。すると、道路は目的地に向かうために通り過ぎる場所ではなくなり、集まり、会話し、声を上げ、さらには一騒ぎを起こすような場に変わる。「道」stradaを「層」strataにするのさ、と語り手(トリックスター)なら韻を踏みながらラップしそうだな、と思う。
さて、今回もそんな語り手に翻弄されながら、前回同様、第3プラトー「BC10000年----道徳の地質学 (地球はおのれを何と心得るか)」の前半あたりに巻き込まれていく。前回はデンマークつながりで、ハムレットからイェルムスレウへと排他的論理和(AかBか)という論理を総合へ展開しようとする語り手(トリックスター)の「地図作製法」に振り回された。(その際こちらもふとデンマークの哲学者キエルケゴールの作品「あれか、これか」の末尾にある「あれでもなく、これでもなく」という排中律へと巻き込まれた。)
その際、語り手はイェルムスレウの言語素論を説明しながら、「イェルムスレウ」なる固有名をシフターとして用い、別の何かを示唆する速度ベクトルとして扱っていると解釈した。(ここは渦巻き世界なのだから。) ハムレット→イェルムスレウ→というデンマークという土地から地図作製される際に、私が連想したのはキエルケゴールだったが、語り手はそんな稚拙な地図に付き合う暇はない、とでも言うようにジョフロワ・サンティエールへとそのベクトルを差し向ける。今回はこの博物学者が新たなシフターとなる。
まず第1に、ある特定の地層の内部で何が変化し何が変化しないか、と問うてみるとしよう。
いったい何が、地層の統一性や多様性を作り出しているのだろうか?
物質、つまり存立 (あるいは非存立) 平面の純粋な質料は、もろもろの地層の外にある。
けれども、地層上においては、基層から取り入れられた分子間の素材は、たとえ分子は同じものでないにしても、同じものでありうる。
実質をなす要素は、実質そのものが同一ではないにしても、地層全体にわたって同一でありうる。
形式の関係、あるいは結合はたとえ形式が同じでなくても同じものでありうる。
生化学における有機的な地層の構成の統一性は、素材とエネルギー、実質をなす要素あるいは基、もろもろの結合と反応の水準で定義されるのだ。
しかし、それらは同じ分子でも同じ実質でもなく、同じ形式でもないのである。
----ここでジョフロワ・サンティレールに讃歌を捧げるべきではないだろうか?
というのも、ジョフロワこそは、19世紀にあって、地層化作用に関する1個の壮大な概念を打ち立てた人であるからだ。
彼の言うところによれば、物質はその最大の可分性という傾向にむけて、次第に微小化していく微粒子,つまり、空間中に放射して<広がっていく>しなやかな流れあるいは流体のことである。
燃焼とは、存立平面上での、この流出あるいは無限の分割の過程(プロセス)である。
だが帯電作用はといえば、それは逆に、もろもろの地層を構成する過程であり、この過程を通して互いに似通った微粒子が集まってさまざまな原子や分子となり、互いに似通った分子が集まってより大きな分子になり、最も大きくなった分子がさまざまなモル集合となるのである。
つまりそれは、二重挟みないし二重分節と同じように、「<自己>に対する<自己>の誘引作用」なのである。
こうして有機的な地層も何1つ特有の生命的物質をそなえているわけではないのだ。
というのは物質はどんな地層にあっても同じだからである。
しかし、それは特有の構成の統一性を、つまり唯一の同じ抽象的<動物>、地層の内部に捕らえられた唯一の同じ抽象機械をもち、そして同じ分子的素材、解剖学上の器官要素、同じ成分、同じ形式的連結を示すのである。
このことは、器官や蘇生された実質、もろもろの分子が異なっているように、もろもろの有機的形態がそれぞれ異なっていることを妨げはしない。
ジョフロワが実質の単位として、蛋白基や核酸よりもむしろ解剖学状の要素を選んだと言うことは、少しも重要ではない。
そもそも彼はすでに、分子の働きそのものに注目しているのである。
語り手(トリックスター)/チャレンジャー教授の独特の地図作製は、デンマークという土地に安易に領土化した私の稚拙な地図作製とは異なる。有機体の構成の場面に地層化作用を持ち込んで生物学を掻き回そうとするからだ。ここからは胚発生の(受精卵が細胞分裂しつつ個体化していく)プロセスを地層化と見なす彼(彼ら)の地図作製が、マクロな地図から一転してミクロな地図に一転する。同時に、聞く者は、自らの環境(地層)から聞く者自身の生(細胞)へと、脳内イメージの刷新を強いられるのである。
分子状からモル状への地層化作用は異質なものの同質化、還元の過程を通ると彼(彼ら)はいう。「実質をなす要素は、実質そのものが同一ではないにしても、地層全体にわたって同一でありうる。形式の関係、あるいは結合はたとえ形式が同じでなくても同じものでありうる。」(前掲) が、彼らが強調したいのはそこではない。「重要なのは、地層の統一性と多様性であり、たがいに対応しないのに形式の同形性があり、蘇生された実質には同一性がないのに、要素あるいは成分には同一性があるということだ」からである。
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関係そのものの次元が実体化する過程は、直線的な時間スケールで測れるものではない。この過程は地層化を強化していくが完了させず、時には地層化を崩していく可能性すらある。このプロセスにはそのような「地層の統一性と多様性」があると語り手/チャレンジャー教授はいうのである。地層の「統一性と多様性」を確保するのは、実体として分割され、計測可能な世界を作る地層化のベクトルからでは決して計測できない「抽象機械」、「存立平面」へのベクトルなのだ、と。生物学領域に場面が移るのだから、こちらもこれらの語がシフターとなって「器官なき身体」という語をつい連想してしまう。
ここでジョフロワをめぐる寸劇が始まるのだが、語り手はチャレンジャー教授からちょっと離れて「最後に残った聴衆を引き止めるために、チャレンジャーは、人形芝居を真似た実に認識論的な死者たちの対話を上演することを思いついた」と添える。そうして、語り手の口からチャレンジャーの口が、さらに様々な生物学者の口が出てきて言葉を投げつけ合う「人形芝居を真似た」寸劇に移行する。
フランス語原書ではthéâtre de marionettesとあり19世紀に労働者階層に流行ったguignol (指人形芝居)ではなさそうだ。が、両者の始まりが路上で演じられることをイメージすると、これら人形が演じるthéâtre de marionettesの方は声の多数性を際立たせる仕掛けに思える。劇の役回りは対立的であり、単純すぎるほどだ。生物学にあまりこだわりがなさそうなジョフロワと生物学を保守しようとするキュヴィエとその弟子たち(ベーア、ヴィアルトン)、そして上の引用には出てこないが、ジョフロワ寄りのペリエは沈黙している。
多少長いがひと区切りつくところまで引用したい。
まさにこの点をめぐって生じたのが、キュヴィエとの対話、というか、むしろ激しい論争である。
最後に残った聴衆を引き止めるために、チャレンジャーは、人形芝居を真似た実に認識論的な死者たちの対話を上演することを思いついた。
ジョブロワは自分の側にいろいろな<怪物>どもを呼び寄せ、キュヴィエの方はありとあらゆる<化石>をそろえ、ベーアはといえば<胎児>の入ったフラスコを振りかざし、ヴィアルトンは<四足類帯>を体に巻きつけ、ペリエは<口>と<脳>の悲劇的(ドラマチック)な戦いを演ずる・・・・・・等々。
ジョフロワ----異種間同形性の根拠、それは、形態が有機的地層上ではいかに異なっていようと、ある形態から別の形態に「折り畳み」を介して移行しうるということです。
例えば、脊椎動物から頭足類に移るには、脊椎動物の脊柱の2つの部位を引っ張り寄せてごらんなさい、つまり、頭部を足の方へ、骨盤を項(うなじ)の方へもっていくのです・・・・・・----
キュヴィエ (かっとして) ----そんなのはでたらめ、でたらめですぞ、象からクラゲへ移行するなんてことはできやしない、私はやってみたんですから、還元不可能な軸や型や分類学の門というものがあるんですよ。
存在するのは諸器官の相似性と諸形態の類似性であって、それだけです。
あんたは嘘つき、空想家だ。
ヴィアルトン (キュヴィエとベーアの弟子) ----それに、たとえ折り畳みが良い効果をもたらしたとしても、誰がそんなことをがまんできましょうか?
ジョフロワがもろもろの解剖学的器官しか考察しないのは偶然ではありません。
いかなる筋肉も靭帯も帯も「折り畳み」の後には残らないでしょう。
ジョフロワ----私は同形性があるいとったのでして、対応と言った覚えはありません。
つまり、「発達ないし感性のさまざまな度合」というものを介在させる必要があるのです。
もろもろの素材は、地層上のどこでも、一定の集合を構成することが可能な度合いに到達するというわけではない。
解剖学的要素は、分子の衝突、場の影響、あるいは隣接要素の圧力といったものによって、あちこちで抑制または阻害されるのであり、その結果それは同じような器官を構成するわけではないのです。
形態の関係あるいは連結は、その際まったく相異なる形態および配置によって実現されることになります。
それでいて、全地層上で現実化されるのは同一の抽象的<動物>であり、それは様々な度合、さまざまな様態で、そのたびごとに環境や場に応じてあたうかぎり完璧に現実化されるのです (問題はやはり明らかに進化ではない。
つまり、折り畳みといってももろもろの度合といっても子孫や派生にかかわるのではなく、単に同じ1つの抽象物の独立した現実化にかかわるだけなのである)。
ジョフロワがさまざまな<怪物>を引き合いに出すのは、このときだ。
人間のさまざまな畸型とは、一定の発達段階にとどまった胚なのであり、胚の状態にある人間とは、人間的でない形式と実質にとってはある種の不純物に過ぎないのです。
そう、<異種重複奇形体>とは1匹の甲殻類なのです。
ベーア (キュヴィエの味方であり、ダーウィンの同時代人、だがジョフロワの敵と同様にダーウィンについては沈黙している) ----それは間違いです。
発達の度合と形態のタイプを混同することはできません。
なるほど同一のタイプはさまざまな度合をもち、同一の度合がいくつものタイプに見られます。
しかし、度合をそのままタイプとすることは決してできません。
あるタイプの胚は別のタイプを呈することはできず、せいぜい別のタイプの胚と同じ度合を示すことができるだけなのです。
ヴィアルトン (ベーアの弟子、ダーウィンとジョフロワの両方に反対して居丈高に言う) ----それに、1個の胚だけがなしえ、あるいは受け入れる事柄があります。
胚がそれをなしえ、あるいは受け入れるのは、まさに自らのタイプのおかげなのであって、胚がその発達の度合にしたがってあるタイプから別のタイプへ移行しうるからではないのです。
<亀>の見事なつくりをごらんなさい、その首たるや一定数の原椎骨の移動を必要とするものであり、前肢はといえば、鳥のそれに比べて180度の移動を必要とするものであります。
胚形成から系統発生を導き出すことなんか決してできないんですよ。
つまり、折り畳みによって、あるタイプから別のタイプへ移行することが可能にはならないのであって、逆に、タイプの方が褶曲形態の還元不能性を証言しているのです・・・・・・ (こうしてヴィアルトンは、同一の主張のために2つの論拠を結びつけている。
つまり、一方で、いかなる動物にもその実質によってはなしえない事柄があると言い、他方では、胚のみがその形態によってなしうる事柄があると言うのだから。
この2つは確かに説得力のある論拠である)。
ここで展開するのは「抽象機械」、関係のみで充実した身体という想像上の「怪物」から地球上の全生命の分岐を説明しようと目論むジョフロワ・サンティエールの生物学理論である。が、途中に語り手/チャレンジャー教授が論争を描写するように、語り手/チャレンジャー教授が自らの地層化作用の理論を生物学レベルに広げ、万物の理論として正当化しようとする過程でもある。そしてそれは「折り畳み」方の違いというトポロジカルな作用を通して説明される。
歴史上での両者の論争は「器官形成の統一性」(ジョフロワ)と「機能の独立性」(キュヴィエ)をめぐって1830年に行われたものだという。1859年に『種の起源』が刊行されて進化論論争が勃発する以前の出来事である。博物学から生物学が独立する過程で、解剖学を援用するジョフロワ・サンティエールに対し、生物は個々独立した設計から発生することを主張したキュヴィエが反撃したとされる。当時の勝者はキュヴィエだったが、進化論の登場後はジョフロワ・サンティエールの理論が再注目される。このことを知識として踏まえた聴衆にとっては、ジョフロワ側につくように仕組まれた「人形芝居」のようにも思える。
一方、ここで「人形を真似た」という語り手の言葉を信じるとすれば、声の多数性が語り手(トリックスター)、チャレンジャー教授、芝居の登場人物たちと層を成していることにも気づかされる。しかも、「人形芝居を真似た」というのはどういうことか、はっきりとはわからない。語り手/チャレンジャー教授が、おもむろにどこかから人形を出して演じ始めたのか、単にその口調を真似て声色を変えて一人芝居を演じているのかは、文字を読むだけではわからないのである。
語り手の声を聞いているという設定のこの落書きでは、人形芝居の口調を「真似」ている、というふうに考えてみたい。すると、語り手がチャレンジャー教授になり、チャレンジャー教授が芝居の複数の人形の口調を演じる様は、聞き手であるこちら側よりも演じている側の混乱を引き起こすように思えてくる。そこで冒頭のエピグラフに引用した言葉が続くのである。劇の議論が「わからない」のか、演じる自分がどうなっているのかが「わからない」のか。「わからない」という言葉が指し示しているのは、沈黙を続けるこの「怪物」なのだろうか。
「われわれにはもはや、何がどうなっているのかよくわからない。これらの問答には実にたくさんの事柄が含まれている。実にたくさんの区別があって、それが増幅し続ける。」 「われわれ」とは誰か?と問う認識論の構造自体が批判されるのである。多数の声はユークリッド空間とトポロジー空間を行き来して、声から音へ、音から声へと移行する。その中に、沈黙を続ける充実身体がふと浮かび上がるのかもしれない。「だが、われわれにはもはや何がどうなっているのかわからない。なぜなら、もろもろの区別がありとあらゆる方向に多様化してしまっているからだ。」
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語り手/チャレンジャー教授は、ラマルク、ダーウィンら進化論の側からこの1830年の論争をめぐる人形芝居を語り始める。そうして進化論での系統発生と個体発生という進化論の両軸に照らし合わせると、この論争が系統発生と胚発生を対照させている点に注意を促す。確かに、個体発生は一個の生命の生きた経験(環境や他の生命との関係を記憶する経験)を含むが、胚発生はこのような経験は含まない。個を実体化した考えを生物学から取り除くと、どんな生命の発生の見方がありうるのかという点に、こちらの注意を向けるかのようである。
多くの世代を経て種と類が分岐する長期スパンの系統発生が、受精卵を舞台として瞬時に行われる胚発生を対照すると、「我々の人形芝居はますます混沌としたものに、つまり集団的かつ差異的〔微分的〕なものになってくる」と語り手/チャレンジャー教授は主張する。こちらも、語り手(トリックスター)の多層化した語りを、無理やり単一の声として聞き分けながら、いよいよ群れ、多様体が導入される頃合いだな、と身構える。
われわれは、まだダーウィンを、進化論と新進化論を考慮に入れてさえいない。
しかしながら、まさにそこで、ある決定的な現象が生ずるのである----我々の人形芝居はますます混沌としたものに、つまり集団的かつ差異的〔微分的〕なものになってくる。
1つの地層に関する多様性を説明するために、われわれは、2つの要因をその不確定な関係とともに取り上げたわけだが、この2つ、つまり発達または感性のさまざまな度合と、形態のタイプは深い変容をこうむるのである。
すなわち、ある二重の傾向にしたがって、形態のタイプは次第にもろもろの人口、群れや集落、集団性または多様体によって、理解されねばならず、発達の度合は、いろいろな速度、比率、係数、そして微分〔差異〕的関係といった術語によって理解されねばならないのだ。
これは、二重の深化である。
これこそがダーウィニズムの獲得した根本的な認識であり、それは地層上での個体-環境の新たな結合をもたらすのだ。
一方で、一定の環境における元素的なあるいはまさに分子的な集合を仮定した場合、もろもろの形態はこの集合に先立って存在するのではなく、それはむしろ統計上の結果なのである。
集団が相異なる形態をとればとるほど、集団の多様体が互いに性質の異なる多様体に分割されればされるほど、つまり、集団の諸要素が互いに区別される構成体または形態化された質料になればなるほど、集団はより適切に環境内で分配され、より多くの環境を分有することになるのだ。
このような意味で、胚形成と系統発生はその関係を逆転する。
つまり、閉じた環境の内部にあらかじめ確立される絶対的な形態の存在を示すのはもはや胚ではなく、相対的な形態をとる自由をもつ集団の系統発生であり、開かれた環境においてはあらかじめどんな形態も確立されていないのである。
胚形成の場合、「人は生みの親を参照し、発育過程(プロセス)の終点を先取りすることによって、発育しつつあるのが鳩か狼かいうことができる・・・・・・。
けれども、この場合は標識そのものが動いている----定点は便宜上存在するにすぎないのだ。
宇宙的進化のスケールでは、この種の標識は全く不可能なのである・・・・・・。
地球上の生命は、ときとして変動し、透過を許す境界によって分かたれ、相対的に自立したもろもろの動物相と植物相の総和として現われる。
地理学上のさまざまな圏域に宿るものは、ただ一種のカオスだけ、あるいはせいぜい生態系の日本来的な調和、集団のあいだの一時的な均衡に過ぎないのである。」
確かに議論は混乱している。胚発生(上の引用では「胚形成」)が先か、系統発生が先かという問題は、胚発生が当初から個別的な「タイプ」を有するか、分割不能な抽象的な「怪物」から偶然のように折り畳みが始まり、分割していくのか、両者の仮説の優劣を判定する物差しは見当たらない。ジョフロワに与する語り手/チャレンジャー教授も、キュヴィエに味方するヴィアルドンのいう、折り畳みが起こっても一方のタイプから他方のタイプに変わることはできないのだから、タイプは還元不可能であるという主張に納得してもしていた。(人形芝居が繰り広げられる一つ前の引用を参照。)
が、混乱はそれだけではなさそうである。例の自由間接話法がだいぶ高まってきたからだ。いったい「われわれ」とは誰なのかが一瞬わからなくなるのだ。語り手/チャレンジャー教授なのか、語り手(トリックスター)自身なのか。少し考えれば後者だというのはわかるのだが、「人形芝居を真似た」寸劇の中では、劇中人物からチャレンジャーへ、そして語り手へと目まぐるしく視点が変わるように見えるからだ。確かに視点で区別しようとする「認識論というものは決して罪のないものではない」(p.109,エピグラフの引用を参照)のかもしれない。
逆に考えれば、これらの語りの目まぐるしい移動こそが層strataになっているのかもしれない。stratumの複数形であるこの言葉は、単層ではなく複数の層を表している。聞き手の認識論が目眩いを起こすような移動によって出てくるこの層の重なり(多層)についてはフランス語原書でも区別されているようだ。単層は英語版ではlayerとされるが、フランス語原書では、couche、strate、calqueと多様だ。そして、そこにより<一層の>速度が与えられて複数の層が絡み合う状態がstrataと呼ばれるようなのだ。
速度を与えられるとこの世界ではミクロレベルへと、分子状の世界へと、多様体へと導かれていく。系統発生と対照される胚発生に話が移ると時間スパンがミクロレベルに変わり、多様体が出現するかのようだ。その際、単層の重なりと思われていた地層は重なり自体となり、重なりは「集団」や群れのように現れてくる。「すなわち、ある二重の傾向にしたがって、形態のタイプは次第にもろもろの人口、群れや集落、集団性または多様体によって、理解されねばならず、発達の度合は、いろいろな速度、比率、係数、そして微分〔差異〕的関係といった術語によって理解されねばならないのだ。」(同上,前掲)
語り手の声を聞く側には、「人形芝居を真似た」寸劇の登場人物たちの個々の声色を演じるチャレンジャー教授の説を語る語り手(トリックスター)という層がモジュールになってモヤモヤした縞模様のような単なる差異のイメージが浮かんでくる。それゆえ、「胚形成と系統発生はその関係を逆転する」というダーウィニズムの転倒の事態は、類似的にだが、生物学という領域に留まっていないことが聞き手にも感じ取れるのである。「この場合は標識そのものが動いている----定点は便宜上存在するにすぎないのだ。」
ミクロレベルでは地層はlayerのような単層ではなく差異になり、そのモジュールはstrataという複数形として捉えられる。その単数形であるstratumは、敷き詰めることという動態的な意味を持ち、strada道へと分岐する(フェリーニだ!)。英語のstreetは敷き詰められた道から来ており、道は石を敷き詰めることで層を形成した結果なのだ。この動態的な特徴が「地層化作用」と呼ばれているとするなら、敷き詰める瞬間ごとの動きはミクロレベルの強度的関係で表現されるのだろう。
他方、それと同時に、そして同じ条件で、度合は、あらかじめ存在する発達や感性の度合のことではなく、むしろ相対的かつ包括的な均衡である----それらが価値を持つのは、環境内のしかじかの要素に、またしかじかの多様体にそれらが与える優位のためであり、環境内のしかじかの変化のためである。
このような意味で、もろもろの度合は、もはや増大する完成度だとか各部位の差異化と複雑化によって測られるのではなく、選択の圧力や触媒作用、繁殖速度、増殖や進化や突然変異の比率などのもろもろの微分〔差異〕的関係と要因によって測られる----相対的な進歩がなされるのはしたがって、量および形態の複雑化によってよりもむしろその単純化によって、構成要素と総合の獲得によってよりもむしろその喪失によってである (問題なのは速度であり、速度とは微分的なものである)。
何かが形態を得るのは、もろもろの集団によってであり、進歩が生じ、速度が得られるのは、喪失によってなのである。
ダーウィニズムの獲得した2つの根本的な認識は、多様体の学の方向を目指しているのだ。
つまり、類型に対して集団を提起し、度合に対して比率、あるいは微分的関係を提起したことだ。
これはノマド的獲得というべきものであり、集団の動いて止まない境界や多様体の変化を、微分的計数や関係の変化をともなうものだ。
そして、現代の生化学、モノーの言う「分子的ダーウィニズム」は、まさに、ただ1つの同じ包括的かつ統計的個体のレベル、単一の標本レベルにおいて、分子の集合と微生物学的比率の決定的な重要性を確言している (例えば、1つの連鎖内の無数のシークエンス、そしてこのシークエンス内のただ1つの切片(セグメント)の偶然の変化)。
語り手/チャレンジャー教授は胚発生(「胚形成」)という瞬間瞬間に実体なき強度と比率の関係を見出し、それを「地層化作用」と呼んで、ダーウィニズム自体も多様体の学として捉え直そうと目論んでいるようだ。この世界は線(流線/速度ベクトル)でできているとしたら、それは敷き詰めつつあるstrada(道)であり、敷き詰められることでできる複数の層(strata)でもあるのだろう。そうして、聞く側は語り手と共有する一連の「シークエンス」を形成する街頭streetがまさにテーマになっていたのだ、ということに今さらながら気づかされるのである。
語り手は(トリックスター)そんなストリート(道/層/街頭)で、疲れ知らずにラップしまくっている・・・そんなふうに見えてくる。
◆
ここで語り手はチャレンジャー教授から離れて、「今や問題は、同じ1つの地層の、つまり有機体の地層のこうした統一性と多様性について、いくつかの結論を引き出すことだった」と言い、「地層化作用」についてのとりあえずのまとめがこれから始まることを予告する。「予告」というと語り手がチャレンジャー教授の口を借りて主張をし始めるようにも思える。
が、もうそんなことはどうでもよくなってきている。というのも、「地層化作用」は身体が有機体になる過程と重ねられ、地質学と生物学が重なり合い、混淆するようにして多様体における発生の場面に移行するからである。
第1に、ある地層a stratumは、とにかく構成の統一性を有し、そのことによっていわゆる1つの地層であることができる。
すなわち、分子状の素材、実質的要素、形式上の関係あるいは特徴がそれだ。
素材とは、存立平面の形式化されない質料のことではなく、すでに地層化されており、「基層」に由来するものである。
だが、基層はもちろん単なる基層とみなされるべきではない----とりわけ複雑さに欠ける、下等な組織をもつわけではないのであって、あらゆる笑うべき宇宙的進化論を警戒しなくてはならない。
一定の基層のもたらすもろもろの素材は、確かに地層の構成体よりも単純だが、それらが基層において属している組織の水準は、地層そのものの組織の水準に劣るわけではない。
もろもろの素材と実質的要素のあいだには、別の組織、組織の変化があって、それは増大ではないのだ。
与えられた素材は、当の地層の要素と構成体にとって外部環境となる。
けれどもそれらは地層に対して外的であるというわけではない。
もろもろの要素および構成体は、地層の内部を構成するが、それは素材が地層の外部を構成するのと同様であり、この2つはどちらも地層に属しているのである----後者は与えられ採取された素材として、前者は素材とともに形式化されたものとして。
そしてさらに、この外部とこの内部は相対的で、それらの交換によってしか、したがってそれらを関係づける地層によってしか存在しないのである。
例えば、結晶する地層上で、結晶がまだ構成されていないときには不定形の環境が核の外部にある。
だが、結晶は不定形の素材の量塊を内部に入れ一体化することなしには構成されない。
逆に、結晶核の内部はシステムの外部へ移行しなければならない。
そこで不定形の環境が結晶しうるのである (別の組織を把握する特性)。
だから、結晶の核こそ外からくると言えるほどだ。
一言で言えば、外部と内部はそれぞれ同じように地層に内在しているのである。
それと同じことが有機的なものについても言える。
つまり、基層によって与えられたもろもろの素材は、いわゆる前生命状態のスープを構成する外部環境であり、一方、もろもろの触媒は、核の役割を演じて諸要素を、また内部の実質的構成体を形成するのである。
しかし、これらの要素や構成体は、素材を自己のものとし、複製によって原初的スープの条件そのものにおいて自らを外在化する。
そこでもまた、内部と外部は両方とも有機的地層に属しながら、たがいに交換しあうのである。
両者のあいだには、限界、膜があり、それがもろもろの交換と組織の変形を、また地層の内部のさまざまな配分を調整し、地層上のもろもろの関係や形式的特徴を決定するのである。
(たとえこの境界が、地層に応じて実にさまざまな状況と役割をもっているにせよ----例えば、決勝の境界や細胞膜のように)。
したがって、次のような構成の統一性の総体を、ある地層の中心層、中心環と呼ぶことができる。すなわち、外部の分子状の素材、内部の実質的諸要素、形式上の関係をになう境界または膜からなる総体である。
あたかも、地層の中に内包され、地層の統一性を構成するただ1つの同じ抽象機械があるということだ。
それは、存立平面の<平面態(プラノメーヌ)>に対する<総合態(エキュメーヌ)>である。
引用の真ん中あたりの「結晶」の例でちょっとわかった気になるのは、地層と呼ばれている「層」が気体も液体も含んでいることがイメージできるようになるからだろう。マグマが鉱物になるのは結晶化の一例だが、身近なところでは空気中の水分が水となり、氷となるのも結晶化だ。そう考えると、結晶が「システム」の「外部」になるにもかかわらず「システム」に対する外ではないという言葉は、気体(水蒸気)から固体(氷)への層の度合い(温度)の変化があっても気体と個体は排他的で独立した存在ではない、と捉えることができる。(こちらの身勝手な解釈ではあるが。)
分子状の大気層からモル状の固体の層へという発生のプロセスについて、語り手/チャレンジャー教授はイェルムスレウの「素材」、「形式」、「実質」を細分化する4層の言語論を通して辿ろうとしている。つまり、物質的な「素材」を言語のような「形式」が細分化することで「実質」が形成されるという過程を、結晶のプロセスに見立てているのである。
そうして、このプロセスが生物学的な胚発生に重ねられることで、器官なき充実身体が有機体化する過程がさらに二重写しされることになるのだろう。ジョフロワ・サンティエールはイェルムスレウを指示するシフターだったのだろうか? そんなことを思いながら気体が固体になる、いわゆる相転移phase transitionの場面をイメージして、再び語り手の様子を窺う。
すると、「あたかも、地層の中に内包され、地層の統一性を構成するただ1つの同じ抽象機械があるということだ。それは、存立平面の<平面態(プラノメーヌ)>に対する<総合態(エキュメーヌ)>である」 という上の引用の最後の言葉に、まるでツッコミを入れるように、「こう言うとお前らは、どこが起源かなんてバカな考えをしそうだな」、とでも言いたげに釘を刺してくる。以前も語り手は言っていた。中心centerに見えるものは実体ではなく、むしろ中間的な(英訳ではmiddle、フランス語原書ではmilieu)状態なのだ、と。
だが、地層のこの統一的中心層が分離可能なものであるとか、この層にそれ自体として、遡行によって到達しうるなどと考えるのは誤りであろう。
何よりもまず、地層は必然的に、そして初めから、層から層へと成るものだ。
それはすでにいくつもの層をそなえているのである。
地層は中心から周辺へ向かうが、同時に周辺は中心に向けて反作用を及ぼし、すでに新たな周辺に対する新たな中心を形成する。
もろもろの流れは、たえず放射状に広がり、かつ逆行する。
つまり、もろもろの中間的状態の圧力と増加とがあり、この過程は中心環の局所的条件のうちに含まれているのである (さまざまな集中度の差、同一性の閾値以下の許容範囲内にある諸変化)。
これらの中間的状態は、環境または素材の新たな形状だけでなく、要素と構成物の新たな形状も示すのである。
実際それらは、外部の環境と内部の要素のあいだ、実質的要素とその構成体のあいだ、そしてまた、形式化されたさまざまな実質 (内容の実質と表現の実質) のあいだを仲介するのだ。
これらの仲介物や重畳、これらの圧力、これらの水準を、今後は「上位層(エピストラート)」と呼ぶことにしよう。
われわれが扱っている2つの例のうち結晶層は、外部の環境ないし素材と内部の核のあいだに、可能なかぎり多くの媒介物を含んでいる。
すなわち、完全に非連続的なもろもろの準安定状態からなる多様体、それは同じだけの階層的な度合にほかならない。
有機的地層もまたいわゆる内部環境と切り離すことができない。
この内部環境は、まさに、外的素材との関連で内的要素であるのだが、同時にそれは内的実質との関連では、外的要素でもあるわけだ。
そして、周知のように、これらの有機的な内部環境が、1個の有機体の複雑さの度合と、各部位の分化を統御しているのである。
構成の統一性に取り込まれた地層は、したがって、その連続性を断ち切り、その環を分断し、段階化するような実質の上位層にしか存在しない。
中心の環は、周囲から独立して存在することはない。
この周辺は、新たな中心を形作って第1の中心に反作用を及ぼし、かつ自分の方でも分散して非連続的な上位層の数々となるのである。
渦巻き世界は放射状に動いている、とイメージしてみると、この世界では放射状に遠心化し、また求心化する動きもあるだろう。その中で、相対的に速度が落ちている層は「準安定状態」にあると考えることができる。そして中心と思われる状態は渦巻きを作る他の速度ベクトルとの相関において準安定状態を一時的に保っているとも考えられる。そうして、この一見結晶化したような状態は、その強度の差異によって他の状態に反作用を及ぼし、新たな流れ(流線のモジュール)を生み出していくのだろう。

語り手/チャレンジャー教授はこのような準安定的な層を「上位層」と呼ぶ。渦巻きの広がりの上の方が速度が落ちるとすれば位置的には上の方にあるイメージかもしれない。このような層もまた多様体であり、独立しているようでいて他との相関によって一時的にその状態を保っているのである。この状態を語り手/チャレンジャー教授は「構成の統一性に取り込まれた地層」と呼ぶのだが、どんなに硬い結晶層と呼ばれる層でも、イェルムスレウの「素材」、「形式」、「実質」からなる層が内と外を固定せずに細分化または差異化する。よって、固定されたものが存在することはないのだ。渦巻き世界では多方向を向く流線(速度ベクトル)に満たされている、ここでは静止した中心はないが、移動を促す中間的状態や媒介(・・・と・・・と・・・と・・・・)は至る所にあるだけだ。
あれ? いつの間にか語り手がこちらに憑依してきたのかな?
自由間接話法がこちらの落書きにまでまで浸透し始めたかのようだ。。。
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これまで「内的環境」または「外的環境」と邦訳される際の「環境」にあたるフランス語milieuについてこれまで述べることはしなかった。代わりに英訳のmiddleについては第1プラトー「序 リゾーム」で何度か言及した(トールキンの「middle earth」という中間プロセスとしての世界を想像しながら)。というのも、milieuという語の多層性または多義性については、過去の文献でも多く言及されていたので、慣れてしまっていたのもあるのだろう。
が、以下の引用で、「中間的環境」という邦訳でmilieuが用いられる場面が出てくる。環境であり中心、真ん中であり周辺を表すこの不思議な語を駆使して、中間プロセスという動態の空間表現を繰り返す語り手/チャレンジャー教授のレトリカルな戦略のお手並みを拝見しようと思い始めたのである。「環境」milieuという語が繰り返されるごとに、多様体世界はグングンと近づいてくるのはもちろん意識しておくことにしたい。
しかもこれですべてというわけではない。
こうした内部と外部の新たな、あるいは2次的な相対性があるだけでなく、同時に膜の、あるいは限界のレベルでもまた、語るべきことがたくさんある。
事実、要素と構成体が素材を取り込み、自分のものにするかぎりにおいて、これに対応する有機体は、さまざまの「より異質で不適合な」素材に向かわざるをえない。
有機体は、こういった素材を、いまだ手つかずの量塊や、あるいは反対に他の有機体から借りるのである。
環境は、ここでさらに第3の形状をとることになる。
つまり、たとえ総体的なものであっても、それはもはや内部環境でも外部環境でもなく、媒介的環境でもなく、むしろ結合された、あるいは付加された環境というべきものである。
結合された環境は、まず第1に、供給源としての素材そのものとは区別されるエネルギー源をともなう。
そのようなエネルギー源が獲得されないうちは、有機体はみずからを養っているとはいえても、呼吸しているとはいえないのである。
その場合、有機体は窒息状態にとどまっている。
これに反して、獲得されたエネルギー源は、要素や構成体に変形しうる素材の広がりを存在させる。
結合された環境は、こうしてエネルギー源の捕獲 (最も一般的な意味における呼吸) によって、素材の識別、つまり素材の現存あるいは不在の把握 (知覚) によって、また素材に対応する要素ないし構成体の創出、あるいはそれが行われていないこと (反応、反作用) によって定義されるものである。
この点に関して、もろもろの分子的知覚や、また反応があることは、様に細胞のエコノミーに、そして調節因子の特性に見られることである。
この特性とは、非常に変化に富む外的環境の中から、1つか2つの化学種を排他的に「識別」するという特性である。
だが、結合された、または付加された環境の発達は、ユクスキュルが、そのエネルギー的、知覚的もまた行動的諸特性とともに描き出そうとしたような動物界にまで到達する。
<ダニ>のあの忘れがたい結合された世界、それは落下の重力のエネルギー、汗を知覚するその嗅覚特性、および生物を刺すという行動特性によって定義されるものだ。
ダニは木の幹の高いところに登り、通りかかる哺乳動物に向かってわが身を落ちるのにまかせる。
ダニは哺乳動物を匂いで識別し、皮膚の窪んだところを刺すのである (3つの因子で形成される結合された世界。
それがすべてだ)。
知覚と行動の特性はそれ自体二重挟み、二重分節に似ている。
「結合された環境」を導き出す際に、中心と周縁全体が内外を横断するように「環境」となっていく。これはヤーコプ・フォン・ユクスキュルが、ダニとダニが知覚する環境を一つのユニットとして捉えた「環世界」Umweltである。そこではエネルギーをめぐる環境(中心-周縁のユニット)が移動を続ける。ダニの呼吸は大気という環境をうちに取り込み、外に吐き出す。素材はエネルギー源として知覚され、識別され捕獲されて生命を維持するが、そのためにダニは環境である素材を求めて動き、止まり、待ち、また動いてエネルギーを消費して、自らの死後、その体は素材に回る。
また、グレゴリー・ベイトソンなら人間を例にして「生態」を「人間プラス環境」のユニットと呼ぶだろう。この場合「生態」とは関係のみでできたネットワークであり、どこかに中心があるような固定されるものではな買った。ベイトソンの「生態」をユクスキュルのリカーシブな「環世界」に重ねてみると、中心-周縁を同時に表す「環境」milieuという考え方は、中心も周縁もない「生態」として捉えることもできそうだ。
語り手/チャレンジャー教授は「蜘蛛の巣」という蜘蛛と「結合された環境」を例にして(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』にあるプルーストの「文学機械」は「蜘蛛の巣」に喩えられる。とすれば、ここでの「結合する環境」は「生産する無意識」を仄めかしているのか?)、今度は長期スパンでの変異と適応からなる系統発生に細胞を分割する胚発生の次の段階である「形態発生」を対照させてみせる。つまり個々の生物がその形に至るような発生の段階にも、環境は密接に関係しているというのである。
ところで、この場合、結合された環境は有機的形態と密接な関係にある。
その形態は、単なる構造ではなく、結合された環境の構造化、構成なのである。
例えば、蜘蛛の巣のような動物の環境は、有機体の形態に劣らず「形態発生的」なものである。
確かに、形態を決定するのは環境であると言いきることはできない。
けれども、その輪郭が確かなものになるためには、環境に対する形態の関係がやはり決定的なのだ。
自律的なコードに依存しているかぎりにおいて、形態は結合された環境中でしか構成されず、そのような環境がコードそのものの要請に応じてエネルギー的、知覚的、および行動的特性を複雑な仕方で絡み合わせる。
そして形態が発達するのは、その実質のさまざまな速度と比率を調節する中間的環境を通してのみである。
つまり、形態は、結合された環境の比較的優位性と中間的環境の微分的関係を計量する外部性の環境においてはじめて試練にさらされるのだ。
もろもろの環境は、淘汰によって、つねに有機体に働きかけ、有機体の形態は、それらの環境が間接的に決定するコードに依存している。
結合された環境は、同一の外部性の環境を相異なる形態で分有する。
同じように、中間的環境は同一の形態についてさまざまな比率ないし度合いで外部性の環境を分有するのだ。
けれども、これらの分有が行われるのは同一のやり方によってではない。
地層の中心帯との関連で、もろもろの中間的環境ないし中間的状態は、互いに「上位層」をなし、新たな周辺に対して新たな中心を形作る。
だが、この別の仕方----中心帯が側面と派生物に、また還元不能な諸形態とそれらに結合された環境へと断片化するこの別の仕方を、「傍層(パラストラート)」と呼ぶことにしよう。
今度は、中心帯に固有の限界あるいは膜のレベルで、地層全体に共通する形態上の関係ないし特徴が、もろもろの傍層に対応するまったく相異なる形態または形態のタイプを必然的にとるのである。
地層というものはどれもそれ自体、その上位層と傍層のうちにしか存在しないのだから、これらもまた結局地層と見なされるべきである。
帯、理念的に連続的な地層の環、すなわち<統合態(エキュメーヌ)>----これは分子状の素材、実質的要素および形式上の関係の同一性によって定義されるのだが、寸断され、もろもろの上位層と傍層に断片化されてはじめて存在するのである。
上位層と傍層は、それぞれに指標を持つ具体的機械をともない、異なる分子、特定の実質、還元不能な形式を構成するのである。
有機的形態の発生には「環境」milieuが関与していると語り手がしたり顔でいう時、こちらは自分の外側にある外的環境をイメージしないように努力する必要がある。環境とは度合いと比率からなる関係のみでできたネットワークであり、中心や周縁のような固定可能な場を持たない。その一方で、milieuは中心と周縁を同時に持つ。「帯、理念的に連続的な地層の環、すなわち<統合態(エキュメーヌ)>----これは分子状の素材、実質的要素および形式上の関係の同一性によって定義されるのだが、寸断され、もろもろの上位層と傍層に断片化されてはじめて存在するのである。」
こう考えると「地層化作用」が「統一性と多様性」を同時に含み、断片化して固体化するベクトルと液化してさらに気化するようなベクトルを同時に持つことがイメージできる。「上位層」は固体化する方向で出てくるのだが、「傍層」は固体化が準安定状態にある「中心帯」を組織(有機化)し、それを維持している最中で、すでに別のベクトルに向かう派生物が生じて出てくると考えられているのだろう。
milieuは英訳ではmiddleと訳された。その起源とされるラテン語のmediusは、「中位」を意味し、medium(媒介)に派生していったとされる。真ん中は端っことの関係で真ん中なのだが、それが両者間の移動プロセスという動態的意味になっていったようだ。語り手/チャレンジャー教授は実体概念であり関係概念であるこの言葉milieuを駆使して、道stradaと地層strataをリンクさせ、敷き詰めていくプロセス、重なり合って層を作るプロセス、構造化、形態化のプロセスをまさに重ね合わせるように「作用」させてみせたのかもしれない、・・・もちろん、彼ら自身も複数の層の重なり合いとして「作用」しながら・・・
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今回の落書きでは、言及できなかった事柄を特に多く残してしまったように思う。おそらくは、語り手の小説風の設定と語り手とチャレンジャー教授の重なり合う声の調子のほうに気を取られて(ラップっぽいビードに上手く乗せられている感じで)、彼らの言うことを浅めにトレースすることしかできなかったからだろう。(もちろんこれは言い訳である。哲学的読み込みかたは私には不向きなだけなのだ。)
とはいえ、いつも念頭に置いているのはアンリ・ベルクソンの記憶の円錐図(逆円錐)であることに変わりはない。この図をひとまず回転させることで、記憶の長短を回転の速度によって多層化するイメージを想像しながら語り手の言葉を聞いていくという方針を採用している。が、「道徳の地質学」の前半を終えた時点では、渦巻き世界は胚発生から形態発生までであり、一般に「記憶」と呼ばれるような長期記憶に言及する雰囲気はまだ見当たらないように思える。

が、そこがポイントなのかもしれない。私は長期記憶(エピソード記憶やよくても手続き記憶)から記憶を捉え過ぎる傾向から抜け出していない、ということは自覚できるからだ。短期記憶が作動を続ける渦巻き世界に慣れてきたように思えて、語り手(トリックスター)に突き放されるのは、このような傾向にまだ安易に依存するこちら側の鈍臭さにあるのだろう。
古びた家に移住して、1トン近いゴミを袋に詰めては捨て、さらに倉庫いっぱいに粗大ゴミを放り込みながら、住空間の可動域を広げているつもりで「精神」の「二分法」が有効になるような、平坦で使い勝手の良い、合理的で経済的な空間を目指しているのではないか、と思う自分がいる。そう思わせるのは、梅雨の時期に急激に成長して庭に繁茂する雑草たちだ。花やハーブや野菜や果物という人間側の都合で植えられた植物を優先し、それら根茎植物を刈る自分が、家の中を片付ける自分に重なってくる。
「じゃあ、いっそのこと雑草を育てる庭にしたらいいじゃないか」とトリックスターなら言いそうだ。「そうだな」と梅雨空を仰いで、まずは除草剤を捨てようと思う。。。
※見出し画像は西オーストラリア州カルバリー国立公園にそそり立つマーチソン渓谷の岩壁とされる写真。左下で少女がバンザイしている。引用元は以下の通り。
