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懐手して円錐図見物 -アポロニウス「円錐曲線論」から荒川修作「ダイアグラム」へ-

 空間でも時間でも肉体でもないようなものが、毎秒光の速さでジグザグ動いていくような場がこの世界にあるんじゃないか。フォールディングというのは、こうやって折り紙のように折っていく、永久に開いていくこともできるし、閉じることもできる。開いたら大きくなるとか小さくなる。そういうものではなくて、完全に観念的にそれを話しているわけね。それぐらいのものなら自然にもっと複雑なものがありますよ。たとえば光のなかの光とか。物質ではないけれど・・・・・・ちょうど竜巻のようなものですよ。
あの構造自身が有機物で無機物らしい。そんなものは自然のなかにもういっぱいあるんですよ。

荒川修作×小林康夫「月には春はあるのかねえ」(『ルプレザンタシオン』第3号 1992.4 『幽霊の真理』 p.35)

3度目の入会を果たしたnoteの最初の落書きをした際に考えていたことだが、今回、あちこちで出会う円錐図についてまとめてみようと思い立った。

この落書きの登場人物は登場順に、ペルガのアポロニウス、ヘルマン・ミンコフスキー、アンリ・ベルクソン、パウル・クレー、そして荒川修作である。(なお、ヨハネス・ケプラーとヨハン・ハインリヒ・ランベルトを加えると長くなるので割愛した。)

今回は文字通り、円錐図について思いついたことを羅列した落書きである。それゆえ、仕事でのメモのような無粋なモノローグ文体になっている。また、抽象的な図の解釈が主で、抽象画を読み解くような読みにくい文になっているので、煩わしい場合は個々の図だけでも眺めてみていただければ、、、。

では、懐手してぶらつくように、5つの円錐図に立ち寄ってみたい。



1日目のぶらり アポロニウスからミンコフスキーへ

-幾何学的宇宙としての円錐-


円錐図は数学的にはとても便利だ。というのも、円錐には、切り取り方によって円を起点として、楕円ellipse(=不足するもの)、双曲線hyperbola(=余るもの,超越するもの)、放物線parabola(=一致するもの)の4つの曲線をすべて含んでいると考えられているからである。

アポロニウスの円錐図(コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E5%86%86%E9%8C%90%E6%9B%B2%E7%B7%9A-38198参照)
場合分けするとこんな感じ (PHP online https://shuchi.php.co.jp/article/6028?p=1参照)

ペルガのアポロニウス(BC262-190頃)が「円錐曲線論」でそう考えて以来、ケプラーの惑星の楕円軌道、ランベルトの円錐図法(正積方位図法)、最近ではロケットの打ち上げに要する離心率の計算にもこの図が援用されているという。

ここから2つの円錐をくっつけたこの円錐図を、数学的な説明がさまざまに可能な唯一無二の立体と賛美する考え方も出てくる。

そして、特殊相対性理論を幾何学的に表現したミンコフスキーの「光円錐」図もこの系譜の中で出てきたのだろう。

ミンコフスキー時空(wiki参照)

 ミンコフスキーは、3次元立体であるこの円錐を左右に歪めて動かすことで、時間を含めた4次元として表し、さらに円錐内を光の速度内にある宇宙として記述しようと試みている。(ローレンツ変換によるその動きについては以下の動画を参照。)

動画後半にあるように、歪みや傾きとして動態化すると、ニュートン力学で必要な絶対空間は不要になるということを明確に表せるという利点がある。

一方で、このように幾何学的に4次元的な距離を変化させないようにして動かすような図にしても、それが自分の身の丈の3次元的な距離に代わって作動しているかどうかはわからない。

ただし、ミンコフスキーの考えを考慮に入れると、自分が前提としている3次元的な「距離」やニュートン的な「空間」は、生きる上での単なるルールであって絶対的ではない、というくらいは自覚できる。

2日目のぶらり ミンコフスキーからベルクソンへ

-記憶の宇宙としての円錐-


以上のように妄想すると、ベルクソンがアポロニウスの円錐図から記憶の円錐を発想するモチーフが垣間見えるような気がしてくる。

ベルクソンの方がミンコフスキーよりも先に、アポロニウスの円錐図を用いていたという歴史順序はひとまず脇におく。とりあえずアインシュタインの相対性理論にもコメントしていた彼の記憶の円錐図を、無理やりだが、ミンコフスキーの光円錐に見出そうとしてみる。

つまり、ミンコフスキー時空の下の部分、つまり「過去光円錐」の部分をひっくり返したように「記憶の円錐」を見てみるのである。すると、ベルクソンは円錐内の円にも動きがあると指摘しているように見えてくる。

『物質と記憶』(1896)の中で、記憶の生成についての図について、ベルクソンは以下のように述べた。

点Sで図示される感覚-運動的機構とABに置かれた記憶全体のあいだには、われわれの心的生が反復されたものが無数に存在している、ということであって、それらは、同じ円錐の断面A’B’やA”B”などによって、それぞれ表すことができる。感覚的で運動的な状態からわが身をいっそう引き離し、夢の生を生きるようになるにつれて、われわれはABへと自分を散乱させていく。また、感覚的刺激に運動的反作用で応じながら、目下の現実にいっそうしっかりとわが身を結びつけていくのに応じて、われわれはSへと自分を集中させていく。だが実際には、通常の自我がSないしABという極端な位置のいずれかに自分を固定することは決してない。自我は、両極のあいだを動きながら、中間にある諸断面が表すさまざまな位置をかわるがわる選びとっている。あるいは別の言葉で言えば、イマージュと観念が協力して現在の行為にうまく役立てるように、自分が持っている表象に、ちょうどよい量のイマージュ、並びにちょうどよい量の観念を与えているのである。 

(アンリ・ベルクソン『物質と記憶』 杉山直樹訳 講談社学術文庫 2019.5.9 pp235-236)

 デイヴィッド・ヒュームの経験論で言い換えてみると、円錐の頂点Sは「身体」と呼ばれ、今ここの現在に生じる出来事に直結している。そこで記憶に生じるのは「生き生きした印象」である。それが時間によって「弛緩」して、A’’B’’円からからA’B’の円に広がり(希釈)、「死んだ観念」となってABの円に蓄積される。

ベルグソンの図に動きを与えるために、さらにコメントを加えた図(他の記事でも何度も挙げた図)を重ねてみる。

(独今論者のカップ麺http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/4-71ce.html参照)

上の図では「弛緩」の逆方向の「縮約」(緊張)も加わり、点Sの場所に「身体」と書き加えられ、もっとも弛緩したAB面が「純粋過去」と名づけられる。

ベルクソンによれば、「自我は、両極のあいだを動きながら、中間にある諸断面が表すさまざまな位置をかわるがわる選びとっている」という。
続けて「選びとる」という言葉を言い換えて、「イマージュと観念が協力して現在の行為にうまく役立てるように、自分が持っている表象に、ちょうどよい量のイマージュ、並びにちょうどよい量の観念を与えているのである」ともいう(引用参照)。

この言い換えが気にかかる。

ヒュームの「生き生きした印象」が出来事に重心を置くのに比べると、ベルクソンの「イマージュ」は行動に重心を置いた<感覚-運動>的な考え方という違いがある。それゆえ、ベルクソンでの記憶は身体行為に連動して生じる直観や予期や予想も含む。

一方、点Sの現在における身体について語るのはヒュームもベルクソンも同じだろう。観念についても両者ともに同等に扱っている。観念は身体の感覚-運動から離れて「死んだ」、あるいは「弛緩」して「過去」となった記憶の集まり=デジタル化したデータとして扱うからだ。

まず生きた身体があり身体は環境内に存在する。環境内で身体は行為し、行為は環境と相関するゆえに出来事が起こる。ヒュームとベルクソンが共有する身体と環境の接点Sから、記憶を生と死/弛緩と縮約の動きとして捉えると、認知科学における「感覚-運動システム」に置き換えられる。

ただし、認知科学は記憶をヒュームとベルクソンのように両極の間をスムースに動くようには捉えない。動きはするものの、動きの中に段階または層を設定している。

以下の3つに設定される段階は、ノイマンアーキテクチャのコンピュータの3つのメモリに対応している。 

UX Times 「記憶の多重貯蔵モデル」https://uxdaystokyo.com/articles/glossary/modelofmemory/参照

 上の図はマーケティングや行動経済を学ぶ際によく使われる認知心理学の「多重貯蔵庫モデル」(Atkinson and Shiffrin 1968)だ。ここで、コンピュータから引き出されたこの3つの記憶のダイナミックな連動モデルを、もう少し日常の体験から経験への移行に近づけて想像してみる。

例えば、ウォーキングする身体は、五感で環境を認知するとともに体の動きをかすかに感じている。この動きの感じは短期記憶的な認知まで行かない、すぐに消える感覚記憶に属する。

一方、そのように「想起」できるのは、長期記憶で保存されるように感覚記憶が加工されているからだ。この加工の過程を、ベルクソンのSからABへの弛緩のプロセスに重ねることはできる。

その際、短期記憶はとても幅広く動くA’’B’’やA’B’の面であり、感覚記憶を弛緩させ、長期記憶を縮約する過程そのものとなる(認知心理学では感覚記憶は短期記憶にフィードバックせず、長期記憶は検索というフィードバックを行うという違いがある)。

それだけではない。ベルクソンはAB、A’B’、A’’B’’面をどれも水平に切り取っていた。この水平性を先の引用部分では「ちょうどよい量のイマージュ、並びにちょうどよい量の観念」と呼んで、量的に換算可能な度合いとして表現していた。

すると「ちょうどよくはない」または「よくない」イマージュや観念も考えられなくはない。

例えば、アポロニウスの円錐にあるような斜め(楕円のような「不足するもの」)や、あるいは、双曲線(「余るもの」)や放物線(「一致するもの」)のように、切り取りが中途で終わることはないのか? さらにはジグザグ(ヒイラギの葉のような)に切り取られる場合はないのか?

この問いは確かに稚拙だ。が、稚拙なりに行動と出来事の密接な関係を考えてみると、「弛緩」と「縮約」の動きが不均衡になっても情報が記憶に送られるような作動が形成される余地も垣間見える。

この不均衡は、円錐の中が等質でないことが条件である。この条件が可能なら、行動における感覚記憶には五感における「ちょうどよい量」の情報処理に収まりきれない余剰、または強度として処理されるはずだろう。

もしそうなら、強度は長期記憶を呼び戻す(想起)際の動機にもなりうる。さらに、短期記憶を常に揺るがす今ここの「此性」(ドンス・スコトゥスのhaecceitasのような)として、環境が認知の時空を超えるカオティックな実在を含むことも示唆することができそうだ。

一方で、そんなふうにならないようにするにはどんな条件が必要なのか、という問いも出てくる。

円錐内がある程度均衡が取れている状態を持続する条件が必要になるだろう。ベルクソンが生をテーマとし、生命を探求したということを考慮に入れるなら、エントロピーも考慮に入れる必要も出てくる。

一つの案として、円錐の円が保たれるには、一定速度でこの円錐が<回転を継続している>という条件を加えれば、ある程度イメージ可能になるということはできるだろう。

渦巻き竜巻台風ような回転して動くものとして、円錐をイメージしてみるのである。

3日目のぶらり ベルクソンから荒川修作へ

-身体の宇宙としての円錐-


ここまで来て、ベルクソンの記憶の円錐図がミンコフスキー時空の下側だけを切り取っているように見える時に、どんな違いが両者の円錐のモチーフにあるのかという点に触れてみる(歴史的には、構想はあくまでベルクソンが先なのだが)。

注目したいのは、今まで触れてこなかった「可動平面」Pである。

記憶の円錐図を再喝する。円錐の頂点であり、感覚-運動システムとしての身体Sが接するのが可動平面Pだ。

『物質と記憶』にあるシンプルな記憶の円錐図,下の四角い平面が「可動平面P」

 この平面は、図では四角に区切られている。が、原理上限定された広がりはない。さらに言えば、真っ平らな二次元平面である必要もない。視覚的に直観しやすい言い方をすれば、傾斜があっても凸凹でもかまわない。

というのも、ミンコフスキーの光円錐では、この可動平面Pが不確定な未来に開かれている現在だからである。この時空では、この平面に過去の円錐(下側)と未来の円錐(上側)が裏と表から突き刺さるように垂直に接している。

ここでベルクソンの記憶の円錐に戻ると、不確定な未来に接する身体Sは、平面をただ滑るのではなく、つまずいたり、曲がったり、直進したり、停止したままだったりするような諸可能性の中にある、と言える。

円錐を上からAB面、A’B’面、A’’B’’面と移動しながら、不確定な可動平面Pの不均衡の度合によって、円錐内の空間も等質さを崩し、面が傾いたり、面を作る線が滑らかさを保てなくなったり、途中で途切れたりする。そんなバリエーションを想定することができる。

この面の不確定性を「平面」という呼び方でイメージしやすい二次元平面から解放していくことも必要だ。加えて、ベルクソンの可動平面Pとミンコフスキーの「観察者の現在」を表す「点」とは性質を異にしている点も考慮に入れておく。

すると、ミンコフスキーの設定で現在に位置するのは徹底した視覚的な「観察者」だが(実際は4次元を3次元に置き換えてある)、ベルクソンでは運動し感覚する身体(S)という点が違う。それゆえ、ベルクソンの可動平面は距離空間というよりも位相空間と考えた方がより理解が進むように思える。

(上の設定では、認知心理学の「多重貯蔵庫モデル」における3つの記憶も、混交したり分離したりする動きの残滓となり、その間合いをこちら側から測る操作概念となるだろう。)

さて、ここでミンコフスキー時空の特徴をヘルマン・ミンコフスキー自身の言葉から考えてみる。まず、この時空の図(光円錐)を再掲して、彼自身のこの図に関するコメントを見てみる。

空間と時間に関し私がここで展開したいと思っている視点は、実験物理学の土壌から芽生えたものであり、その力強さを内に持っている。この視点は革新的なものであり、これからは空間それ自身であるとか時間それ自身であるとかいったような概念は陰にすぎないところへと消え去っていくことになる。そしてこの両者を合わせたもののみが独立した実在としてあり続けることになる。

( ヘルマン・ミンコフスキー Assembly of German Natural Scientists and Physicians, 1908年9月21日 wikiより引用)

ポイントは、この時空が「空間それ自身であるとか時間それ自身であるとか言ったような」従来のユークリッド時空とまったく異なるというミンコフスキーの主張だ。ミンコフスキー時空からすればユークリッド時空は「陰にすぎないところへ消え去っていくことになる」という。

この場合の「」が数学的な射影ではなくもっと消極的な幻影の意味を持つ。ただ、ユークリッド的な3次元空間に時間を付加したものとして相対論的時空をイメージすることを、ミンコフスキーが拒絶していることは物理学の知識の乏しい読み手にも伝わってくる(直感的に把握するためにそんな説明をされることは今も多いが)。

さて、この時空にトポロジー(位相)から接近する際に重要なのは、「観察者」の設定である。この「観察者」は場所を占めるがどんな生体構造でどんな知覚を有するのかは問題にされていない。

つまり、生命として考える場合、場を占めるが視覚しか持たないような「観察者」であり、言ってみればカメラのような視覚機能を持つ機械として設定されている。(伝統的には身体を持たない、天使のような設定にも思える。)

この「観察者」の点が身体(S)となることで行為が可能になる、と考えると、未来へ向かう円錐が消えて過去に向かう円錐の方が残り、現在と過去を動く生命体としての「行為者」が形成されると考えられる。そんなふうにベルクソンの記憶の円錐をミンコフスキーの光円錐から捉えてみる。(安易かつ強引なのは承知で。)

すると、ミンコフスキーの「観察者」の平面がベルクソンの「行為者」が立つ「可動平面P」に変換される際、未来の円錐が可動平面Pでの身体Sの外側として現れる、と考えることができる。(あくまで仮止め的考えだが。)

ならば、可動平面Pは距離のない広がり、つまり予測の効かないトポロジカルな現在 -未来が未知のものとして可動平面に「浸透」している「現在」- として捉えることができそうだ。

この点は、円錐の内部にしか記憶が届かないということを、円錐の外部として可動平面Pを置いたこの図の描き分け方から、ある程度想像できる。

身体を基点とした表現では、「純粋過去」と呼ばれる弛緩した記憶のAB面が想定する平面と直線からできた世界から逸脱する、凸凹と傾斜に満ちた偶発時が起こる位相と想定される。というのも、可動平面Pが未来へ向かう光円錐を「浸透」させると、それは「行為者」にとって「未知」となるからである(知ることが可能な「未知」かどうかは別として)。

こうすると可動平面Pは、仮に観察者から見れば、時間と空間が混ざり合い、長さや量で表現できない伸び縮みする位相として捉えられることが可能になる。また、身体を基点とすれば、記憶の弛緩/縮約(緊張)という運動を行為者の身体の行為の効果として捉える、という利点もある。

そうして、この記憶の円錐が回り続ける竜巻のようなものだとしたら・・

さて、ここからが問題だ。

ベルクソンの記憶の円錐をミンコフスキーの光円錐にダブらせながら、ずっと念頭に置いていたのは、荒川修作のダイアグラム作品に描かれた円錐図なのである。

荒川の「ダイアグラム」と呼ばれる一連の作品群では、円錐図は2つの円錐が頂点をふれ合って対称性を作り出すようなアポロニウスの円錐図を上下から圧して両頂点を互いの円錐内に陥入させたような形になっている。

荒川修作「細部かまたは/モデルの/距離を実体化して/または重量を具体化する/・・・・・・の呼びかけ」の部分(1977-79 カンヴァス,油彩,アクリル)

 上の作品の一部に円錐と逆円錐が垂直に交差し、重なり合う2つの図があり、他の作品には円錐が回転してできた軌跡のような線や、四方八方に線を放射する円柱の図もある。

さて、ルビコンの橋を渡るときだ。

ポイントは、この円錐を、「渦巻き」を抽象的に表した形として見てみることにある。つまり数学的に見てきたこの円錐を、運動力学の方にシフトしてみるのである。もちろん、ベルクソンが記憶の円錐の頂点に行為者を設定した際に、このシフトは起こっていたはずだ。

渦巻きは、大きく渦を描いている部分ほど回転速度がゆっくりと緩慢になる(台風をイメージして動かしてみるとよい)。一方、小さく渦を描いている部分ほど回転速度は猛烈に速い。

ベルクソンの円錐図で言えば、上にあるAB面は速度が緩く、視覚程度の速度認知で記憶される程度のデータがひしめいている。一方、下に行くほど円錐の直径が狭くなり、つまり回転速度が速まり、視覚の認識を超えていくので、視覚データ中心の意識的な認識面ではパニック、または「頭が真っ白」な状態に陥りやすくなる。

すると、記憶の円錐が着地する可動平面Pはとてつもない速度かさまざまな速度で動く世界であり、それが認識の外と呼ばれる世界だということになる。

ここまでは、速度から見た認識論のアプローチである。

円錐図が渦巻状で速度をもつと考えるのは、この回転における静止状態(激しく止まっている状態)が、ベルクソンを通してみると、生の状態(エントロピー宇宙における生のホメオスタシス)として捉えることができるからだ。

4日目のぶらり パウル・クレーから荒川修作へ

-変化する環境と旋回する身体としての円錐-


ここで、渦巻きの回転速度を円錐に与えて色彩の認識をダイアグラム化したパウル・クレーを経由して、荒川の「ダイアグラム」を重ね合わせて見たい。

著書『造形思考』で、クレーは色彩をグラデーションとして捉えた。クレーが参照したのはゲーテの色相環である。

ゲーテの色相環 (『色彩論』ちくま学芸文庫)

ゲーテの色相環では、赤と緑という補色関係にある2色を両端におくとする。そうして両者を徐々に近づけていくと、互いが少しずつ混ぜ合わさって、ちょうど真ん中で灰色になる。

クレーはこの環を回転させて、赤、黄、青の回転する円として捉え直し、その混ざり合いが多様な色彩を生み出し続けると考えた。

パウル・クレー「全体性の輪唱」(『造形思考』下 ちくま学芸文庫 口絵11,本文はp.273
使用した図は文字部分のドイツ語を和訳したもの)

この色分けされ、ゲーテの静止した円環を水平に中央に置いて回転させている。そしてそれを貫くように、明暗を表すを割り当てた2つ円錐が上下から互いに陥入させて、明るさの度合いでも色彩が変わるようにした。

こうして出来上がった円錐図は、万物の色彩が移り変わる情態として、運動学的に認知が可能になる、とクレーは考えたようだ。クレーはこの物体なき運動力学を、音楽的運動として語る。

 どの色もその色のゼロ地点、つまり隣接する色の頂点から最初はごくかすかに始まり、そして頂点に向かって高まっていくが、頂点に達すると、再びゆっくりとゼロ地点へ消えていく。これまた隣接する別の頂点である。わたしがこのクレセンドとディクレセンドの現象に自然主義的なフォルムを与えようと、それも正確な、あるいは人工的な、段階づけられたフォルムを与えようと同じである(もちろん、正確な支点はあるが)。(中略)
ところが今、これになお、あるものが付け加わる。つまり、色は円上では、鎖によって見えるのとは違って、単声で響くのではなく、一種の三声音となって響く。(中略)
このように色をひとつのものとして表現すれば、三声音の連動がよくわかり、その経過をたどることも容易となる。それぞれの声は輪唱(カノン)のように相次いで始まる。それぞれ3つの主要点でひとつの声は頂点に達し、別の声が静かに入ってきて、第3の声が消えていく。この新しい図形を全体性の輪唱といってよい。

パウル・クレー「円周上の色の運動、色の全体性の輪唱(カノン)」(『造形思考』下 ちくま学芸文庫 pp.272-275)

回転体としてのクレーの色彩世界で注目したいのは、陥入し合う円錐同士の周りで3つの色彩が回転してできるその中心に灰色が置かれて、「カオス」と呼ばれている場所だ。

闇を表すの円錐の底面に光(明)を表すの円錐の頂点が突き刺さり、闇の中に微かな光があると同時に円錐の回転は速度が限界に達する。光を表す白の円錐に突き刺さる黒の頂点も同様だ。

そして、その中間に中間の速度で白と黒が混ざり合う灰色のカオス」がある。

さらにその周りを赤、青、黄の3色からなる色相環が、まるで「ベンハムの独楽」さながら回転してさまざまな色彩を生み出している。

ここでベルクソンの記憶の円錐を振り返ってみる。

すると、クレーのいう「カオス」と名付けられるものがあるとすれば、あの「可動平面P」にあたるだろう。が、そう考えてからクレーの色彩の「全体性の輪唱」の円錐図を見直すと、「カオス」は円錐の外にではなく、その内側の真ん中あたりにあることに気づく。

ベルクソンの円錐は感覚運動から記憶に移る運動に関する図であり、クレーの円錐は知覚と環境の関係に関する図だった。とすれば、人間の認知は内側にあるカオスを外化してしまう働きがあるのだろうか? (クレーは色彩と感情を同等に考えるために、音楽から色彩を考えたのだろう。)

2つの円錐図を見比べながら、そんな妄想も湧いてくる。ここから、まだ何の検証も反証も経ない(できない?)この生まれたての素朴なイメージを、もう少し引っ張ってみる。

すると、カオスを抱えて多元的で多層的な生命体としての人間(クレー)が、カオスに触れながら単独で存立しているように振る舞い、外化された環境というカオス上で不安定に生きながら、記憶の伸縮を繰り返している(ベルクソン)ように見えてくる。

環境と感覚が相即するクレーの色彩-感覚の円錐図のカオスの周りには、色彩が環を描くように回転していた。

渦を巻くことで、円錐内の非等質的なものたちが均衡維持していた。

カオスとコスモスの相互的な「浸透」(オズモーズ)、混沌と秩序の相互浸透としてのヒト-生命体。「カオスモーズ」というのは、こういう多数性・多元性(plurality)を指すのかもしれない。

クレーの回転する円錐図がコスモス(秩序)とカオス(混沌)の関係は、回転速度やその強弱で刻々と変わりうる、ということも表しているのだろう。変化を想定内/想定外でデジタルに区別する意識のルールも、内なる外と外化した外によって変わっているはずだ。

脳や意識からではなく、身体から世界を作ろうとすれば、世界はそんなふうに捉えることができる。

5日目のぶらり中 ダ・ヴィンチ⇆荒川修作

-渦巻く様々な宇宙としての円錐-


さて、ここから身体から世界を建築しようとする荒川修作の「ダイアグラム」作品に向かうとどうなるか、だが・・・

 その前に、荒川が生涯念頭に置いていたレオナルド・ダ・ヴィンチの水力学的な渦巻き(乱流)の動きの研究から始める必要がありそうだ。 

レオナルド・ダ・ヴィンチ『レスター手稿』にある落ちる水の淀みにできる乱流のスケッチ 

そこから、クレーのような相互浸透する2つの円錐がさらに上下に重なったり、一つの円錐の頂点が別の円錐の底面に届かずに途中まで陥入しているような図のようなバージョンを考えるのも面白そうだ。先に挙げた画像をもう一度見ても(下に再掲)、クレーの円錐図と似ていて、なお異なっている。
下側の円錐の円周が途切れて回転しながら矢印のついた2つの曲線として上昇し始めているのだ!

前掲


それから、ダイアグラム作品内で円錐同様に存在感がある円柱(円筒)についても・・・

さらには、四方八方に放射されるたくさんの線についても・・・etc.

 

Work in progress…………


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