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D/Gに巻き込まれる103-『千のプラトー』「1 序----リゾーム」 3:流体世界の「地図」を作ると瞬間も線(流線)になる-

それにしてもわれわれは、地図と複写を、まるで良き面と悪しき面といったふうに対立させることによって、単なる二元論を再現しているのではないか?
複写しうるということは地図本来の持ち前ではないのか?
根と交叉し、ときとしてそれと一体になることはリゾーム本来の特徴ではないのか?
地図というものは冗長性の現象を含んでいて、それらがすでに地図それ自体の複写なのではないか?
多様体にはそれなりの地層、そこに統一化と全体化、集団化、擬態のメカニズム、権力の意味志向的奪取、主体への帰属化などが根づく地層があるのではないか?
さまざまな逃走線でさえも、それがまちまちの方向を向いているせいで、それが解体し転回させることを役割とした組織体を複製することになるのではないか?
だがその逆もまた真であり、問題は方法なのである——複写をつねに地図にもどさなければならない
そしてこの操作はいま見た操作と対称をなすものではまったくない。
なぜなら厳密に言って複写が地図を複製するというのは正確でないからだ。
複写は写真やラジオのように、それが複製しようとするものを、人工的な手段、色素とかその他の制限方式の助けを借りて選別ないし分離することから始めるものである。
モデルを作り出し、引き寄せるのは、つねに模写する側なのである。
複写はすでに地図をイマージュに翻訳し、リゾームをすでに根や側根に変容させた。
複写はその軸である意味性と主体化との軸にしたがって、もろもろの多様体を組織し、安定させ、中和させた。
リゾームを生み、構造化したのだ。
そして複写は何か別のものを複製しているつもりでいるときも、すでに自分自身しか複製していないのである。
だからこそ複写は実に危険なのだ。
それは冗長性を注ぎこみ、それを伝播繁殖させる。
複写が地図ないしリゾームから複製するものは、単にその袋小路、閉塞、回転軸の萌芽、ないしは構造化の諸基点などである。

ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ「序 リゾーム」(『千のプラトー』上巻 pp.35-36)

(※『千のプラトー』は1つのパラグラフが長いので、「D/Gに巻き込まれる」と題される一連の「落書き」では1文ずつ改行して引用している。なおパラグラフの区切りの場合は1行空けてある。)

前回は文庫版『千のプラトー』上巻の28pまでさまよってみた。その際、「酔い」が入るような姿勢で臨んだ。というのも<一と多>から<一>を差し引くという「n-1」なるこの本の考え方を体感するには焦点を<一つ>に絞りにくい状態が流体世界の設定では手っ取り早いと思ったからである(実際、まあまあ酔ってキーを叩いていた時もあった)。その後もこの感覚をちょっとどこかに残しておくと、「陶酔」とまではいかないが、二日酔いのいい感じの感覚で、この渦巻き世界をさまようことに慣れてきている自分がいた。

というのも、不意に登場する不可解な概念よりも、植物的な「根」のイメージに沿って、自分の考えだけでなく身体の方も環境と関係し始めたように感じたからである。道を歩くとき、ついしゃがんで道端の雑草を見ることは今までも度々あったが(これまでもその複雑な形態に驚くことがあった)、根の複雑さまでイメージして雑草を見ることは稀だった。それが歩くたびに思い浮かぶようになったのである。

すると、電線も、道も、人や車の動きも、線のモジュールに見える。鳥の羽ばたきや虫の動きの方が人が作ったものより複雑な線を描くということも。学生時代にクロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』La Pensée sauvage“という本を手にとった時、「野生のパンジー」という二重の意味にクスッと笑い、釣られて著者の名前にとあるジーンズブランドを思い浮かべたことがあった。あの時ふとよぎったのは、著者が野生のパンジーの「根」の方に「構造」を見ているのかな?という言葉にもならないような一瞬のイメージだった。

移動しながら前回の「落書き」を書いている最中、時を飛び越えてそんな感覚が湧き上がってきた。植物たちが自分の中に入ってくる。そんな「酔い」が回ったのだろう。(『千のプラトー』でよく出てくる、いわゆる「草で酔った」のではない。) さて、今回からはできるだけスピリタスの力は借りずに「水」(ミネラルウォーターで代用)、または「コーヒー」に酔いながら「落書き」をしていければ、と思う。

前回は語り手(トリックスター)がニ色の声で聴き手を挑発しながらちょっと政治的トーンを強めて「根」、「側根」、「根茎」をシュプレヒコ―ルっぽく語る言葉の群れが仄めかす流体的な異界を、少々酔っぱらいながらさまよった(「リゾームを一応6項目に分けて語る中の「1°および2°----連結と非等質性の原理」「3°----多様体の原理」)。今回はコーヒーで酔いながら、「4°----非意味的切断の原理」からフラフラさまよってみたい。(ついオノマトペが出てきた。)

「4°」のタイトルになっている「非意味的切断の原理」というのは、「あまりに意味をもちすぎる切断」によってできたデジタル社会に流通している原理でないことは確かだろう。「切断」が「対象を指し示すために環境全体からパターンを取り出すこと」ではないということだろう。(いつものごとく、グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学へ』の学習理論での「学習 II」の段階をイメージするなら、だが。)

さて、トリックスターのご登場だ。

4°----非意味的切断の原理。
これは諸構造を分かち、あるいは1つの構造を横断する、あまりに意味をもちすぎる切断に対抗するものだ。
リゾームは任意の1点で切れたり折れたりしてもかまわない。
それ自身のしかじかの線や別の線にしたがってまた育ってくるのだ。
蟻を相手にしていると際限がないのは、それが動物的リゾームを形作っていて、その大部分が破壊されてもたえず再形成されるからである。
どんなリゾームも数々の切片線を含んでいて、それらの線にしたがって地層化され、領土化され、組織され、意味され、帰属させられている。
けれどもまた脱領土化の線も含んでいて、これを通してたえず逃走してもいるのである。
切片線が逃走線の中に破裂するたびにリゾームにおいて切断がおきる。
けれども逃走線はリゾームの一部分をなしている。
これらの線はたえずお互いにかかわり合っているのだ。
だからこそ、たとえ善悪という初歩的な形のもとであれ、二元論ないし二分法を盾にとることはできない。
切れめを作り、逃走線を引いてみる。
けれどもつねに、その上に全体を再地層化する諸組織や、1個のシニフィアンに権力を再賦与する集団や、1個の主体を再構成する貴族などをまたも見出すおそれがある----オイディプスの復活からファシズム的凝結に至るまで、望み次第なんでも。
グループも個人も数々のミクロ・ファシズムを含んでいて、それらはただもう結晶するだけでいい。
そう、はまむぎもまたリゾームなのだ。
善と悪とは積極的かつ一時的な選別、何度でもやり直すべき選別の産物でしかありえない。

(同上pp.28-29)

今度は様々な「線」がお出ましである。そして語り手は流体世界の中でも比較的固化した「構造」も液状化するような度合いでできていることについて話し始めている。「切片線」lignes de segmentaritéはセグメント化つまり細分化するという意味で切れ目を入れる線であり、「逃走線」 ligne de fuiteは漏水や情報漏洩の際に英語のleakと同様に用いられるfuiteの線だという。そしてこの世界では遠心力と求心力(または斥力と引力)がかかるのか、線自体にその力があるのか、(否、両者の関係だろう)、「線」は脱領土化したり再領土化したりするという。。。

多様体世界を線の運動として示そうとする語り手は、身体を静止させると同時に対象を静止したものとして把握する姿勢が作り出す「点」の思想を批判しているのだろう。この流体世界では「点」も激しく止まっているだけなのだ(シェリングっぽく言うと)。すると地層や気層を分つ「切片線」、そこから漏れ出るように流れ出す「逃走線」は別々のものではなく、「これらの線はたえずお互いにかかわり合っている」ことがわかってくる。

トリックスター(語り手)が次々と登場させるいくつかの「線」たちには、実を言うとこちらはちょっとした先入見を持って付き合い始めているところがある。『千のプラトー』を異界として設定し、異界を渦巻きのような流体世界として想像した時から、『アンチ・オイディプス』以来、語り手が「線」というときは、渦巻く線、つまり瞬間の方向性を表す速度ベクトルとしての「流線」streamlineを、ひとまずはイメージするようにしているのだ。

例えば、航空便の経路を世界地図上に描くときの曲線の束が「流線」の一つであり、その束でできた流体領域は「流管」と呼ばれ、流線の跡(川の流れを示す浮遊物のような)は「流体分子」の移動の軌跡のような言い方をする。ので、『千のプラトー』に関する「落書き」では、ひとまずこの考え方を流用することにしたのである。

流線の例 (脱領土化し再領土化する場合)https://www.wingfield.gr.jp/archives/11321参照

語り手は、線でできたこの流体世界ではどんなものにでもなり得るが(「オイディプスの復活からファシズム的凝結に至るまで、望み次第なんでも」)、不変なものは何もないという不変則を導出する(たぶん笑いながら)。「善と悪とは積極的かつ一時的な選別、何度でもやり直すべき選別の産物でしかありえない。」 するとトリックスター(語り手)は、「領土」という言葉をめぐる動きも「線」で表されると言う。どうも双方向性の話のように聞こえる。 ひとまず「切片線」と「逃走線」の関係については脇に置いて耳を傾けてみる。

どうして脱領土化の動きと再領土化の過程とが総体的なものであり、絶えず接続され互いにからみあっているものでないわけがあろう?
蘭は雀蜂のイマージュやコピーを形作ることによって自己を脱領土化する。
けれども雀蜂はこのイマージュの上に自己を再領土化する。
とはいえ雀蜂はそれ自身蘭の生殖機構の一部分となっているのだから、自己を脱領土化してもいるのだ。
しかしまた雀蜂は花粉を運ぶことによって蘭を再領土化する。
雀蜂と蘭は、非等質的であるかぎりにおいてリゾームをなしているのである。
蘭は雀蜂を模倣していて、何かを意味する仕方 (真似、擬態、おとり、等々) で雀蜂の似姿を再生していると言うかもしれない。
しかしそれは地層の水準において言えることにすぎない----一方の層における植物的組織がもう一方の層における動物的組織を模倣しているという形で、2つの層の間に平行関係があるというわけだ。
これと同時に全く別なことが問題になっているのだ----もはやまったく模倣などではなく、コードの捕獲、コードの剰余価値、原子価の増量、真の生成変化(ドゥヴニール) 〔なること〕、蘭の雀蜂への生成変化、雀蜂の蘭への生成変化があって、これらの生成変化のおのおのが2項のうちの一方の脱領土化ともう一方の再領土化を保証し、2つの生成変化は諸強度の循環にしたがって連鎖をなしかつ交代で働き、この循環が脱領土化をつねによりいっそう推し進めるのだ。
そこには模倣も類似もなく、1個の共通のリゾームからなる逃走線において2つの異質な系列(セリー)が炸裂しているのであり、この共通のリゾームは意味にかかわるどんなものにも帰属せず、従属もしない。
レミ・ショーヴァンはこう巧みに言っている----「お互いにまったく縁もゆかりもない2つの存在の非平行的発達」と。

(同上 pp.29-30)

引用に入る前に「双方向性」などと言ったが、そんな安直な言葉は「点」を基点とした静態的世界の考え方だった。ここは流体世界であり、リゾームの話題が続いているということをうっかり忘れていたのである。ざっと読んでふと『アンチ・オイディプス』では「切片線」 lignes de segmentaritéは「モル状」で固化へ、「逃走線」 ligne de fuiteは「分子状」で液化へ伸びていくような話だったことを思い起こす(うろ覚えだが)。流線(速度ベクトル)としてイメージし直してみる。

(※ちなみに「コードの剰余価値」については『アンチ・オイディプス』で、労働者を必要賃金以上に働かせることで利潤が生まれるマルクスの剰余価値同様、様々な規範としてのコードを貨幣に脱コード化して資本主義は「流れ」を作るとされる(「流れの剰余価値」:ただし、この考えは直接マルクスからでなくE・バリバールの形式的/実質的「包摂」を経由していると昔教わった)。が、この「落書き」は分裂症(統合失調症)の方向から入っているのでやや遠回りになる。が、最近『資本論』全巻を邦訳で再々通読し終えたので、「流れ」の側から入る手順でいずれ触れることになるとは思う。)

(※蛇足だが、上の引用では、「コードの剰余価値」「原子価の増量」に置き換えて化学の原子レベルでの原子結合での足の増加(主に酸化)でイメージさせるところが面白い。原子価がさらに増量すると果てはどうなるか、周期表を辿るように促されるからだ。)

すると、脱領土化や再領土化の運動の「線」も、「切片線」や「逃走線」と同様、粒子の密度として度合い的にイメージしてみろということかな、とトリックスターの表情を読み取ろうと試みながら。想像の方が先走り始める。もし「線」にも粒子の度合いがあってこの流体世界が液化と固化という多様体的な運動を繰り返しているのなら、線は硬くなったり柔らかくなったりするだけではなく、気化して「線」すら姿形がなくなる場合もありそうだ、と(「器官なき身体」?)

領土化が地層のようなゆっくりとした流れに固化していくとするなら、そのようなゆっくりとした領土にも運動があり、それらが2つの運動が「脱-」「再-」2つの「領土化」と呼ばれる、という感じで今は仮止めしておく。とはいえ、ふと出てきた『アンチ・オイディプス』からの連想は、「蘭と雀蜂」の例を理解する上で、意外と使えそうな気がする。そして後々は、例の「量化」という道具も。

「蘭と雀蜂」の例は「点」を基点とした「精神」の「樹木のイマージュ」の一方向的で同質なものを前提としたコミュニケーション(オリジナルとコピーの)への批判だけではなく、双方向性もまた「点」を基点としていることにも気づかせてくれる。両者の共進化関係は、生き物として異なる種に属する異質な両者の交流と変容によってレミ・ショーヴァンのいう「非平行的発達」を作動しているというのである。その際、異質な両者の作動プロセスを、語り手は「脱領土化」「再領土化」の2つの「線」の動きとして素描しているのである。
※昆虫学者レミ・ショーヴァンについては英語版Wikiを参照。

語り手は暴走気味に大風呂敷を広げる。というのも、この個体発生的なコミュニケーション・プロセスから系統発生的な進化のプロセス全体、つまり「系統樹」のダイアグラムで表される進化のプロセスを、「脱領土化」「再領土化」の「線」で記述し直そうとするのである。

より一般的にいえば、進化の図式は、樹木と血統という古いモデルを放棄しつつあるのかもしれない。
ある種の条件では、何かのウィルスが生殖細胞に統合されて、みずからを複合種の細胞遺伝子として伝達することもありうるし、さらに、そのウィルスが逃れ出て、まったく別な種の細胞に入りこみ、しかもその際、最初の宿主から来た「遺伝情報」を携えているということもありうる (例えば、Cタイプのウィルスが、狒狒のDNAおよびある種の家猫のDNAに二重に結合される場合について、バンヴェニストとトダロが行いつつある研究がそうだ)。
進化の図式は単に、分化の度合いの最も小さいものから最も大きいものへと進む樹木的血統のモデルにしたがって作られるばかりではなくて、異質なものに直接働きかけ、すでに分化した1つの線からもう1つの線へと飛び移るリゾームにしたがってつくられることになろう。
ここにあるのもまた、狒狒と猫との非平行的発達であって、そこでは明らかに一方が他方のモデルではないし、片方がもう一方のコピーでもない (猫における狒狒への生成は猫が狒狒の「ふりをする」ことを意味するものではあるまい)。
われわれはわれわれのウィルスでもってリゾームを形成する。
あるいはむしろわれわれのウィルスが他の動物たちとともにわれわれをリゾームにするのだ。
ジャコブが言っているように、ウィルスあるいは他の方式による遺伝素材の転送、相異なる種からくる細胞の融合は、「古代や中世にお馴染みの、人倫にもとる愛」がもたらしたものと似た結果をもたらす。
分化した線の間での横断的交通は血統樹を紛糾させてしまう。
つねに分子的なるものを、あるいは分子下の微粒子さえも探しもとめ、それと結託すること。
血統による病やそれ自体を後の血統に伝える病によってよりも、多形態的かつリゾーム的な流感によって、われわれは進化し、かつ死ぬ。
リゾームは1つの反系譜なのである。

(同上 pp.30-31)

「非平行的発達」とは異質なものの絡み合い、つまり「リゾーム」状のコミュニケーション・プロセスだった。異種間の共進化関係を「蘭と雀蜂」から「狒狒と猫」へとシフトさせる時、トリックスターはDNAレベルでの「非平行的発達」の場面に話を移している。その際コミュニケーションは、体細胞よりもさらにミクロレベルへと微視化される。「線」を「分子状」の「逃走線」モル状の「切片線」に区別した『アンチ・オイディプス』を思い起こすと、トリックスターは「逃走線」の方へとこちらを誘っているようである。

「切片線」によって領土化し、「地層」となったゆっくりした流れの中でも、微視レベルでは「感染」に見られるような脱領土化と再領土化という相互浸透的なコミュニケーションがあるというのである。さらに語り手は続け様に、「分化した線の間での横断的交通は血統樹を紛糾させてしまう」、と思い切ったことをぶち上げるのである。既製の価値を転倒させようとする革命に匂いがあたりに満ちる。系統樹思考自体を書き換えるというよりも、民衆の蜂起を煽るような口調に聞こえる。

一方、異種間同士の「人倫にもとる愛」は人間同士の背徳的な不倫行為にとどまるものでないことも多少はわかる。「古代や中世でお馴染みの」とあるようにヒトと他の種との性愛的な交流をも仄めかすからだ。種ごとに分岐する系統樹思考にとって、「感染」という異質なものによる進化がリゾーム的な「反系譜」とされるのは、そのためもあるのだろう。

また、語り手はフランソワ・ジャコブの細菌の抗体研究(J・モノーとの共同で)から発見されるmRNAの役割を念頭に置いているようだ。mRNAワクチンは現代の我々にはあまりにもお馴染みだ。コロナ禍の時期、私の体内にも注射針から何度か入ってきたことがある。確かに、ウィルスを介した「人倫にもとる愛」は生きる中で日々行われているのである。当惑するこちらを引っ張り込むようにして、トリックスターはミクロ政治学的な場に連れてきたのである。

その後、渦巻き世界がまた一回転したのか、話は「本」に戻る。そして「脱領土化」と「再領土化」の運動は異質なものを互いに絡み合わせる「非平行的発達」はさらには「生成変化」とも言い換えられることになるだろう。そして長かったリゾームの性質に関する「4°----非意味的切断の原理」の最後には、カルロス・カスタネダ『呪術師と私----ドン・ファンの教え』が引用されるのだが、その直前で引用を区切ってみるとちょっと面白い。

本と世界についても同じことが言える----本は、根強く信じられているように、世界のイマージュなのではない。
本は世界とともにリゾームになる。
本と世界との非平行的進化というものがあるのだ。
本は世界の脱領土化を確かなものにする。
けれども世界は本の再領土化を行ない、今度はその本がそれ自体として世界の中でみずからを脱領土化するのである (本にその能力があり、なおかつ実際にそうできるならば)。
擬態は、二元論的論理に従属しているので、まったく異なった性質を持つ現象に対しては実にまずい概念である。
鰐が木の幹を再現しているわけではないことは、カメレオンが周囲のさまざまな色を再現しているのではないのと同じである。
ピンク・パンサーは何を真似しているのでもないし、何を再現しているのでもない。
世界を自分の色に、ピンクにピンクを重ねて塗っているのだ。
それは世界への彼の生成変化であり、その結果彼自身が知覚できなくなり、非意味的になり、自己の切断や、固有の逃走線を生み出し、彼の「非平行的進化」を果てまで持っていくのだ。
植物たちの智慧----たとえ根をそなえたものであっても、植物には外というものがあり、そこで何かとともに----風や、動物や、人間と共にリゾームになる (そしてまた動物たち自身が、さらに人間たちが、リゾームになる局面というものもある)。
「われわれの中に植物が圧倒的に侵入するときの陶酔」。

(同上 pp.31-32)

ここにリゾーム的な生成変化の例としてよく引用される「ピンクパンサー」が出てくる。「世界を自分の色に、ピンクにピンクを重ねて塗っている」というのは、名としての「ピンクパンサー」でも対象として背景から区切られるそれでもない。そんな自己と対象を区別する静的な長期記憶に送られることなく、運動しつつ作動する感覚記憶にとどまる色彩としての「ピンクパンサー」を、知覚が区別しづらい例として示している。世界が赤に占められれば狂気を示し、漆黒になれば・・・そのような状況は、前景と背景を区別し対象を確定する知覚の正常な作動を見込むことはできない。

※『ピンクの豹』(1964)のオープニング序盤で、ピンクパンサーはピンクの中から登場し、中盤ではピンクのペンキで文字を書き、終盤では濃いピンクの中で動き回る。

ここで「本」が出てきたのはカスタネダの著書に関する論争が語り手(トリックスター)の念頭にあるのではないか、とふと思う。カスタネダの本の主人公ドン・ファンが実在するかどうかという論争だ。が、語り手はそこに世界から対象を区別し、オリジナルとコピーを区別する「精神」の「二分法」を見出して、むしろそれを掻き乱すカスタネダの方に接近していく。

ペヨーテを吸って覚醒状態に入るドン・ファンと甘口のマテウス・ロゼを飲んでドン・ファン・マトゥスを発想したというカスタネダは、サボテンとブドウという「植物」とヒトとの異種の共進化を果たしている。「われわれの中に植物が圧倒的に侵入するときの陶酔」。それは「本」を真偽の区別から解放し、リゾーム状にすると語り手は言うのである。カスタネダはいう。「もっと先で、そのあいだにあった植物が今度は自分の種子をまき散らすとき、きみはこれらの植物の1つ1つから発する水の流れにしたがうことによってきみの領土を殖やすことができるだろう。」(同上 p.32)

「根」を持ち、液化し、気化もする「植物」は、私たちを流体世界にふさわしいリゾーム状へ変容させる生き物なのだろう。私たちを地層的世界から脱領土化させ、流体世界に再領土化させる植物たち。。。

そんな「酔い」へとこちらを誘いながら、トリックスター(語り手)は、今度は大上段から「精神」の「二分法」を振り回すような口調に変わって、「地図作製法」cartographiと「複写術」décalcomanieは異なる、と叫び始める。後者の言葉を耳にするとマックス・エルンストや瀧口修造の作品を思い起こしてしまうが、どうもちょっと違う。複写reproductibleと言い換えるところからも語り手は資本主義の再生産の方に関連させているようだ。まずはその「原理」から傾聴しよう。冒頭から批判のトーンもだいぶ高めだ。

5°および6°----地図作製法および複写術の原理。
1つのリゾームは構造的または生成的な、いかなるモデルにも依存しない。
リゾームは生成軸とか深層構造といった観念とはおよそ無縁である。
生成軸とは継起的な段階がそれにもとづいて組織される客体的回転軸的統一のようなものであり、深層構造とはむしろ、無媒介の構成物に分解しうる基礎のつながりのようなものであり、その一方で産出されたものの統一性は別の次元へと、つまり、変形を行なう主観的な次元へと移行する。
こうして人は樹木、あるいは根----直根ないしひげ根という表象的モデルから一歩も出ていないのだ (例えば、チョムスキー的な「樹」がそうで、基礎のつながりに結びつけられ、二元論的論理にしたがってみずからの産出の過程を表象している)。
実に古めかしい思考の変種にすぎない。
生成軸あるいは深層構造について、われわれはそれらがまず何よりも複写の原理、無限に複製可能な原理であると言いたい。
樹木の論理はすべて複写と複製の理論である。
言語学においても精神分析においても、この論理の対象はそれ自体表象的な無意識であり、コード化された諸コンプレックスとなって結晶し、生成軸上に配置され、あるいは連辞的構造の中に配分された無意識である。
この論理の目標は現実の状態を叙述することであり、相互主観的諸関係の均衡を回復することであり、あるいは記憶と言語の暗い片隅にひそんでいて、すでにそこにある無意識を探ることである。
この論理は、すっかり出来上がったものとして手に入る何ものかを、超コード化する構造から出発して、あるいは支えとなる軸から出発して複写することに存している。
樹木はさまざまな輻射を分節し、かつ階層化する。
複写の方は樹木の葉のようなものだ。

(同上 pp.33-34)

土の下にあるという比喩としての「根」、このイメージを思考の「生成軸」「深層構造」のように扱うのは「精神」の「二分法」を作り出す「表象モデル」の枠内に収まるからである。「表象」représentationというモデルは再現représentationの可能性という枠組みを設定し、「複写の原理、無限に複製可能な原理」を作り、「二分法」を作動させると語り手は熱弁する。複写reproduction(再生産)を遡れば、起源に辿り着くという「還元」なる考え方も、「精神」の「二分法」という安直な思考から導出されているというのである。

語り手は、この使い古された思考手順が、言語学や精神分析にも権力を振るっていて、言語において語ること自体をこの範囲内にとどめ、チョムスキーなら言語の樹木の頂点S(sentence)に、フロイトならオイディプスの<パパ-ママ-ボク>に還元して、外側から「超コード化」された構造によって、言葉自体の多数多様性を削いでしまう権力を行使している、というのだ。多数多様性、または多様体と邦訳されるmultiplicitéを、語り手は「根」ではなく「茎」であるリゾーム(根茎)と表現している。

トリックスターに誘導されてミクロレベルの政治力学の中に迷い込んでしまった。すると、次に出てくる「複写」の対義語のように用いられる「地図」という語はどうもこのmultiplicitéの地図であり、こちらがイメージする紙に書かれたりモニターで確認できるような「地図」ではないのだろう、ということはなんとなくわかってくる

リゾームはこれとは全く異なるもので、地図であって複写ではない
複写ではなく、地図を作ること。
蘭は雀蜂の複写を再現しているのではなく、リゾームのうちにあって雀蜂とともに地図になっているのだ。
地図が複写に対立するのは、それがすべて、現実とじかにつながった実験の方へ向いているからである。
地図は自己に閉じこもった無意識を複製するものではなく、無意識を構築するのだ。
地図は諸分野の接続に向かい、器官なき身体の封鎖解除に、それら器官なき身体を存立平面上へと最大限に開くことに向かう。
地図はそれ自体リゾームの一部分をなしているのだ。
地図は開かれたものであり、たえず変更を受け入れることが可能なもの、分解可能、裏返し可能なものであり、たえず変更を受け入れることが可能なものである。
それは引き裂かれ、裏返され、あらゆる性質のモンタージュに適応し、一個人、一グループ、一社会集団などによって実行に移されうる。
それを壁に描くのもいいし、芸術作品としてとらえるのもよく、政治行動としてあるいは瞑想として構築するのもいい。
多分リゾームのいちばん重要な性質の1つは、つねに多数の入口を持つということだ。
この意味で巣穴は1個の動物的リゾームであり、ときとして移動通路としての逃走線と、貯蔵または住居用の諸地層とのあいだに明確な区別を持っている (ジャコウネズミを参照せよ)。
地図は多数の入口話持っており、これはつねに「同じもの」にもどる複写とは正反対である。
地図は運用の問題であるのに対し、複写はつねに仮定された「能力」にかかわる。
精神分析や精神分析の能力----どんな欲望や言表も生成軸あるいは超コード化的構造に引き寄せ、この軸上の諸段階、またはこの構造の諸要素の単調な輻射を無限に作り出す精神分析の能力とは反対に、分裂分析(スキゾアナリーズ)は転写された宿命のどんな観念も拒絶する。
その宿命に与えられている名が神的、聖書神秘解釈的(アナゴジック)、歴史的、経済的、構造的、遺伝的、あるいは連辞的などどんなものであれ、拒絶するのだ。

(同上 pp.34-35)

『アンチ・オイディプス』以来、トリックスターが使う「機械」machineという語もそうだが、こちらが日常使う言葉にこびりついたイメージを引き剥がさないといけないような妙な圧力が、「地図」carteにもかかっている。「モヤモヤで行く」という方針できたが、もうモヤモヤを外側から眺めるようなことはするな、と、モヤモヤの中に引っ張り込まれる感じだ。

するとトリックスターの二色の声が二重になっていることにあらためて気づく。「精神」の「樹木状イメージ」とリゾームを対立させているように見える彼(彼ら)の語り方は、リゾームのイメージ(イメージしにくいイメージだが)にこちらを誘うために、ひとまずは既成のイメージを変形させようとする手続き上の戦略なのだろうということを。

どこで切れてもちぎれてもいいリゾームから多数の穴を持つリゾームへの視覚イメージで語るトリックスターの言葉は、ちょっとこちらの愚直さを思い遣ってくれていると感じる。ただし、この優しさはmultiplicitéの多様性(どこでも切れる)と多数性(多数の穴)をバラバラにして語るというリスクを担っていることはこちらも理解できる。「多分リゾームのいちばん重要な性質の1つは、つねに多数の入口を持つということだ」と言う際に、彼(彼ら)はちょっと言い淀むように「多分」と発話したからである

この直後に、エピグラフに引用した「それにしてもわれわれは、地図と複写を、まるで良き面と悪しき面といったふうに対立させることによって、単なる二元論を再現しているのではないか?」という言葉になる(欲動と部分対象をオイディプスに複写するメラニー・クラインを非難した後で)。ちょっとアジテーションが強まりすぎて、相手の罠にハマったような言い方をした、とこちらの笑いを誘おうとしているのかもしれない。

ともかく「問題は方法なのである——複写をつねに地図にもどさなければならない」という言葉を皮切りにこれまで抑えていたかのような精神分析への批判が始まる。(この詳細については第2プラトー「1914年----狼はただ1匹か数匹か?」の落書きの際にさまようことにして、今回はトリックスターの精神分析への憤りを受け止めることにとどめておきたい。

頷きながら聴いていると、セラピストがクライアントを型にはめることへの語り手の飽くなき批判は、セラピストが「模写する側」に立つという権力をクライアントに行使し続ける点にあり、クライアントはその危険に晒され続けることに集中している。そしてそこに「冗長性」という語が出てきた。ヒトという種が言語を持つことで獲得した見えないものを見えているものから予想する能力(ベイトソン「冗長性とコード化」『精神の生態学へ』下巻参照)が批判の俎上に載せられている。「だからこそ複写は実に危険なのだ。それは冗長性を注ぎこみ、それを伝播繁殖させる。」

すでに典型的な幼児精神分析において、幼いハンスに起こっていたことを見るがよい----たえず<彼のリゾームはこわされ>、<彼の地図はよごされ>、その地図は位置を正され、あらゆる出口は塞がれて、ついに彼は自分自身の恥辱と罪悪感を望むに至り、彼のうちに恥辱と罪悪感、<恐怖症(フォビー)>が根を生やす (彼に対して建物のリゾーム、次に街路のリゾームが封鎖され、彼は利用心のベッドの中に根を生やすほど釘づけにされ、自分の肉体の上に側根を生やされ、フロイト先生に金縛りにされるのだ)。
(中略)
リゾームがふさがれ、樹木化されてしまったら、もうおしまいで、もはや何一つ欲望から出てきはしない。
なぜなら欲望が動き何かを生み出すのはつねにリゾームを通してなのだから。
欲望が樹木にしたがうと必ず内的な下降が起こって、それが欲望を挫折させ、死に導く。
ところがリゾームは外的かつ生産的な勢いによって欲望に働きかけるのだ。

(同上 p.37)

上の引用で、複写され樹木化される以前の「地図」、リゾームの「地図」という考えがようやく出てくる。途中を中略したのはトリックスターの怒りが言葉を投げつけるようにしてフロイトとメラニー・クラインを強い語調で批判(むしろ罵倒)していたので、気持ちよく聴いてしまったからだ。そして、中略した後に彼(彼ら)の怒りがおさまったところで、リゾームと欲望の関係ついて語るところを引用した。

欲望を動かすリゾームをモヤモヤしたものとして存続させている感覚全体から作られるようなイメージを彼(彼ら)は「地図」と呼んでいるようだ。そんなふうに仮止めできるところまできた、と渦巻き状の流体世界にいるのも忘れて勝手に納得してしまった。

けれど、まだ、ここ…

怒りが多少おさまったのか、トリックスターはやや平静な口調で、「複写」ではなく「地図」を作ることを語り出す。こちらも、ガタリの「地図作成」(cartographie)がきたな、と余計な予備知識が出てきて身構えてしまう。どうやら、この「地図」をどうやって使えるようにするのか、というステップにきているようだ。

だからこそ、もう1つの操作、正反対だけれども対称的でない操作を試みることが実に重要なのである。
複写を地図につなぎ直すこと、根または樹木をリゾームにもたらすことだ。
幼いハンスの症例において、無意識を研究することは、家族の住む家でもって、また建物や街路その他の逃走線でもって、彼がいかにリゾームを作り上げようとするか示すことであり、子供が家族のうちにみずからを根づかせ、父の姿のもとで写真に撮られ、母のベッドで複写される以上、いかにそれらの逃走線が封鎖されているかということ、そしていかにフロイト先生の介入がさまざまな情動(アフェクト)の主体化や、シニフィアンによる権力奪取を保証しているか、いかに子供が、恥辱的かつ罪悪的なものとして恐れられる<動物になる>という形のもとでしか、もはや逃走できないか、ということを示すことであるだろう (幼いハンスが<馬になること>、これはまさに政治的選択だ)。
けれどもつねに地図の上に袋小路を置き直し、こうして袋小路を可能な逃走線に向かって開いてやるべきであろう。
グループの地図についても同じことがいえる----リゾームのどんな点で集団化、官僚組織、リーダーシップ、ファッショ等々の現象が形作られるのか、にもかかわらずどんな線が、たとえ地下の線であっても、存続して、人知れずリゾームを作り続けているのか、ということを示すこと。
ドゥリニー・メソッド----自閉症の子供の仕種や動きの地図を作ること、同じ1人の子供、幾人かの子供に対していくつかの地図を組み合わせること・・・・・・。

(同上 pp.37-38)

確かに、フェリックス・ガタリ『分裂分析的地図作成法』(1988)を思い起こす部分だが、その詳細を省きながらも「地図作成」という行為のミクロ政治的な特徴が端的に表現されているように感じられる。言語以前のダイナミックな世界の地図化は特に東洋で曼荼羅によって表され、言語に意味分節される過程は阿頼耶識として設定されていたことと対照すると、さらにこの「地図作製」という行為が政治的な「操作」であることがわかるからである。(「ハンスが<馬になること>」については、今回は省略。)

「複写を地図につなぎ直すこと、根または樹木をリゾームにもたらすこと」という「操作」は、東洋思想なら「俗世」と呼ぶ世界から離れて行われるが、「地図作製」は「俗世」を変えることに主眼を置いていると言えるからだ。つまりミクロレベルから革命を起こす「操作」として強調されているのである。個人の「地図」だけでなく「集団」の「地図」を作るという行為は、単なる個人の心理を基点とした集団の行動を統計化したデータとして扱うこととは異なるようだ。「地図作製」者との関係もそこに入るからである。

というのも、「ドゥリニー・メソッド」を例に紹介される「地図作製」の「操作」モデルには、「自閉症の子供の仕種や動きの地図を作ること、同じ1人の子供、幾人かの子供に対していくつかの地図を組み合わせること」という、作製者との一時的で不確かな各々の「仕種や動き」の関係も入るのであり、その「組み合わせ」を多元的にダイアグラム(図式)化することが求められているからだ。(多数多様なこの地図の作成法が4つの機能素で多次元化されて構成される点についてはガタリの前掲書を参照。)

「地図ないしリゾームが本質的に多数の入口を持つということが真実なら、必要な用心をした上でのことだが、複写の道や樹木-根の通路によってもそこに入ることができるということさえ考察に入れるべきだろう」(同上 p.38)という言葉に続いて「(ここでもまたマニ教的二元論にこだわってはならない)」と加える語り手の二色の声は、ゾロアスター教とキリスト教の折衷した宗教以来「精神」の「二分法」によってトップダウン権力(語り手はこの権力による体制を「パラノイア」と呼ぶ)を行使し続ける社会が変革へ向ける入口を示そうとしているのかもしれない。

例えば、われわれはしばしば、袋小路の中をめぐることを余儀なくされ、さまざまな意味形成的権力や主体的感情を経由すること、オイディプス的、パラノイア的形成体に依拠すること、あるいはもっと悪いことに、その他の変形操作を可能にする硬化した領土性に依拠することを余儀なくされるだろう。
精神分析そのものが、依拠すべき点として----いや、その意に反してのことではあるが----役立つということさえありうるのだ。
他の場合は逆に、地層を炸裂させ、根を断ち切って、新たな接続をすることを許すような逃走線に直接依拠することになるだろう。

(同上 p.39)

上の引用で語られているのは戦略なのだが、「地図」の方は「操作」とともに変容するという点で、一般にイメージされる戦略の「地図」とは違う。戦略としてはトップダウン型の体制(領土性)に「依拠」して、「地層を炸裂させ、根を断ち切って、新たな接続をすることを許すような逃走線に直接依拠する」という。確かに、閉塞からの解放という自由のイメージで語るとどこか古風な感じがしてしまうのは、これまで考えていた「地図」のイメージが変わり始めたからかもしれない。(はっきりと「変わった」とは言いきれないのだが。)

そんなことを考えてあれこれと浮かぶ考えの中を逡巡していると、語り手はいきなりまとめみたいなことを言い始めている。これまで「精神」の「二分法」に「依拠」するかのように区別して言ってきたのは、各々セットになった「アレンジメント」なのだという。「アレンジメント」・・・、そうだった。すっかり忘れていたが、ここは流体的な世界だったのである。速度酔いが覚めてきたのだろうか。あまり慣れるのもよくないようだ。

というわけで、地図-複写、リゾーム-根といった実にさまざまなアレンジメントがあり、それらはさまざまに変化する脱領土化の係数をともなっている。
リゾームのうちにも樹木や根の構造が存在する。
けれどもまた反対に樹木の枝や根の一片がリゾームとして発芽しはじめることもありうるのだ。
その判定はこの場合、一般概念を前提とする理論的分析にかかっているのではなくて、もろもろの多様体あるいは強度の集合を形成するプラグマティックにかかわっている。
樹木の中核に、根の窪みあるいは枝のつけ根のところに、何か新たなリゾームが形作られることがありうる。
あるいは、樹木-根の極微な要素である側根が、リゾームを生み出す糸口になることもある。
簿記や役所仕事は複写によって進められる----にもかかわらずそれらが発芽しはじめ、リゾームの茎を伸ばしはじめることもある。
ちょうどカフカの小説におけるように。
ある強度の特性がみずから作用しはじめ、幻覚的知覚、共感覚、倒錯的な突然変異、イマージュの戯れなどが突出すると、シニフィアンの覇権は疑問に付させることになる。
身振り的-黙劇的-遊戯的といった記号作用が子供において自由を取り戻し、「複写」から、つまり教師の言語の支配的能力から身をもぎ離す----1つの極微な出来事が局地的権力の均衡を覆すのだ。
こうしてチョムスキーの連辞モデルにもとづいて構成された生成樹は、四方八方に向かって開かれ、今度はそれらがリゾームになるかもしれない。
リゾーム状になるということは、根のように見える茎や繊維を産み出すこと、いやそれよりも幹に侵入してそれらの根と連結され、それらを奇妙で新たな用途に役立てることも辞さない茎や繊維を産み出すということである。
われわれは樹木に倦み疲れている。
われわれはもはや樹木や根を、また側根を信ずるべきではない。
そうしたものを我慢しすぎてきたのだ。
樹木状の文化のすべてが、生物学から言語学に至るまで、そうしたものにもとづいている。
逆に、地下茎と空中根、雑草とリゾームの他には、何一つとして美しいもの、愛にあふれたもの、政治的なものなどない。
アムステルダム、まったく根をもたない都市、茎-運河をそなえたリゾーム-都市、そこでは有用性が、商業的戦争機械と関係しつつ、最大の狂気と結びついている。

(同上 pp.39-40)

様々な「アレンジメント」には「脱領土化の係数をともなっている」という一節で、そうなのかと思ったことがあった。「係数」という語のおかげだ。「y=2x」という簡単式にも出てくる。右辺にある「2」の部分だ。これは「x」のような変数がどのくらい大きくまたは小さくなるかその度合いを表す。とても基本的な強度の表現からである。y=2xを単項式と呼ぶような項目間の関係ではなく、強度(度合い)の関係としての様々なアレンジメントが重なり合う「地図」のイメージがぼんやり浮かぶ。確かにモヤモヤしている。

「リゾーム」がモヤモヤしてモジャモジャした多種多数多様多重多元なモジュールであることが、度合いという項目を取らない関係それ自体を表すと考えると、観念と印象に纏わる感情や情動の度合いからなるアレンジメントのモヤモヤの濃淡、強弱、大小、硬軟の度合いが変わることも、多少イメージできるようになる。同時に、印象と観念は常時身体に結びついているのだから、自分が動くたび立ち止まるたびに感じる、見える、気づく、思う等々のこともこの強度の「地図」にそのつど書き込まれるのだろう。

そこまで考えて、トリックスターの言葉にだいぶ後れを取ったことに気づいて、慌てて追いかけることにした。「地図-複写、リゾーム-根」を対立する二項ではなく、1セットのアレンジメントの度合いの違いと考えよ、という。すると両者は「蘭と雀蜂」のように、互いに入り込み、そこから出ていくことを繰り返して(「脱領土化」/「再領土化」)、異質なもの同士の「非平行的発達」を継続していることが感覚的にイメージされてくる。

言葉を理解しようとすると言葉の方に触発されて、意味に止まることが難しくなってきた。が、もうちょっと踏ん張ってみる。「一般概念を前提とする理論的分析にかかっているのではなくて、もろもろの多様体あるいは強度の集合を形成するプラグマティックにかかわっている」というトリックスターの言葉に沿って進んでみると、樹木の比喩の扱いはミクロレベルからこの世界に革命を起こそうとするアジテーションの修辞に思えてくる。そうだった、トリックスターは世界を掻き回す役回りであり、前の演目から次の演目に橋渡しするサーカスのピエロ、そして革命家だった。

写真は、革命運動の中でアジテーターとして活躍した道化師(ピエロ,クラウン)、ヴィターリ・ラザレンコ、ロシア・アヴァンギャルドの作品に多くのモチーフを提供した(革命revolutionもサーカスcircusもグルグル回る:revolte/circle。大島幹雄『サーカスと革命』(1990)から:https://deracine.fool.jp/books/kakumei.htm参照)

リゾーム(根茎)は「根」ではない。そんな<リゾーム-茎>の自己主張を隅々まで「樹木状のイマージュ」で満たされた文化に侵入させるという語り手のミクロ政治的な戦略は、一方で、世界全体「母なるもの」の命令に満ちた全称命題(∀)として受け止め、沈黙を強いられるという、ある統合失調症のクライアントの症状を思わせるものがある(ベイトソン「疫学の見地から見た統合失調」『精神の生態学へ』中巻参照)。

他方で、語り手は、そのような文化からは「狂気」のように見えるだろう「根」のない場所があることも特称命題(∃)を差し挟むように最後に示す----「アムステルダム」、封建国家と絶対王政国家の中の17-18世紀に隆盛を誇った「運河-茎」が縦横に走る海に開かれた都市。デカルトが辿り着いた終焉の地、そして、スピノザがそこから出ていく出生の地----。

「根茎」-都市はデカルト-スピノザというセットの強度の地図を作り出した、という含みでもあるのだろうか。自分の言葉にちょっと陶酔したような語り手の語調からするとそんな気もしてくる。というのも、唐突に何の脈絡もなく「アムステルダム」と詠嘆調でこの固有名詞が出てくるように感じたからだ。この都市は、語り手がもう少し後に「特殊なもの」と呼ぶことになる<プラトー>状態の代表的な例なのかもしれない。

「量化」(<すべて/一つはある>の区別)は、「エクリチュール」を意味から解放し、量として空間に配分するのだった(「序 リゾーム」 『千のプラトー』上巻 p.17,18参照)。すると、トリックスターはその空間化する場を「地図」と呼んでいるのだろうか?

上の地図は16世紀のアムステルダムの古地図:運河の流れ、物流の流れ、人の流れからなる「商業的戦争機械と関係する」都市という形態となった「プラトー」?https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kaart_van_Amsterdam_in_vogelvlucht,_anno_1544.jpeg参照




で、「本」の話はどうなった?

もう終わった?

いつ終わった?


続く……

今回は40pまでで力尽きた。『千のプラトー』の「落書き」を3回試みて気づいたのは、語り手の表情が言葉に滲み出ているという点だ。それゆえ、次々に登場する新奇な語を一般概念として取り出すと、語りの表情が消えてしまうということも。それもあって、邦訳の文を省略して引用することが難しい場合が多くなってしまうことも。いわゆる「まとめ」記事から見れば「焼き増し」記事になっている。「落書き」なのでもちろん「目次」もつけられない。

一方で、これらの「落書き」がLLMを使っていないことは、引用文の多さという点で仄めかしておきたい気持ちもある。(LLMでは著作権のある文については引用より要約で文字化されるのが一般的だ。) 仕事ではコンピュータに向き合う時間が多く、閉鎖した空間で座ったり立ったりしてマン・マシン・システム化しているので、広い環境で身体を動かしているマン・ネイチャー・システム化にシフトした感覚をコンピュータに吹き込んでやりたい、とい忿懣も大いにある。

始終オンラインの生活にはうんざりしているのだ。(どちらかといえば「樹木のイマージュ」に快楽を求めるより、『千のプラトー』に巻き込まれているほうがいいという性癖のようである。)

もう一つ、『千のプラトー』を落書きすることで気づいたことがある。私は身体をめぐる新しい言葉とその使い方を習得したいのだ。『千のプラトー』はこのような新しい言葉の語学テキストでもある。この考えは、今回少しだけ言及したF・ガタリ『分裂分析的地図作成法』の夥しい「地図」(ダイアグラム)を見ながら読む経験と、アラカワ+ギンズの著作での身体をめぐる言葉の使い方を彼らの作品を体験しつつ読むことからきている。それゆえ、ドゥルーズ哲学に分類される『千のプラトー』だが、私の接し方は多少ガタリ側に偏ったものかもしれない(もちろん、ガタリの著作を「理解」しているわけではない)。

とはいえ、月末に迫った移住の準備で、紙の資料はほぼ梱包してしまい、広がりのない「落書き」になっているのは確かだ。否、感想にもならないから「落書き」と呼んでいるのだから、このような戯言の連なりが、相応の書き方なのだろう。それゆえ今しばらくは、こちらが知識をぶつけるのではなく受け身になる場合が多くなる。異界をさまよう物語という手前勝手なスタイルはまだ続きそうだ。



※見出し画像は、乱流イメージをあらゆるところに見出したレオナルド・ダ・ヴィンチが軍事都市構想として1502年に上空から鳥瞰したようにして描いたイタリア・イモラ市の都市計画地図。
運河を張り巡らし、人の流れと物流の流れを分離して配することで、幾何学的な均衡と流体的な不均衡を組み合わせた図になっているとされる。画像では切れているが、幾何学的均衡を破るように右下の方にはうねった川の流れが描かれている。
(※https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/052600315/参照)

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