D/Gに巻き込まれる102 -『千のプラトー』 「1 序----リゾーム」 2: どこかで「root(根)は外へのroute(通路)さ」と口ずさむ声がする-
本の第1のタイプは、根としての本である。
樹木はすでに世界のイマージュである。
あるいは根は世界としての樹木のイマージュである。
それは、有機的、意味作用的、主体的な (これらは本の諸地層である) 美しき内面性としての、古典的な本である。
本は世界を模倣するのだ、芸術が自然を模倣するように—--それも固有の手法によってであり、この手法は自然がなしえないこと、あるいはもはやなしえなくなったことを巧みに成功させる。
本の法則、それは反映の法則であり、<I>が<2>になるのだ。
どうして本の法則が自然の中にあるはずがあろうか、その法則こそ世界と本、自然と芸術のあいだの分割をつかさどっているものなのに。
1が2になる—--この定式に出会うたびごとに、それが毛沢東(マオ)によって戦略的に口にされたものであろうと、また最高に「弁証法的に」理解されようと、われわれは最も古典的で最も反省的な思考、最も古くさく、最も疲弊した思考を前にしている。
自然はそんなやり方はしない。
根それ自体もそこでは直根(ビヴォタント) 〔回転する根〕 であり、側面的、循環的といった、より多数の分岐をもっていて、2分法的なものではない。
精神は自然に遅れをとっている。
自然的現実としての本さえも直根〔回転〕式(ビヴォタント)であり、軸があってそのまわりに葉がある。
だが精神的現実としての本、イマージュとしての<樹木>または<根>は、<1>が<2>になり、ついで2が4になる・・・・・・という法則をたえず発展させる。
2元的論理は根としての樹木の精神的現実なのだ。
言語学ほど「進んだ」学問でさえも基礎となるイマージュとしてこの根としての呪文を保持し続けており、それが言語学を古典的省察に縛りつけているのだ (チョムスキーと連辞の樹形図はそのようなものであり、S点に始まり、二分法によって進められる)。
つまり、この思考は多様体を理解したためしがないのだ—--この思考には、一定の精神的方法によって、2に到達するために仮定された強い原則的統一が必要である。
(※『千のプラトー』は1つのパラグラフが長いので、「D/Gに巻き込まれる」と題される一連の「落書き」では1文ずつ改行して引用している。なおパラグラフの区切りの場合は1行空けてある。)
◆
前回は「序 リゾーム」の4pぶんを落書きながら、速度酔いして右往左往しただけで終わった。この流体的な世界にちょっと巻き込まれただけで見知らぬcharacter(文字)たちに出くわした。突発的な出来事を引き起こすのが楽しみだと言わんばかりに不可思議な文字どもをこちらにぶつけてくる語り手も、さまよう者をさらに迷わせるトリックスターのように思える。どうも信用ならない。なら自分の感覚を頼りにするしかない、と思うまもなく、世界の速度が増しくる。「本」が線になってくる。そんな感じで前回は『千のプラトー』に巻き込まれて行った。
今回はさらに速度酔いが進みそうだ(いつになったら慣れるのだろう)。手にとって開いて文字を目で追う・・・そんな対象だと思い込んでいた「本」が、様々な「層」や「線」となり、さらにそれらからなる多様体になって、読まれる側から巻き込む側へとシフトしていく。そのプロセスの中をさまよう読む側も本と同様に徐々に多様体に開いていく。
このプロセスには段階があるんだ、とトリックスター(語り手)はいう。そう言ってしたり顔をする彼(彼ら)の言葉にはちょっとしたトラップが仕掛けられている。それが、エピグラフに挙げた3つの分類を持ち出す部分だ。根(ラシーヌ)、側根(ラディセル)、根茎(リゾーム)と呼ばれるこれらの分類は、表面的には互いに独立し、読み手が選べるかのように配置されている。しかも第1プラトー(章)のタイトルが「序 リゾーム」なのだから、読み手が「リゾーム」を選ぶようなトリックスターの悪意ある促しもありそうだ。
その悪意ある促しに従ってみると滑稽なことが起こる。根茎(リゾーム)を選んで『千のプラトー』にこのレッテルを貼り付けて連呼するほど、そこに属することを拒否したはずの「樹木のイマージュ」の「二分法」を振り回している、というトラップに引っかかって思わぬ醜態を晒してしまうからだ。トリックスターの嘲笑が響き渡ること請け合いである。
そこで上のエピグラフをもう一度見てみる。すると、フランス語なら、本(livre)と樹木(arbre)を押韻させながら、語り手は、「根」(racine)の語尾の音をちょっとズラすようにして、「根」は「樹木」とちょっと韻が違うぞ、と仄めかしているように見える。「根」は「樹木」を支えているが、「精神」が勝手に描くような「樹木のイマージュ」ではない。「引っかかったろう、バカめが」とトリックスターは嘲る。エピグラフの中間部を再掲してみる。
どうして本の法則が自然の中にあるはずがあろうか、その法則こそ世界と本、自然と芸術のあいだの分割をつかさどっているものなのに。
1が2になる—--この定式に出会うたびごとに、それが毛沢東(マオ)によって戦略的に口にされたものであろうと、また最高に「弁証法的に」理解されようと、われわれは最も古典的で最も反省的な思考、最も古くさく、最も疲弊した思考を前にしている。
自然はそんなやり方はしない。
根それ自体もそこでは直根(ビヴォタント) 〔回転する根〕 であり、側面的、循環的といった、より多数の分岐をもっていて、2分法的なものではない。
精神は自然に遅れをとっている。
自然的現実としての本さえも直根〔回転〕式(ビヴォタント)であり、軸があってそのまわりに葉がある。
だが精神的現実としての本、イマージュとしての<樹木>または<根>は、<1>が<2>になり、ついで2が4になる・・・・・・という法則をたえず発展させる。
2元的論理は根としての樹木の精神的現実なのだ。
「精神」が「樹木のイマージュ」を「反映」として「根」を見る際に、転写、再現性、オリジナルとコピーという「精神」の安易すぎる「二分法」が複雑で錯綜するはずの「自然」を対象として切り取ってしまうのである。「自然はそんなやり方はしない。」そして、複雑さの面から見れば「精神は自然に遅れをとっている」とトリックスターは「精神」の安易さを罵倒しているのである。
グレゴリー・ベイトソンは「冗長性とコード化」という論考で、自然の複雑化を記号化する人間の特徴について、木を見るとその下に根があると想像する例で説明していた(『精神の生態学へ』下巻 参照)。世界から「この木」を抽出し「木」という対象に一般化するパターン認知の機能(コード化)を使って、その下の見えない部分に分岐する何かを想像する(冗長性)能力がヒトという種にはあるというのである。
一方この語り手は、同じ木を例にそのようなコード化が昔から使い古された自然から最も遠いバイナリー(二項的)なタイプであり、その安直さが今も重宝される点にうんざりしている。(1970年代にもてはやされていた「毛沢東」も、「弁証法」も、「チョムスキー」もそうだという。) そして「樹木のイマージュ」を「根」に投影させるこの「二分法」は、「根」を自らの根源のように扱って、議論が枝葉末節になると決まって「根」の部分に自らの根本的な立場を移そうと躍起になるのだ。ラテン語のradixである「根」はラディカルさを保証するかに見える。だが、「自然はそんなやり方はしない。」
批判されているのは「樹木のイマージュ」の「二分法」的な性質であり、「根」それ自身ではない。しかも「精神」は、「樹木」それ自身の複雑さも知らないようなのだ。トリックスターが3つの「根」を持ち出すのは、もしかすると、この「二分法」を作り出す「じっと見ること」(Theoria:観想)の前提である静止した身体と世界との関係を、段階的に多様体と開いていくためかもしれない。
もちろんこの解釈はまだベイトソンの論理階型を用いた学習理論が念頭にあるので、そう思ってしまうだけなのだろう。そんな自覚は確かにある。ただ「根」→「側根」→「根茎」というプロセスを思い描くと、最初の「根」が「精神」の「樹木のイマージュ」という重荷を負って耐えている段階のように思えて、これってツァラトゥストラのいう「駱駝」の段階じゃないのか?いう連想に飛んでいくのが面白く感じられるのだ。(あくまで個人の感想だが。)
というわけで、今回は「根」をテーマに植物学領域を覗きながら「落書き」することになりそうだ。そこで、まず「根」(ラシーヌ)、「側根」(ラディセル)、「根茎」(リゾーム)の視覚的なイメージを、中学の理科の時間を思い出しながら図で示してみる。
・まずは「根」と「側根」の図。

・次は「根茎」も含む「多年生植物栄養器官」の図(「根」と呼ばれていない点が重要である)。色々バリエーションがあるが、特にGとHが「根茎」に分類される。

興味深いのは下の図の植物たちが雑草に分類されている点だ。そして上の図は、人が育てやすい植物に多いことにも気づける。トリックスター(語り手)が「根茎」を語る時、シュプレヒコールのトーンが強くなると「民衆」とメタファーで「根茎」を語る。一方、「根」を語るとき「精神」の「二分法」のトップダウン的な権力をオーバーラップさせる。「根茎」に「民衆」による「革命」という政治的イメージを語り手(トリックスター)が混ぜ合わせるのは、植物学的な植生分類からも類推できそうだ。
◆
アルコール好きなフランス人著者たちが「直根」racine pivotanteというのだから、ブドウや麦の根を思い出してしまうのだろうか。彼らが生み出したトリックスターが「根」を語ると速度が少しずつ増してくるように感じ始めるのは、アルコールの滲み出る言葉に酔ってきたからかもしれない。(※このエピソードについては、ワイン・ソムリエの資格を持つ友人にこの部分の話をした際、彼がフランス・ワインの原料となるブドウの育て方やブドウを根付かせて育てやすくする土壌の質の話に移った点に想を得ている。)
そこで、「根」という言葉に酔い始めて、「駱駝」とくれば「獅子」がきて「子ども」になるという人間という橋を越える段階は、ニーチェがすでに想定していたな、と思ったのである。すると「根」から「側根」へ、そして「根茎」へ辿っていくことは、人間という橋を渡ることになるのだろうか? それがこの異界では多様体等の様々な語で呼ばれる何かのだろうか? そんなアナロジーが浮かび上がる。これも「精神」の二分法の転写能力の賜物なのだろうか。
そして客体(オブジェ)の側でも、自然的方法によって、たぶん<1>から直接3、4ないし5に行くことはできるが、それも相変わらず、強い原則的統一、つまり2次的な根の数々を支える軸という統一をそなえているということが条件である。
こちらもほとんど変わり映えがしないのだ。
継起する円環のあいだの1対1の対応関係が二分法の二元的論理にとって代わったというだけのことだ。
直根も二分法的な根と同様、多様体を理解 〔包含〕 できない。
前者が客体において作用するのに対し、後者は主体において作用するだけだ。
二元的論理と1対1対応関係はいまだに精神分析を支配し (フロイトがシュレーバーを解釈したときの錯乱の樹木)、言語学、構造主義、さらには情報理論さえ支配している。
上で批判される「精神」の二分法を排除すれば、なおさら「二分法」を強化するだけになる。ならば、ここでは愚直にツァラトゥストラの駱駝/獅子/子どもの段階をトリックスターの根/側根/根茎の3区分にアナロジカルに対応させて足掻いてみるのもいいだろう。ここからは、「根」から「側根」へ、そして「根茎」への段階は、多様体へと開いていく段階のアナロジーと見なして進んでいきたい。。
「側根」(ラディセル)は「根」(ラシーヌ)の末端に生える「ひげ根」とも呼ばれる。段階設定すると面白いのは、「根」(ラシーヌ)の一部である「側根」(ラディセル)が中心としての「根」(ラシーヌ)を批判して自己主張するほど、自らが「根」(ラシーヌ)と切り離せない全体としての「根」全体(ラシーヌ・ヴィオタント)が露呈してしまうという点だ。両者はこの全体としての「根」からすれば部分であり、部分は全体に属し、中心と周縁は一つの全体を表すことがあらわになるのである。
側根システム、またはひげ根のシステムは、本の第2の形であり、これは現代の人々が好んで援用するものである。
この場合、中心の根は中断されてしまうか、あるいはその先端が破壊され、この根に接穂されるのは、大いに発達した副次的な根の数々という、直接的かつ任意の多様体なのだ。
この場合、自然的現実は中心の根が中断されるところに現われるが、だからといってその統一性が過ぎ去ったもの、あるいは来るべきものとして、可能なるものとして存続していることに変わりはない。
そして疑うべきことは、今度は精神的、反映的現実が、なおいっそう包括的な秘かな統一への、あるいはいっそう広がりのある全体性への希求を示すことによって、このような事物の状態を補償しているのではないかということである。
バロウズのカットアップの方法をとりあげてみよう—--あるテクストの他のテクストの方への折り曲げ、多数の根、あるいは不定根さえ形成する折り曲げ (まるで挿し木のような) は、問題となっているテクストの次元を保管する次元をともなう。
折り曲げのこの補完的次元においてこそ、統一性はその精神的作業を続行している。
まさにこの意味において、最も決然として断片的な作品がまたしても<全体的作品>ないし<偉大な作品>として提出されることになりかねないのである。
トリックスター(語り手)の言い方は、「側根」自体の不十分さを強調している。そこでウィリアム・バロウズのカットアップの技法が出てくると、「本」としての全体をむしろ利用した技術的な戦略に過ぎないかのように見える(バロウズも、この手法についてすぐに飽きたと証言していた)。が、「側根」が安易に否定され、「リゾーム」の優位が主張されるというのではない。ツァラトゥストラが語る「獅子」が世界に対して批判の咆吼を上げる段階を重ねてみると、そんな気がしてくる。というのも、「側根」という批判的段階を通してその次のステップに向かう道筋が見えてくるからだ。
(※このドキュメンタリー映画の中にバロウズのカットアップとフォールディングを行う映像が収録されている。そしてこれらの技法に「飽きた」と語るのも、この映画の中においてである。)
『千のプラトー』に巻き込まれた身にとっては、過激で根本的な、つまりラディカルな3つの根をめぐるプロセスは、精神の「二分法」が根に転写する<全体-部分>関係の抜本的な、革命へのステップに向かうようでちょっとワクワクする。こんな期待で、「側根」を「リゾーム」へと向かう段階として見ると、この段階は、真のラディカルさへ向けて<部分-全体>関係自体を前景化し、「精神の二分法」が「根」に投射する思考自身の権力をあらわにしていることに注意が向く。
面白いのはここで「天使的博士doctores angelici」が登場する場面になることだろう。「doctores angelici」と呼ばれたトマス・アクィナスは、プラトンの演繹論理をキリスト教に導入したアウグスティヌスとは異なり、アリストテレスの帰納論理をベースに『神学大全』を著したとされる(大雑把に言えばだが)。一つの理念からのトップダウンとし諸々の現実からのボトムアップ、全体と部分は神を賛美する2つの方法なのだよ、とこの語り手は言いたいのだろうか。トリックスターは神への信仰の言葉をことさらに用いて、ほめ殺したいのかもしれない。
諸系列(セリー)を増殖させたり多様体を伸長させたりするための現代的方法の大部分は、例えば直線的な方向にも十分適用できるものである一方、全体化による統一性はなおさら何か別の次元、円環や循環の次元において確立される。
1つの多様体が1個の構造の中に捉えられるたびに、その成長は組合せの諸法則の削減によって埋め合わされる。
統一性を中断するものたちはここではまさに堕胎を行なうもの、天使的博士doctores angelici である。
つまり彼らはまさに天使的な至上の統一性を確立するからだ。
ジョイスの用いる語、まさしく「たくさんの根を持つ」と言われている語は、語の、あるいは言語そのものの直線的統一性を実際に打ち砕くのだが、やはり文、テクスト、または知の循環的統一性を設定するのだ。
ニーチェのアフォリズムは知の直線的統一性を打ち砕くのだが、やはり思考の中に1つの知られざるものとして厳然する永劫回帰の循環的統一性に依拠するのである。
つまりひげ根状思考は二元論、主体と客体の相互補完性、自然的現実と精神的現実の相互補完性などと真に縁を切っていないのだ—--統一性は客体においてはたえず反撃され妨害されている一方、新しいタイプの統一性が主体において勝ち誇っているのだ。
世界はその軸を失ってしまい、主体はもはや二分法を実行することさえできないが、しかしより高い統一へ、量犠牲によるものか多元的決定によるものか、とにかくより高い統一へと、その高い統一へと、その対象の次元に対してつねに補完的な次元において到達するのである。
世界は混沌(カオス)となってしまった、けれども本は世界のイマージュ、つまり側根としての混沌=秩序宇宙(カオスモス)であり続けるのだ、根としての秩序=宇宙(コスモス)である代わりに。
奇妙な韜晦だ、断片化しているだけになおさら全体的な本という韜晦。
世界のイマージュたる本とは、いずれにせよなんと無味乾燥な観念だろう。
実のところ、<多>よ万歳、と言うだけでは足りないのだ、確かにこの叫びを発するのは難しいのだが、活字組みの、語彙の、あるいは統辞法のいかなる巧妙さも、この叫びを聞こえるようにするには不十分である。
一方で、語り手(たち)は、バロウズから始まり、ジョイスやニーチェをこのシステムの代表者扱いしながら、紙という本を切り刻んで折りたたむこと、文を書かれた語に断片化すること、そしてその直線と平面でできた時空を批判すること、という批判の方法を彼らの方法から抽出している。それでもなお、本という全体との「相互補完性」が残存していると彼ら批判者たちを叱咤するところが面白い。というのも、問題は「根」そのものにはないからである。(ここでガタリの主要概念「混沌=秩序宇宙(カオスモーズ)」も出てくるのだが、今回は省略。)
「根」と「側根」はクラスとメンバー、全体と部分の「相互補完性」を維持したままだ、と憤るような口調のこの語り手がそもそも問題にしていたのは、この関係を「自然」に「反映」する「精神」の「二分法」の権力行使だった。コード化された二項的な樹木としてデジタル化された世界の「反映」として見えないものも解釈してしまう冗長性という能力を用いた権力である。そのようにして、この権力は関係から「実体」を切り出し、世界の動きも止めてしまうのである。
テオーリア(Theoria)、じっくり見ること・・・この渦巻き世界で速度酔いしながらそんなことをすれば、眩暈がひどくなるだけだろう。
◆
「根」(ラシーヌ)と「側根」(ラディセル)は<全体-部分>または<クラス-メンバー>の関係にあった。この関係を語り手は「相互補完性」と呼んで、両者が「精神」の「二分法」という「反映の法則」の枠内に収まっている点を批判した。一方、「根」から「側根」へのステップと考えると、この段階での「側根」の「根」への批判力がこの「二分法」をあらわにしたとも言える。ここでもし、「側根」へのステップがツァラトゥストラが語る「獅子」へのそれに重ねることができるなら、この段階は自らの身を危機(crisis)に晒しながら、批判(critic)を行うまさにクリティカルな段階なのだろう。
<全体-部分>という「反映の法則」が、多様体multiplicitéをテーマとする『千のプラトー』に罠を仕掛けるとしたら、それは<一と多>というバージョンになると語り手は言う。<多>を<一>との比較対照可能な項目とするのではなく<多>そのものにならなくては、「二分法」が復活してしまうからだ。立ち止まってじっと見るテオーリアの世界にならないために、この流体世界は速度を与えられているということが、こっちにもようやくわかってくる。じっとしていることができないのは、この世界に入ったら<多>それ自身になるしかなくなるからだろう。
<多>、それは作り出さねばならないのだ、相変わらず1個の高位の次元を付け加えることによってではなく、逆におよそ最も単純な仕方で、節制により、手持ちの次元の水準で、つねにnマイナス1で (こうしてはじめて一は多の一部となるのだ、つねに引かれるものであることによって)。
設定すべき多様体から1なるものを引くこと、nマイナス1で書くこと。
このようなシステムはリゾーム 〔根茎〕 と呼ばれうるだろう。
地下の茎としてのリゾームは根(ラシーヌ)や側根(ラディセル)から絶対的に区別される。
球根や塊茎はリゾームである。
根ないし側根を持つ植物も、全く別の観点からはリゾーム状でありうる—--植物学が、その特殊性において、相対としてリゾーム状ではないかということは、解明すべき1つの問題である。
動物でさえ、その群れをなす状態においてはリゾームであって、ねずみとはまさにリゾームである。
また巣穴がそうだ、住居、食料貯蔵、移動、避難、切断といったそのあらゆる機能によって。
リゾームそのものが四方八方に分岐したその表面の拡張から、球根や塊茎としての凝結に至るまで実にさまざまな形をしている。
ねずみが折り重なってたがいの下に隠れるときもそうだ。
リゾームの中には最良のものと最悪のものが2つともある。----馬鈴薯とはまむぎのような雑草と。
動物でありかつ植物でもあるはまむぎは、まさにクラブ・グラス 〔蟹草〕 と呼ばれる。
それにしてもリゾームのおよその特徴をいくつか列挙しなければ誰にも納得してもらえないだろうということはよくわかっている。
「n-1」という数学用語っぽい語が急に出てくるのだが、同時にnを指数として捉えて「1個の高位の次元を付け加えること」から離れよ、と語り手(トリックスター)は警告してくる。指数を増やして冪乗化すると確かに高次元になる。その次元に入れれば確かに世界も変わることはE・A・アボット『フラットランド』が二次元に入ると三次元はどう知覚されるのかをテーマに楽しく奇妙な冒険譚で示してくれた。
逆に言えば、4次元では球体、さらに高次元になるとリング状になったり土星のような形になったりすると予想されるブラックホールでもいい(『インターステラー』でグラフィック化したような)。その次元の空間に入れば(それが可能なら)、異なる世界に遭遇するはずだ。もちろんこちら側も著しい変容を被ることも込みでの話だが。

https://gendai.media/articles/-/75621参照
では、「n-1」とは何のことだろう。nが指数だとして、この指数は統計で使う「基準値」ということだろうか?(株価指数とか。) というのも、単に指数を一つ減らして次元を下げるような数学領域の話にとどまらないように思われるからだ。もしかしたら、nを<多>とした場合に、<一>を排除することで<一と多>という「精神」の「二分法」を回避する・・・そのような意味で、「n-1」と表記されているのかもしれない。
確かに、<多>が表現可能な項目となる場合、<一>に回収されてしまう。つまり、全体を批判し、部分を主張する「側根」が立場を持つと、新たな全体を引き寄せてしまうことの二の舞になる、語り手はそんなことを言いたいようだ。この言葉には形而上学の個物を批判する際にドゥンス・スコトゥスの「個体化の原理」の、比較対照なしの「此のもの性」haecceityという考えが重なるような気もする(ドゥルーズがよく参照している)。
・・・などとボーッと思いを巡らしていると、語り手はこちらのことなどお構いなしに、「根茎」を「リゾーム状」という状態へと拡張している。「球根や塊茎はリゾームである」、そりゃそうだろう、と思うまもなく、「リゾーム」という名の一つのバージョンとして根茎が捉え直されてしまっている。いつ逆転したんだ? そんなことを思いながら、個々の植物から植物学へ、そして動物の群れへと「リゾーム」がどんどん「根」を広げていくかのようである。
今、「どんどん」と言ったが、オノマトペでしか表現できない状態を「リゾーム状」というのかもしれない。群れの蠢くようなウジャウジャした状態、根茎植物のモジャモジャした根の張り方、アジャンスマン、アレンジメント、アセンブリッジのように一定の意味を持たないモヤモヤした言葉・・・。「一時的な不確かさ」と荒川修作が言っていたのは、このような流動する状態なのかもしれない。(『死ぬのは法律違反です』参照。)
すると、トリックスターは「リゾームの中には最良のものと最悪のものが2つともある。----馬鈴薯とはまむぎのような雑草と」などと言い始める。「最良」と「最悪」って誰にとっての基準? 人が食べられる/食べられないってことか?と単純な疑問に頭が占領されていると、語り手は「はまむぎ」の方に注意を向けさせたそうだ。この草は動物と植物の中間、「クラブ・グラス 〔蟹草〕」ともいうのだと言いながら。
日本名の「蟹草」は「ツルシノブ」という別の植物だそうだし、ほんとに「はまむぎ」は動物と植物の中間か? 比喩じゃないのか? 比喩? もしかしてレイモン・クノーの小説『はまむぎ』の比喩? それもほったらかしで「リゾーム」の説明に入るって、アアッ!、なんかモヤモヤしてくる、、、
◆
さっき、「「一時的な不確かさ」と荒川修作が言っていたのは、このような流動する状態なのかもしれない」などと、知ったようなことを言った。が、頭でわかったということなら、お前は「n-1」のことなどこれっぽっちも「わかって」ない、と語り手は軽蔑した目線をこちらに送ってきているように感じる。「モヤモヤで行け!」ということならそうしてみることにする。
すると、「リゾーム」の説明がもう始まっている。項目で分けて説明しようとしているかのようだが、最初から「1°および2°」になっていてこちらの出鼻をくじく戦略のようだ。もちろん説明も頭でわかるような説明じゃなさそうだ。こっちもそろそろ自分の「精神」の「二分法」を自覚し始めているのだから、このままモヤモヤ状態で行ってみる。
とはいえ、モヤモヤの中でも多少の理解の余地は必要だ。根茎も塊茎も、土に埋まって「根」のように見えるところが、植物学的には茎の部分であることからそう呼ばれるのだという。「精神」の「二分法」が「土に埋まっているのは「根」である」と思い込むこと自体に、根茎も塊茎も反旗を翻しているということになる。語り手が「根」や「側根」とは「絶対的に異なる」というのも確かに頷ける。
ここから、語り手は「馬鈴薯」(塊茎)と「はまむぎ」(根茎)をモヤモヤしたリゾーム状の動態の一時的な2つの状態、と見なすと、「1°および2°」を塊茎的な「最良」の状態、「3°」を根茎的な「最悪」の状態に分けて説明しているのは理解できる。この程度の理解くらいは、手厳しい語り手も見逃してほしいものだ。
1°および2°----連結と非等質性の原理。
リゾームのどんな1点も他のどんな1点とでも接合されうるし、接合されるべきものである。
これは1つの点、1つの秩序を固定する樹木ないし根とはたいへん違うところだ。
チョムスキー流の言語樹もやはりS点に始まって二分法によって進められる。
リゾームにおいては反対に、特性のひとつひとつが必ずしも言語学的特性にかかわりはしない。
あらゆる性格の記号論的な鎖の輪がそこでは実にさまざまなコード化方式、生物学的、政治的、経済的等々の鎖の輪に連結され、いろいろな記号の体制のみならず、物の状態のステータスをも試練にさらす。
言表行為の集団的アレンジメントは事実、直接に機械状アレンジメントにおいて機能するのであり、もろもろの記号の体制とそれらの対象とのあいだに根本的な区別を設定することはできないのである。
言語学においては、たとえ自明のものだけに依拠し、言語(ラング)についていかなる仮定もしないと主張する場合でも、人はある言説の諸圏域の内部にとどまっているのであり、この言説はやはりさまざまなアレンジメントの様式や特定の社会的権力のタイプを前提とするものなのだ。
チョムスキーの文法性、あらゆる文を支配するカテゴリー的シンボルとしてのS 〔sentenceの頭文字〕 は、統辞法上の標識である以前に権力の標識である—--文法的に正しい文を作りたまえ、言表のひとつひとつを名詞節と動詞節に区分したまえ (最初の二分法だ・・・・・・)。
ここでは言語がジャガイモ(馬鈴薯)として扱われている。つまりリゾーム状の一時的な状態である茎の塊であって、その根は塊の表面から生え出てさまざまな異質なものと繋がっている。この言語という塊を語り手は「言表行為の集団的アレンジメント」と呼び、そこから出ている根が繋がるさまざまな異質なものを「機械状アレンジメント」と呼ぶ。前者は個人という<一>を差し引いた<多>としての集団の言語行為の編成であり、後者はノンバーバルなコミュニケーション領域と解釈もできるが、言葉を話す人間のみならず様々な生物の身体、物質、それらを含む環境の動的な配列や編成を指している。

(※この2種のアレンジメントがカップリングされている点については第3プラトー「BC10000年----道徳の地質学」でイェルムスレウの「表現/内容」に重ねてより踏み込んで語られるまで待つことにしたい。渦巻き世界では、他の箇所が別のところでふと顔を出すこともあるようだ)。
ここでは、また非難されているチョムスキーに注目する。語り手チョムスキーが「まず「S」より始めよ」と司令語を発し、そのような動的な編成をトップダウン的な樹木状システムに固定したと非難する。言語の塊茎的な性質は異質なものをつなげることにあると語り手は考えている。そこで、「精神」の「二分法」の「反映の法則」の枠内に留める点を、生半可な抽象という理由で非難するのである。「抽象機械にまで到達していないことを非難したいのだ。」異質なものが繋がり合う動的な編成へと抽象するのではなく、それらを固定するために抽象するからである。
1個の記号論的鎖の輪は、実にさまざまな行為、言語学的、また知覚的、黙劇的、身振り的、思惟的な行為を凝集させる塊茎のようなものである。
言語それ自体というものもなければ、言語活動の普遍性というものもなく、方言、俚言、隠語、特殊言語などの交錯があるだけなのだ。
理想的な話し手–聞き手というものがないのと同様、等質的な言語共同体というものもない。
言語とは、ヴァインリッヒの言い方にしたがえば、「本質的に非等質的な現実」である。
母 〔国〕 語というものはなく、1個の政治的多様体における1個の支配的言語による権力奪取があるだけだ。
言語は教区とか、司教区とか、主都などのまわりで固定化する。
球根をなすのだ。
植物学的には「塊茎」は「根」ではない。それゆえ樹木状の「二分法」が投影する「根」ではなおさらない。そこで語り手(トリックスター)は言語学が扱う「等質性」を言語が持っていないのは、それが学のフィクションだからではなく、このフィクションが異質で動的なものを抽象する力を持っていないからだ、と主張する。この格下げ的な物言いは劇中で世界に信じられている価値を転倒させる際のトリックスターや喜劇的人物たちの言い方にそっくりだ。
上の引用の比喩が面白いのは、日本語でも「球根」と呼ばれる植物の部分も地中に埋まった「茎」を指す点だろう(玉ねぎもそうだ)。そう考えてみると、bulbeを「球根」と邦訳することも「1個の政治的多様体における1個の支配的言語による権力奪取」として見えてくる。トリックスターは地下の中にある茎に「私は根じゃない」と言わせて、順調に機能していると思われていた地上のシステムを価値転倒しようとしているのだろう。
ユングによれば、トリックスターは無意識へと誘う「自我」の「影」であり、かつ無意識だった。そして彼(彼ら)は日常そのものを引っ掻きまわす元型だった(ケレーニイ他『トリックスター』を再び参照)。上の引用で「政治的」という言葉を発する彼(彼ら)は、どこか革命家に似てくる。「言語に対してはつねに、内的な構造的解体を引き起こすことができる—--これは根を探求することと根源的に異なるわけではない。樹木にはつねに何かしら系譜的なところがあって、これは決して民衆的な方法とは言えない。」(同上)
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さて、次は「最悪」のリゾーム、「はまむぎ」(根茎)の出番である。どうも「はまむぎ」は「精神」の「二分法」の使い手にとって「最悪」、という皮肉のようなのだ。多様体世界にとっては「最善」ということになるのだろうか?(おそらく、多様体世界は善悪の彼岸なのだろうが。)以下の引用部分を読むと、トリックスターの価値転倒の目論見が、「最善」と「最悪」を反転させたような皮肉な言葉として現れたように思えてくる。というのも、ここから多様体の話がようやく始まるように見えるからである。
3°----多様体の原理。
<多>が実際に実詞、つまり多様体として扱われている場合にのみ、それは主体ないし客体としての<一者>、自然的ないし精神的現実としての、イマージュかつ世界としての<一者>と、もはやいかなる関係も持たないことになる。
多様体はリゾーム状であり、樹木状の擬似多様体を告発する。
客体において軸の役目を果たす統一性はなく、主体において分割される統一性もない。
たとえ客体において中断し、主体の中に「回帰する」ことを目指すだけのものであっても、とにかく統一性はない。
多様体には主体も客体もなく、たださまざまな規定や、大きさや、次元があるだけで、そうしたものはこの多様体が性質を変えないかぎり成長しえないのだ (したがって組合せの諸法則は多様体とともに成長する)。
リゾームないし多様体としての操り人形(マリオネット)の糸は芸人ないし人形使いの、一なるものと仮想された意図にかかわるのではなくて、神経繊維の多様体にかかわるのであり、この神経繊維が今度は、始めの諸次元に接続された別の諸次元にしたがってもう1つ別の操り人形を形作るのである----「操り人形たちを動かしている糸あるいは棒----それらを網目組織と呼ぶことにしよう----その多様体は、それをテクストに投影する役者という人間の中にあると反論することもできるだろう。
よかろう、だが彼の神経繊維が今度は1つの網目組織を形作るのである。
そしてこの神経繊維は灰色の細胞という格子を通して未分化なるものの中にまだ浸かっている・・・・・・。
この働きはまさしく織匠たちの仕事、神話がパルク達やノルヌたちに帰している仕事に比べられる。」
<一者>のない<多>としての多様体については、少し前で「n-1」と表現されていた。「実詞」についてもさらに前に「<多>が、もはや何にも帰属しえないとき、つまり実詞の状態にまで高められるとき、何をもたらすか、まだわかっていない」とも言っていた。ここではもし「実詞の状態にまで高められる」なら、という設定で「多様体の原理」が(ドゥンス・スコトゥスの「個体化の原理」を匂わせながら)、トリックスター(語り手)の口を通して語られるのだろう。
笑ってしまうのは後半の引用だ。やっぱりこの語り手が「根」の話を始めた際に、ちょっとアルコールの雰囲気を予感して「酔ってるんじゃないか?」という疑いを持った。するとここで「そうだよ」と答えてくれるかのように、エルンスト・ユンガーのエッセイ「Approches drougues et ivresse」(未邦訳,訳すとしたら「アプローチ、ドラッグと酔い」,ドイツ語原題:Annäherungen. Drogen und Rausch,1970)が、多様体の話の中に挿入されるのである。
ユンガーのエッセイはあいにく未読なので深掘りはできないのだが、タイトルだけで笑いが込み上げてきたのである。というのも、こちらも促されるようにスピリタスを一杯やっていたからだ。確かに流体世界を手っ取り早く体験するには酔うことが一番なのかもしれない。すると意識はぐらつき、<一者>は遠のき、<多>の乱舞が始まるのだろう。すると操り人形を多数の糸で操る人形使いは自らの体内を縦横に走る神経ネットワークに操られ、網状組織が客体としての人形と主体としての人形使いの差を無くしていくはずだからだ。
「リゾームには、構造、樹木、根などにおいて見出されるような点ないし位置といったものはない。線があるだけなのだ。」やっぱり酔ってるよね?と語り手に向かって言いたくなるが、こちらも同様に酔っているからそう思えるのかもしれない。世界は流体になった。この後出てくるグレン・グールドの演奏についての言葉も、楽譜通りにピアノを弾いているのではなく音楽に酔っているのだと言いたげに聞こえる。「われわれは測定の諸統一 〔単位〕 を持たず、単に測定の多様性あるいは変動性を持つだけである。」ただ、グールドが「音楽上の点を線に変容させ、集合を増殖させている」という点は気にかかる。というのもこの後「集合」という言葉から「数」の問題に移るからである。
数学と音楽を一つのものとして考えたピュタゴラス派の理念が「多様体の原理」から捉え直されると、この理念なるものが中世教養7学科の頂点へと向かう数学から音楽への普遍性への7段階の最上位という拘束から解放されるかのようだからである。「数というものが、なんらかの次元内における諸要素の位置によってそうした要素を測定する普遍的概念であることをやめて、考察の対象となる次元にしたがって変化する1個の多様体にそれ自体なってしまった」。
<一>はシステムの外からシステムを「統一」する。それゆえ「超コード化」とも言い換えられる。語り手(トリックスター)は、システムを操る「人形使い」が神経組織も含めた網状組織から逃れる手管を語り出す。数を「普遍的概念」として扱うこと、そのような数と様々な事象を一対一に対応させること。すると、各々の線が特定の場所に対応して人形の体をトップダウンのシステムとして動かすことができる、というのだ。トリックスターはこの動きを政治の次元で語り、多様体世界から「権力奪取」する暴力として強調する。
統一という観念が現われてくるのは、1個の多様体においてシニフィアンによる権力奪取が生ずるか、あるいはそれに対応する主体化の過程が生ずるときだけだ----そのようなものが、客体的要素または点のあいだの1対1対応関係の総体を打ち立てる軸としての統一であり、あるいは主体における分化作用の二元論的論理の法則にしたがって自己を分割する<一者>なのだ。
統一はいつも考察の対象となるシステムの次元を補完する空虚な次元の裡で働く (超コード化)。
シュプレヒコールの口調が強まってくる場面だ。攻撃する相手を悪様に言い、こちらの立場を耳障りの良い言葉で聴衆に語りかけてくる。語り手は賛同者を募りたいのだろう。こっちはもう飲んでるからか「うんうん」と頷くばかりになって聞いている。「逃走線」なんて解放するような語が出てくれば思わず歓声を上げ、指笛を吹いて、拍手でもしそうなくならいだ。
だがまさしく、リゾームまたは多様体は超コード化を受けつけず、それが持つ線の数を、つまりそれらの線に付随する諸数という多様体を補完する次元をそなえることは決してない。
あらゆる多様体は、そのあらゆる次元を満たし、蔽いつくすというかぎりにおいて平たいものである。
したがって多様体の存立平面という言い方を用いることにしよう。
この「平面」なるものは、その上に成立する接続の数によって増加する次元をそなえるものであるにもかかわらず、多様体は外によって定義される。
つまり抽象的な線、逃走線、あるいは脱領土化線によって定義されるのである。
それらの多様体は、他の多様体と接続されるとき、こうした線にしたがって性質を変える。
存立平面 (格子) はあらゆる多様体の外である。
逃走線は多様体が実際に満たす一定数の有限な次元の現実を示すと同時に、多様体がこの線にしたがって変容することなしには、どんな補完的次元も不可能であることを示し、そうした多様体を、それらの次元がどんなものであれ、同じ一つの存立平面あるいは外在性の面の上に平たくする可能性と必要性を示す。
だが、浮かれてもいられない。また「存立平面」が出てきたのである。そうだ、この多様体は、馬鈴薯のように見てわかるようなものではなく、茎の部分が根のように地中に伸びる「はまむぎ」だった。異質なものとダイレクトに繋がる根茎の根と同様、ダイレクトに接している地中の茎は四方八方に広がっている。そのウジャウジャした状態は、状態である限り一つの多様体をなして他の多様体と繋がったり接している。
そんな「はまむぎ」のような根と茎の区別もつかないような雑草的な多様体同士が繋がる面を、共立的という意味合いで「存立平面」と呼んだのだろう。多様体も「はまむぎ」状なら、確かに「平たく」なって存立平面を覆っていくことができそうだ。

では、これが丸カッコ付きの(「格子」)を「存立平面」の隣に置いているのはどういうことだろう? そんな疑問が湧いてくると気もそぞろになって、構造を破壊する「逃走線」の開放性も後回しになる。すると、トリックスターの街頭演説は渦巻き世界が一回りしたかのように、「本」の話題に戻っている。速度が増しているのか、酔いが回っているのか・・・語り手の話の展開に振り回される。
本というものの理想は、すべてのものをこのような外在性の面の上、ただ1つのページの上、同じ1つの平面(プラージュ)の上に広げることであろう----体験した事件であれ、歴史的規定であれ、思惟された概念であれ、個人、グループ、社会的集団であれ。
クライストはこうしたタイプのエクリチュール、情動(アフェクト)に断ち切られる連鎖、変動する速度や加速や変形をそなえ、つねに外との関係を保っているエクリチュールを発明した。
開かれた環だ。
それゆえに彼のテクスト群は、1個の実体ないし主体の内面性によって形成される古典的ないしロマン派的な本に、あらゆる点において対立する。
国家装置としての本に対抗する戦争機械としての本。
n次元をそなえた平たい多様体は非意味的であり、非主体的である。
それらは不定冠詞、いやむしろ部分冠詞によって指し示される (これはいくらかのはまむぎ du chiendent である。いくらかのリゾーム du rhizome である、といったふうに・・・・・・。)
「存立平面」に広がるような「本というものの理想」・・・? この「平面」は滑らかで区切られることはないが、「はまむぎ」状のリゾームに覆われているところは情動の線で接続したり切断したりして常に動いているので各次元の段差なのか凸凹もあるようだ。するとまた量化子が出てくる。
全称記号(∀)と存在記号(∃)で量化すると文は内容ではなく、空間に広げられるとこの語り手は2度言っていたはずだ(どこだったかもう忘れてしまった)。ただ、使えるものは使おうと懐にしまっておいた論理学の考え方が今使えるぞ、いう思いが先に来て早速使ってみようとする。
存在記号を用いないと表現できない「はまむぎ」状の多様体は、常に情動と繋がっていて量化するにしても不透明さが残る。そう、モヤモヤするのだ。「ひとちぎりのパン」って正確な量にするとどれくらい?と言われてもグラム数では測れない。「お塩を少々」と同じような<一時性と不確かさ>を表す特称命題の群れは、流動的な世界でじっと見る(テオーリア)ことができず、どんどん増えてくる。(もしじっと見ることができる世界なら「すべては」と全称命題を思わず呟くのだろうが。) しかも、流れる線やモヤモヤした不透明さの外は確かにある。この外に向かう逃走線がどんどん「はまむぎ」状のリゾームをモヤモヤにしていけば、多様体が「存立平面」を「平ら」に覆うことになるのだろうか。
樹木状システムから極力離れていくこの多様体世界にとって存立平面を覆う多様体の群れは「理想」であり、世界を樹木に喩えて「根」すら「二分法」システムの反映と思い込む「精神」から遠く離れている。そして、くだんの「精神」が世界を固定し、一冊の「本」と見なしてきたとするなら、「存立平面」に「平たく」広がる「本」は、この流動世界での「本」のあり方の「理想」なのだろう。
ところで、しつこいようだが、「はまむぎ」ってレイモン・クノーの小説『はまむぎ』とやっぱりダブってないか?というのも、クノーのこの小説は登場人物たちが関係と無関係を繋いでは切断し、ストーリーの統一性を乱し放題にして続くリゾーム状の「本」だからである。 (だいぶ酔いが回ったようだ。けれど何に酔った?アルコール? この渦巻き世界の速度? それともトリックスターのシュプレヒコール?)
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今回は酔った勢いで言いがかりのような文言を連ねてしまった。『千のプラトー』に酔ったのか、スピリタスに酔ったのか、どちらのせいかわからない。両者かもしれない。この「落書き」を書くために移動の機内でノーパソを開いてキーをタップしていた時、ちょっとしたエアポケットに遭遇した衝撃が来て、世界の流動性を過剰に感じたからかもしれない。
戻ったらミハイル・バフチンの本を読みたいな、とふと思う。が、移住の時期が近づく中の引っ越し作業で、もう段ボール箱に詰めて封をしてしまったのだった。
モヤモヤが重なり合っている。
あの鼠たちの群れのように。。。

※見出し画像は浜辺に自生する「はまむぎ」ではなく、庭などに急激に繁茂する根茎植物「しばむぎ」。根茎植物の中でも増殖力が強く、有害植物とされる。
