D/Gに巻き込まれる305-『千のプラトー』「3 BC10000年----道徳の地質学 (地球はおのれを何と心得るか)」 5 :ホラーに没入すると、震撼は私と世界を外へ差し向ける兆し(シーニュ)になる-
地層のシステムは、だからシニフィアン-シニフィエとも、下部構造-上部構造とも、物質-精神ともまったく関係がない。
こうしたものはみな、すべての地層を1つに切りつめる仕方、あるいは脱領土化としての存立平面からシステムを切り離すことによってシステムを自閉させる仕方なのだ。
声がわれわれから遠ざかってしまう前に、要約をしておく必要があった。
チャレンジャーは話を終えようとしていた。
その声は聴き分けがたい金切り声になっていた。
彼は息を詰まらせていた。
その手は伸び切った挟みと化していて、もう何1つつかむことはできなかったが、それでもなお何かを漠然と指し示していた。
二重の仮面、二重の頭は、ある種の物質となって内側から流れ出しているようだったが、はたしてそれが凝固しつつあるのか、反対に液化しつつあるのか、もうわからなかった。
聴衆は戻ってきていたが、まるで影か亡霊のようだった。
「お聴きになりましたか?
こいつは獣の声ですな。」
だから、大急ぎで要約し、決定し、できるかぎり、何のためにならなくても用語法を決定しなければならなかった。
まず第1の概念群がある。
すなわち<器官なき身体>または<脱地層化された存立平面>、----<平面の質料>つまりこの身体の中であるいはこの平面の上で生起すること (強度の連続体や記号-微粒子群の発信や流れの接続からなる、切片化されない特異な多様体群)、----この身体を構築し、この平面を産み出し、あるいはそこに生起することを「ダイアグラム化」するものとしての、1つのあるいは複数の<抽象機械> (逃走線または絶対的な脱領土化)。
(※『千のプラトー』は1つのパラグラフが長いので、「D/Gに巻き込まれる」と題される一連の「落書き」では1文ずつ改行して引用している。なおパラグラフの区切りの場合は1行空けてある。)
◆
今回は、『千のプラトー』の第3プラトー、「3 BC10000年----道徳の地質学 (地球はおのれを何と心得るか)」の終盤部分に巻き込まれていく(もう長い間巻き込まれ続けているのだが)。前回は、「地層化作用」が個体化を経て準安定状態になる「第3の大きな地層群」の形成を、ルロワ=グーランの「手-道具」と「顔-言語」、イェルムスレウの「内容の形式」と「表現の形式」を重ね合わせるところから始まっていた。
その際、語り手/チャレンジャー教授は、「手」と「顔」という身体の拡張として「道具」と「言語」が外化していく方向性が言語では線状の時間の超線形性を、道具では分割可能な平坦な空間を形成していく点を、脱領土化の観点から「帝国主義」的なミクロ政治として扱い、その力の行使について口をきわめて批判していた。同時に言語学も「シニフィアンの帝国主義」として非難された。
一方語り手/チャレンジャー教授は、C・S・パースの記号論の記号の3分類(指標、象徴、図像)から記号動きを脱領土化の運動に重ね合わせて、「第3の大きな地層群」から「地層化作用」へ、さらに存立平面と抽象機械へと、実体の世界から関係の世界へと無理やり逆行するにつれて、その語調も激しくなり、言葉も身振りもせわしなくなってきた。
世界の速度が増して、切迫感のようなものがこちらの身体を圧しているように感じられる。さあ、そろそろホラーだな、と身構えるのだが、こちらも巻き込まれるのだろうという自覚はまだ薄い。ともあれ、今は語り手/チャレンジャー教授の「シニフィアン愛好家たち」への非難を堪能するとしよう。
シニフィアンの愛好家たちは、あまりに単純な状況を暗黙のモデルにしている。
語と物、というのがそれだ。
彼らは、語からシニフィアンを抽出し、物からは語に適合する----したがってシニフィアンに従属するシニフィエを抽出してくる。
彼らはこうして、言語に内在する等質的な領域に身を落ち着けるわけだ。
ここで、フーコーから1つの規範的な分析を借りてくることにしよう。
この分析は、そんなふうには見えないだけに、いっそう言語学にかかわっている。
例えば監獄という物がある。
監獄とは、1つの形式、「監獄-形式」、1地層上の内容の1形式であり、他のもろもろの内容の形式 (学校、兵舎、病院、工場) と関連している。
ところで、この物あるいは形式は、「監獄」という語にではなくて、まったく別の語と概念にかかわるのである。
例えば犯罪行為を分類し、言表し、翻訳し、実行しさえする1つの新たな仕方を表現する「犯罪者、犯罪行為」といったものに。
「犯罪行為」とは、「監獄」という内容の形式と相互に前提し合う表現の形式なのである。
それは、監獄をシニフィエとするシニフィアンなどではなく、法的なシニフィアンでさえないのだ。
人はそんなふうに考えて分析の全体を台無しにしてしまうのだが、そもそも表現の形式とはもろもろの語に還元されるものではなく、地層とみなされる社会的領野に出現する言表の集合 (それがまさに、記号の体制である) に還元される。
内容の形式は、物に還元されるものではなく、力の形成体としての複雑な物の状態 (建築、生命プログラム、等々) に還元される。
そこにはいわば、たえず交錯し続ける2つの多様体が、つまり表現の「言説的多様体」と内容の「非言説的多様体」が存在するのだ。
そしてそれは、内容の形式としての監獄がそれ自体の相対的表現をそなえ、つまり、監獄に固有のものであり、犯罪の言表とは必ずしも一致しないあらゆる種類の言表をそなえているために、それだけいっそう複雑なのである。
逆に、表現の形式としての<犯罪行為>はそれ自体、その自立的内容をそなえている。
というのも、それはただ単にもろもろの犯罪を評価する新たな仕方を表現しているだけでなく、犯罪を実行する新たな仕方をも表現しているからである。
内容の形式と表現の形式、監獄と犯罪行為は、おのおのその物語、ミクロな物語、その切片をそなえているのだ。
それらはせいぜい他の内容および他の表現とともに<抽象機械>の同じ1つの状態を含んでいるだけであり、この抽象機械はシニフィアンとして作動するわけではまったくなく、一種のダイアグラム〔図表〕として作動しているのである (監獄、学校、兵舎、病院・・・・・・にとって同一の抽象機械が存在する)。
そして、2つのタイプの形式、内容の切片と表現の切片を適合させるためには、それらの現実的な区別を考慮するアレンジメント、二重の挟み----あるいはむしろ二重の頭----をもつ具体的なアレンジメントが必要である。
力の形成体と記号の体制を分節し、分子的レベルで働く組織化作用がまさに必要なのだ (フーコーはこれを規律的権力による社会と呼ぶ)。(28)
要するに、互いに対応するものと仮定される語と物を対置することも、互いに適合するものと仮定されるシニフィアンとシニフィエを対置することも決してしてはならない。
対置すべきなのは、不安定な均衡状態または相互的全提示用体にあり、たがいに区別される形式化なのである。
「見えるものを口で言ってみても無駄である。
見えるものは言われることのうちには決して宿りはしないのだ。」
フーコーも駆り出されて、イェルムスレウの「内容と表現」の地層に重ねられると、『監獄の誕生』(1975)の「規範的な分析」も言語学領域に当てはまりそうに思えてくる。「内容の形式」は「監獄-形式」に、「表現の形式」は様々な「犯罪行為」に、というように。が、そうではなさそうだ。むしろイェルムスレウが言語学に見出した「地層化作用」を、フーコーの「考古学」によって言語に留めずに身の丈の世界へと拡張、否、横断していくようなのだ。
というのも、監獄の建築と犯罪行為に非連続的な関係としての「地層化作用」をひとたび見出せたなら、ある程度まで類似した建築と行為に同様の非連続的な関係を見ることが可能だからだ。「こうしたことは、学校についてもいえる」と語り手/チャレンジャー教授は、言語に基づいた知識教育を中心とした教育システムを意味理解の場とは捉えない。
むしろ「読み書きの学習における表現の形式化 (それに固有の相対的内容がある)」と「事物の学習における内容の形式化(それに固有の相対的内容がある)」の「二重鋏み」(非連続的な「地層」)を、監獄と同様に、超制御者(ベイトソン)が、「第3の大きな地層群」を形成し、他者と環境を超コード化して制御するミクロ政治の場である点を強調する。「人は決してシニフィアンでもシニフィエでもなく、ただ地層化されているのだ。」
すべての地層の中に記号を持ち込み、あるいはすべての記号の中にシニフィアンを持ち込むような (たとえ究極的には記号さえなしですますことになっても) 拡張的方法よりも好ましいのは、それゆえ、ある厳密に限定的な方法である。
まず第1に、記号をともなわない表現の諸形式がある (例えば、遺伝子のコードは言語とは何の関係もない)。
記号に言及しうるのはただ地層の一定の条件においてのみであり、それは決して言語一般と一致しない。
むしろ記号とは、そのまま言語の現実的用法または機能であるような言表の諸体制によって定義されるのである。
けれども、なぜ表現を形式化するこれらの体制のために記号(シーニュ)という語を保持しておくのか、別の仕方で形式化されるもろもろの同時的内容の方法を表示することも意味することもないままに。
それは、記号とは何かの記号ではなく、脱領土化と再領土化の記号であり、こうした運動において踏み越えられる何らかの閾をしるすものであるからだ。
記号という語が保存されねばならないのは、この意味においてなのである (われわれはそのことを動物の「記号」に関してさえ見てきた)。
語り手/チャレンジャー教授は、イェルムスレウの内容/表現の地層をフーコーの監獄/犯罪行為に重ねながら、文法ルールに従って意味に集約される言語を、意味以前の発話の断片(PCのキーボードの文字列から喃語のような文脈によって意味の変わる最小限の発話まで)であるフーコーの「言表」énoncé概念へと開いていく。そしてさらに、パースの「記号」の3分類(指標=領土的記号、象徴=脱領土化された記号、図像=再領土化の記号)に脱領土化の運動として独自の解釈を施した自説を、フーコーの「言表」を重ね合わせるのである。
こうすれば、記号signeを超コード化された言語記号を前提としたシニフィアン/シニフィエとして扱わずに済む、と語り手/チャレンジャー教授は考えているのかもしれない。表現の形式の層にある言語と内容の形式の層にある言表の両者を表す「記号」signeは意味を表す「語」と同時に何かの動きを示す「兆し」をも示唆するそれ自身層を成した「二重鋏み」のタームだからである。彼(彼ら)がパースの「記号」に脱領土化の運動を導入したのは、「記号」が意味と非意味を同時に行き来する中間/境界milieuを示すようなこれまで出てきたターム群の一つだからだろうか。
◆
「記号の体制はシニフィアンなのではな」く、「内容と表現はシニフィエとシニフィアンに還元されるものではない」と否定を繰り返す語り手/チャレンジャー教授は、「意味性」もまた「1つの体制」であり、「おそらく」とちょっと曖昧にしながらも「単に他の体制よりもいっそうたちが悪く、癌のように致命的で専制的であり、幻想の中でさらに前進する、そんな体制である」と非難の語調を強める。
言語学はイェルムスレウという固有名をシフター(指示語)として用いることで、言語の領域に限定されずあらゆる場に見られるようになった。そう考えると、語り手/チャレンジャー教授の非難のトーンは、様々な「記号の体制」の側から、それらへの言語における抑圧または排除の政治の効果なのだ、という彼(彼ら)の憤激から湧き出てくるのだろう。
いずれにせよ、内容と表現は、決してシニフィエとシニフィアンに還元されるものではない。
そして (これが第2の問題なのだが) それらは、下部構造と上部構造にもやはり還元されないのである。
決定因としての内容の優位を措定することはできないし、同様に、シニフィアンとしての表現の優位を措定する事もできない。
表現というものを内容を反映する形式と見なすことはできないのだ。
たとえその形式に「一定の」独立性と一定の反作用を及ぼす可能性を認めるにしてもである。
いわゆる経済的内容がすでに1個の形式を、そしてみずからに固有の表現の形式をそなえているということを考えてみるだけでよい。
内容の形式と表現の形式は、前提される2つの並行的形式化にかかわるのである。
それらの形式が絶えずその切片を交錯させ、一方の切片を他方の切片に組み込み続けるのは明白なことである。
ただこれは2つの形式がそこから派生してくる1つの抽象機械と、両者の諸関係を調節するもろもろの機械状アレンジメントによって可能になるのだ。
もしこの並行関係をピラミッド形のイマージュに置き替えてしまったら、人は内容を (その形式に至るまで)、すっかり<抽象的なもの>の性質をおびた、生産の経済的下部構造に仕立ててしまうことになる。
つまりその場合に、もろもろのアレンジメントは、上部構造の1階となり、そのようなものとして1つの国家装置の内部に位置づけられる。
記号の体制と表現の形式は上部構造の2階となり、イデオロギーによって規定される。
言語についてはもうどうしていいかわからなくなってしまう。
偉大なる<専制君主>は、国民の共有財産であり情報の伝達手段である言語に特別の地位を与えるべし、と決定した。
こうしてわれわれは、非等質的な記号の体制の中にしか存在しないのであり、情報を循環させるというよりも、むしろ相矛盾する秩序を配分するという言語の本性を見失ってしまう。
また、権力の組織化またはアレンジメントをまさに表現していて、内容が前提する表現としてのイデオロギーとは何の関係もないという記号の体制の本性 (イデオロギーとは、あらゆる現実的社会機械を覆い隠してしまう最悪の概念である)、国家装置の内部に位置づけられるものではいささかもなく、ありとあらゆる場所で内容と表現の形式化に働きかけ、それらの切片を交錯させる権力の組織化の本性、さらに、決して「最終審級においては」経済的なものではない内容の本性を見誤ってしまうのである。
というのは、直接に経済に関係する記号や表現に劣らず、非経済的な内容が存在するからである。
社会的形成体の地位(ステータス)が作り上げられるのも、いくらかのシニフィアンを下部構造に組み込むこと----あるいはその逆----によってではない。
つまり、政治経済学の中に、少しばかり男根(ファロス)や去勢を、精神分析学に少しばかり経済学や政治学を組み込むことによってではないのである。
上の引用で批判されているのは政治の理論だが、さらに言えばマルクス主義的な政治理論だろう。内容は形式を規定し形式は内容に影響を与えるというヘーゲル弁証法での「内容と形式」の相互関係は、土台と上部構造というマルクス主義の唯物論的な社会論に引き継がれ、土台としての経済の仕組みを変えることから上部構造である社会組織を変革するという政治運動の前提に据えられていたとされる。
(※「土台と上部構造」の関係については以下を参照。)
語り手/チャレンジャー教授が批判するのは、「内容と形式」はどんなに変革をもたらしても「ピラミッド」構造を維持し続けるという点である。一方、イェルムスレウの「内容と表現」では「内容の形式」と「表現の形式」が層を成し、互いに「非等質」であり、互いに影響し合うような等質性を持たず、「並行的」に発展するのだ、とこれまでの主張が繰り返される。
ここから、「土台と上部構造」の相互的な影響関係は「形式」に「特別な地位」を与えなければ出てこないとする語り手/チャレンジャー教授は、この「形式」こそ言語であると断し、「特別な地位」を与える動きを政治と呼んでいる。そんなふうに頭の中で彼らの声のトーンが訴えているように感じられるのだが、これも「内容の形式」と「表現の形式」を無理やり「翻訳」させて言語に「特別な地位」を与える超コード化された社会の思考習慣の一つの現れ(症例)なのだろう、と思い至る。
すると、これまでベイトソンから借りてきた段階stepをいいかげんに乱用してきたこちらの姿勢そのものを見透かしたように、語り手/チャレンジャー教授は侮蔑の眼差しで、こちらの耳が痛くなるような言葉を投げつけてくる(ような気がする)。
最後に第3の問題がある。
というのも、地層の体系を披瀝するに際して、あたかもそれらが段階的に秩序づけられ、完成に向かってさまざまな度合いを経由するものであるかのように、それらのあいだに一種の宇宙的なあるいは精神的でさえあるような進化を導入するそぶりを見せずにすますのは難しいからである。
しかし、そんなことは全然ない。
内容と表現のとるさまざまな形象は、段階などではない。
生物圏も精神圏もなく、いたるところにあるのはただ唯一の同じ<機械圏>なのだ。
まず第1に、諸地層をそれ自体として検討してみるなら、そのうちのどれかが他の1つより組織化の程度において劣るということはできない。
基層の役割を果たす地層でさえそうなのだ。
つまり、固定した秩序というものはなく、ある地層は、段階や度合の観点から見て、必要と思われる媒介とは無関係に、別の地層に対して直接、基層の役割を果たしうるのである (例えば、有機的現象にとっての無媒介な基層としてのミクロ物理学的領域)。
あるいはまた、見かけの秩序が逆転して、技術的あるいは文化的現象が、昆虫やバクテリアや微生物、さらにまた微粒子の発達にとって好適な腐植質、おいしいスープになることもある。
昆虫の時代として定義される工業の時代・・・・・・今日では、事態はもっと悪化している。
どの地層がどの地層とどんな方向に交通するか予測することができないのだ。
とりわけ、そこには低次のものにせよ高次のものにせよ組織化と呼べるものはまったくなく、基層は地層の全体をしめ、地層にとりこまれ、組織化の増大ではなく、変化が生ずるような環境となっている。
他方、存立平面を検討してみるならば、人は、それがすみずみまで実に雑多な物と記号によって貫かれているのに気づく。
記号の断片は化学的相互作用に隣接し、電子(エレクトロン)は言語に衝突し、ブラック・ホールが遺伝子のメッセージをキャッチし、結晶作用が情念を生み出し、蜜蜂と蘭が1つの文字を横断する・・・・・・。
こうしたことは、何かの「ように」生じているのではない。
つまり「電子のように」とか「相互作用のように」ではない。
存立平面とはあらゆるメタファーの廃絶であり、すべて存立するものは<現実>なのだ。
それらは電子そのものであり、真のブラック・ホールであり、現実の細胞小器官、真正の記号シークエンスなのである。
ただしそれらはみずからの地層から引き剥がされ、脱地層化され、脱コード化され、脱領土化されており、反りことによって存立平面においてそれらの隣接と相互神道が可能になるのである。
沈黙のダンス。
存立平面は、水準の差異や大きさの次元や距離を受けつけない。
それは、人工的なものと自然なものとのどんな差異も受けつけない。
それは、内容と表現の区別も、形式と形式化された実質の区別も受けつけない----、こうしたものはただ、地層によってのみ、そして地層との関係によってのみ存在する。
確かに、段階論では、次の次元へのステップがすでに設定されているので、ステップを踏むごとにステップ以前の状況を問題にする機会は激減するという特徴がある。ベイトソンなら、ステップを踏むことの失敗の状況に注目して、ステップ以前の状況に踏み入る際に仮説推量abductionの手続きで接近するという方法を採っていたが、単なる段階論として乱用すると、発生的な記述も先を見越した全体の枠組みを設けてしまうという弊が出てくる。
存立平面と抽象機械を常に全面に押し出す語り手/チャレンジャー教授の言葉は、「地層化作用」を段階的に語る際の盲点、言語批判をする言語使用が言語依存に傾斜する点を口を極めて批判している。それゆえ上の引用は、「存立平面」と「抽象機械」からなる多様体世界に接近できたとしても、言語はあくまで「メタファー」にとどまるのだ、という戒めにも受け取れる。(段階論を乱用してきたこの落書きに関する個人的見解だが。)
目的を設定して全体を先取りするような段階論は「地層化作用」を越えて超コード化された外部を設定する「第3の大きな地層群」を前提とした。というのも、そこから各段階に優劣をつけることが可能な樹木状の「精神」の「二分法」(「序---リゾーム」)が作動し始めるからである。樹木状の階層では、各段階は「媒介」にしかならない。一方、媒介なしの基層として「存立平面」は各地層の直接的な基層となっているという。
語り手/チャレンジャー教授はこの「媒介」なしの関係を「現実」と呼び、各地層におけるその偏在を強調する。そうして、地層を各段階として固定してその状態を世界の「現実」と称する樹木状のシステムにマダラ状の穴を空けてその外(存立平面)へとこちらを挑発し、叱咤し、誘う。彼(彼ら)のミクロ政治学からすれば、流動的な多様体世界を「翻訳」し固定するこのシステムの形成を辿ることは、「帝国主義」的権力が行使される現場を押さえることに等しいのだろう。
◆
語り手/チャレンジャー教授に叱咤されてちょっと反省気味に頭の中でグルグルしていると、彼(彼ら)はとんでもない方向に向かおうとしている。「存立平面」という「現実」にお前も晒されてみてはどうか?と言うのである。ようやくホラーが本格化しそうな雰囲気があたりに満ちてきた。そろそろ「人間」なるものから脱する覚悟をしなくてはならないのかもしれない。
だが、もし事物がみずからを規定していた地層を見失ってしまったとしたら、もし事物が絶対的な脱領土化に移行してしまったとしたら、人はいかにしてなおも事物を同定し、名指すことができるのだろうか?
眼はブラック・ホールであるが、みずからの地層と領土性の外にあるブラック・ホールと眼とはいったい何なのか?
確かに、われわれは地層と脱領土化された存立平面のあいだの大まかな二元論や対立に満足することはできない。
つまり、地層とはそれ自体相対的な脱領土化の諸速度によってつき動かされかつ限定されているのである。
しかも、絶対的な脱領土化はそもそもはじめからそこにあり、地層とは存立平面上での降下であり凝固であって、存立平面は<抽象機械>によって占められ、横断されるのである。
ところで、抽象機械というものは、それが横断する脱地層化した平面の上に展開されているのと同時に、みずからがその構成の統一性を規定している各地層の内部に包摂さて存在もしている。
そして、みずからがその把握の形式を規定しているいくつかの地層の中で半ば屹立した形で存在もしている。
存立平面の上を走り、あるいは踊るものは、したがってその地層のアウラを、波立ちを、記憶を、あるいは緊張をともなうのである。
存立平面は、ちょうど十分なだけ地層を保持し、自分自身の機械としてみずからのうちで作用するもろもろの変数をそこから抽出してくる。
存立平面または平面態(プラノメーヌ)とは、形式化されない素材からなる未分化な集合ではまったくなく、かといって、任意の形式化された素材からなるカオスといったものでもない。
確かに、存立平面上には、形式も実質もなく、内容も表現もなく、相対的で相互的な脱領土化もないのである。
しかし、諸地層の形式と実質をもとに、存立平面 (あるいは抽象機械) は強度の連続体を構成しているのだ。
つまり、存立平面は互いに区別される形式と実質からさまざまな強度を抽出し、そのために1つの連続性を作り出すのである。
もろもろの内容と表現のもとで、存立平面 (または抽象機械) は記号-微粒子 (分節子) を発し、かつ組み合わせ、この記号-微粒子は、最高度に脱領土化された微粒子のうちにもっとも非意味的な記号を機能させる。
もろもろの相対的な運動によって存立平面 (または抽象機械) は、脱領土化の流れの接続を行ない、このような接続は、それぞれの指標を絶対的な価値に変容させる。
地層の方は、もっぱら諸強度を、非連続的で形式と実質に捉えられたものとして含み、分節子を内容の微粒子と表現の項とに分割されたものとして含み、また脱領土化した流れを、分離され再領土化されたものとしてのみ含むのである。
諸強度の連続体、分節子あるいは微粒子-記号の組み合わさった発信、脱領土化された流れの接続----このようなものこそは、反対に、抽象機械によって操作された脱地層化作用を構成する因子であり、これは存立平面に固有の3つの因子なのだ。
ところでこうしてことすべてのどれ1つとして、混沌とした白夜というべきものはなく、未分化な暗黒の夜でもない。
そこにはもろもろの規則、すなわち「平面化」や、ダイアグラム化の諸規則があるのだ。
われわれは、それをもっと後で、あるいは別の箇所で見るつもりである。
抽象機械とは任意のものではない。
連続性、発信、それに組み合わせ、接続は、どんなふうにでも行なわれるわけではないのだ。
上の引用の最後に「連続性、発信、それに組み合わせ、接続は、どんなふうにでも行なわれるわけではないのだ」語の連続する一節が出てくると、ついにきたかな、というホラーな感覚に身構えてしまう。「存立平面上を走り、あるいは踊るものは、したがってその地層のアウラを、波立ちを、記憶を、あるいは緊張をともなう」とされるその強度が体の内外から湧き出てくるようにも感じられる。
「諸強度の連続体、分節子あるいは微粒子-記号の組み合わさった発信、脱領土化された流れの接続」・・・だいぶ来てるぞ。とはいえ巻き込まれながらも、「存立平面」の「現実」への接近を少し踏ん張って自分なりにイメージしてみる。「分節子」または「記号-微粒子」という「二重鋏み」は最低でも2つのベクトルを持っている、そう考えてみる。
線形ベクトルが走り回る渦巻き世界から始めると、「記号-微粒子」または「分節子」は強度の振動や波が「翻訳」されたものではなく、「相転移」したもののように思えてくる。分子状に湧き立つ世界の組み合わせが変わって別の構造になるかのような(液体が気体になるように)。すると、位置ベクトルを示す視点や終点のような点も、相転移の最中にあるからかもしれない。この点は激しく止まっていて、生きているように感じられる。生きていて変身しつつある点のように・・・、

あれ? こっちが身構えているのに語り手/チャレンジャー教授は、無視するようにして勝手に自説をまとめ始めている。ふと気が緩みながら聞き耳を立てるが、ちょっとだけこれは小説風の語りだったという記憶も残っているので、まだ体は緊張している。ちょっと安心したところに恐怖が襲ってくるのがホラーの常套だからだ。
とりあえず、最後の区別をしるさねばならない。
抽象機械は、存立平面上で生起することの複雑さを説明するさまざまな同時的状態を呈するというだけでなく、具体的な機械状アレンジメントと呼ばれるものと混同されてはならないものである。
抽象機械は、あるときは存立平面の上に展開されて、存立平面の連続体や発信や接続を構成し、あるときは1つの地層の内部に包摂されたままで、その構成の統一性と、牽引や捕捉の力を規定する。
機械状アレンジメントの方は、これと密接な関係をもつにしても、まったく異なるものだ。
まず第1に、それは、ある地層上で内容と表現の相互調整を行ない、双方の切片間の1対1対応を確固たるものにし、さまざまな上位層と傍層に地層が分割されるのを統御する。
ついでそれは、それぞれの地層について基層となっているものに対する関係と、それに対応する組織の変化を確固たるものにする。
そして最後にそれは、存立平面の方を向いている。
なぜなら、機械状アレンジメントは、一定の地層状に、また地層間に、そして平面に対する地層の関係の中に、必然的に抽象機械を現実化するからである。
有機体の地層に分節が生じるためには、例えばドゴン族の鍛冶屋の鉄床のような1つのアレンジメントが必要だった。
2つの地層間に関係が生じるためにも、1つのアレンジメントが必要なのだ。
もろもろの有機体が、それらを活用する社会的領野にとらえられ、深く入り込むために、アマゾネスたちは、有機体の地層が1つの戦争技術的地層に適合するように、みずからの乳房の1つを切り落とさねばならないのではなかろうか。
まるで女-弓-草原(ステップ)という恐るべきアレンジメントが要請されているようだ。
力の状態と記号の体制がその関係を交錯させるためには、さまざまなアレンジメントが必要である。
ある地層の内部に包摂された構成の統一性や、一定の地層とその他の地層との関係、それらの地層と存立平面との関係が、任意のものではなく、組織化されたものであるためには、さまざまなアレンジメントが必要である。
これらすべてに関して、機械状アレンジメントは、存立平面上に展開され、あるいは一地層の内部に包摂される抽象機械を現実化するのだ。
だから、これ以上に重要な問題はないのだ。
1つの機械状アレンジメントが存在する場合、抽象機械に対するその現実化の関係はどんなものか?
それは、どんなふうに、いかなる妥当性をもって抽象機械を現実化するのか?
もろもろのアレンジメントを分類すること。
われわれが機械圏と呼ぶのは、同時に諸地層の外と上とのあいだにある、もろもろの抽象機械と機械状アレンジメントの総体のことなのである。
「存立平面」の次は「機械状アレンジメント」か・・・。そうか、語が連続していくとアレンジメントのこのレベルに近づいているんだな、と思いながら語り手/チャレンジャー教授の言葉をこちらの体の感覚に引き付けて聞いていく。すると、アマゾネスの「女-弓-草原」という機械状アレンジメントでは、「戦争技術的地層に適合する」ために片方の乳房が切除されるという例にこちらも痛みを感じる。語の連鎖がくると、言葉も身体感覚に接続されるようだ。
とはいえ、上の引用では「存立平面」と「機械状アレンジメント」の「区別」がテーマのようだ。相転移の場面をイメージしたままで聴いていると、「存立平面」は潜熱を伴う第一次相転移(水から氷への構造相転移)で「機械状アレンジメント」は潜熱を伴わない第二次相転移(磁力の変化のような磁力相転移)のようなイメージで連想してしまっていることに気づく(どちらも度合いdegreeの世界だからか)。それでも地層における絶対的外と相対的の外は地層内にあっても「内容と表現」の地層的な関係にあることはイメージできる。
(※どうも相転移のイメージから抜け出せない。そうじゃない気もするのだが。)
個体化されると強度は消えるのではなく、むしろ「抽象機械」として偏在している。身体の切除という痛みは、言葉においてさえ「抽象機械」の作動を表しているのだろうか。確かに、痛みと恐怖はホラー世界では、外との遭遇にはうってつけの契機になっていた・・・ホラーの世界では震撼(身体と心の振動)と共に世界は外へと開かれるのだった。
◆
語り手/チャレンジャー教授が急に自説をまとめ出したのは、チャレンジャー教授がもう語れなくなる状態になりつつあったからだろう。語り手はチャレンジャー教授から離脱して、教授の声が分節をやめて金切り声に変わる様子を語り始める。獣じみた叫びから視点を移すと、教授の姿は人間ならざるものに相転移(変身)を始めている。顔も「二重」に、手も二重鋏みに、まるでロブスターのように・・・・しかも「流れ出して」・・・。 (以下は冒頭のエピグラフに引用した箇所に重複している。再掲する。)
声がわれわれから遠ざかってしまう前に、要約をしておく必要があった。
チャレンジャーは話を終えようとしていた。
その声は聴き分けがたい金切り声になっていた。
彼は息を詰まらせていた。
その手は伸び切った挟みと化していて、もう何1つつかむことはできなかったが、それでもなお何かを漠然と指し示していた。
二重の仮面、二重の頭は、ある種の物質となって内側から流れ出しているようだったが、はたしてそれが凝固しつつあるのか、反対に液化しつつあるのか、もうわからなかった。
聴衆は戻ってきていたが、まるで影か亡霊のようだった。
「お聴きになりましたか?
こいつは獣の声ですな。」
だから、大急ぎで要約し、決定し、できるかぎり、何のためにならなくても用語法を決定しなければならなかった。
まず第1の概念群がある。
すなわち<器官なき身体>または<脱地層化された存立平面>、----<平面の質料>つまりこの身体の中であるいはこの平面の上で生起すること (強度の連続体や記号-微粒子群の発信や流れの接続からなる、切片化されない特異な多様体群)、----この身体を構築し、この平面を産み出し、あるいはそこに生起することを「ダイアグラム化」するものとしての、1つのあるいは複数の<抽象機械> (逃走線または絶対的な脱領土化)。
「声がわれわれから遠ざかってしまう前に」・・・変だぞ、と思う。われわれって誰だ? それに、だいぶ前にコンピュータに話しかけるように話し始めた時点で、もう観客はいなかったはずだ。これまでチャレンジャー教授役をしていた語り手(トリックスター)が世界を掻き回し始めたのだろうか? 聞き手を感情移入させた世界を異化しているのだろうか? それと、もう金切り声で叫んでいるはずのチャレンジャー教授がまだ分節言語を使ってまとめようとする後半(「第1の概念群」以下)は、教授の心の中なのか、それとも語り手の勝手な補足なのか? そう思ってしまうほど自由間接話法もその自由度がどんどん高まっているかのようだ。
そして、「第1の概念群」を説明する段になると、もはや文法規則にうまく嵌まらない例の語の連続になっている。この世界が強度の踊りを踊っているのが感じられる。「この身体を構築し、この平面を産み出し、あるいはそこに生起することを「ダイアグラム化」するものとしての、1つのあるいは複数の<抽象機械> (逃走線または絶対的な脱領土化)」。
一見、このまとめは『千のプラトー』の概念群の説明として読むこともできるだろう。が、ホラー小説的な世界に身を置いてみると、説明する語り手/チャレンジャー教授の変容の方が気になり出してくる。言葉が意味から話してと聞き手の関係にシフトを始めると、例の語の連続が繰り返されて、世界全体が分節不能なものの雰囲気に変わってくるのが感じられてくる。以下の部分もそんな感じで身をすくめながら聞くことになる。
次に、地層のシステムというものがある。
強度の連続体の中から、地層は形式を裁断し、質料を実質として形作る。
組み合わせられた発信において、地層は表現と内容、表現の単位と内容の単位を、例えば記号と微粒子を区別する。
接続作用によって、地層は相対的運動とさまざまな領土性、相対的な脱領土化と相補的な再領土化を流れに割り当てつつ、もろもろの流れを分離させる。
こうして地層は、さまざまな運動によってつき動かされる二重分節をいたるところに確立する。
つまり、内容の形式と実質、表現の形式と実質を確立し、これらが、そのたびごとに規定可能な諸関係のもとに切片的な多様体を構成するのである。
地層 strata とはこのようなものである。
各地層は内容と表現の二重分節であり、その2つはどちらも現実的に区別され、相互的前提の状態にあって、たがいにもう一方の中に分散し、2つの頭をもつさまざまな機械状アレンジメントによってそれらの切片を関係させる。
地層間で変化するのは、内容と表現のあいだの現実的区別の性質、形式化された質料としての実質の性質、また相対的運動の性質である。
現実的区別は、ほぼ3大タイプに分類することができる。もろもろの大きさの次元に関する現実的-形式的の区別----ここに表現の共鳴が確立される (誘導(アンデュクシオン))----、相異なる主体に関する現実的-現実的の区別----ここに表現の線形性が確立される (形質導入(トランスデュクシオン))----、相異なる属性あるいはカテゴリーに関する現実的-本質的の区別----ここに表現の超線形性が確立される (翻訳(トラデュクシオン))。
「地層のシステム」の運動は「内容と表現」(イェルムスレウ)の地層からなる「二重分節」(マルチネ)である、という話はもう何度か聞いた。問題は、この言葉は、ロブスターのように鋏を持つ身体に変容し、流れ出し始めたチャレンジャー教授の発話なのか、心の中の呟きなのかはもうわからない点にある。語り手(トリックスター)がそんなわからなさをわざと演出して、今まで信じ込ませてきた教授の語りを異化しようとしているのだろうか? 言い換えれば、そんな単数の語り手や登場人物など、ここにはいないのだと暴露しているのだろうか?
また語の群れが蟻の隊列のように、「誘導(アンデュクシオン)」、「形質導入(トランスデュクシオン)」、「翻訳(トラデュクシオン)」と脚韻を踏みながらウネウネと這い回り始めた。「現実的区別は、ほぼ3大タイプに分類することができる。もろもろの大きさの次元に関する現実的-形式的の区別----ここに表現の共鳴が確立される (誘導(アンデュクシオン))----、相異なる主体に関する現実的-現実的の区別----ここに表現の線形性が確立される (形質導入(トランスデュクシオン))----、相異なる属性あるいはカテゴリーに関する現実的-本質的の区別----ここに表現の超線形性が確立される (翻訳(トラデュクシオン))」。
・・・と・・・と・・・と・・・と・・・.、、、言葉の後景に追いやられていた沈黙が、ざわめき始める。
◆
何かが語られている。それだけだ。言葉の群れは偶然分節されて意味を持っているが、語る主体が二重になってさらに複数化されてしまうと、意味をなさない言表とそう変わらないようにも感じられてくる。が、そこにも意味を求めてしまうのは、まだ人間でいられるという根拠のない余裕があるからだろうか?
1つの地層は、別の地層にとって基層の役割を果たす。
地層は、その環境、その実質的要素、その形式的特徴にしたがって構成の統一性をそなえている (<統合態>)。
だが、地層はその還元不可能な形式と結合される環境にしたがってもろもろの傍層に分裂し、その形式化された実質からなる層と、媒介的環境にしたがってもろもろの上位層に分裂する。
上位層と傍層はそれ自体地層と見なされるべきものである。
機械状アレンジメントは、地層間の関係を調整し、さらに、先ほどのさまざまな分割に合わせて各地層上の内容と表現の関係を調整するかぎりにおいて、間層である。
1つの同じアレンジメントが、もろもろの相異なる地層にまたがり、見かけ状は無秩序を呈することもありうる。
逆に、ある地層ないし地層の要素が、異なるアレンジメントによって、さらに別の地層とともに機能することもある。
結局、機械状アレンジメントとはメタ地層である、なぜなら、それは他方では存立平面の方を向いており、必然的に抽象機械を現実化するものだからである。
抽象機械は、各地層の内部に包摂されて存在しつつその<統合態(エキュメーヌ)>または構成の統一性を規定しており、かつ存立平面の上に展開されて存在し、その脱地層化作用を導くのである (<平面態(プラノメーヌ)>)。
アレンジメントは、したがって、地層の外にある抽象機械を何らかの仕方で現実化することなしには、地層の変数をその統一性に応じて調整することはできない。
機械状アレンジメントは、各地層上で内容と表現が交叉するところにあり、同時に、諸地層の総体と存立平面が交叉するところにある。
アレンジメントとは、ちょうど灯台のように、実際あらゆる方向に向きを変えるのである。
「機械状アレンジメント」は基層、上位層、間層の地層化作用の群からすればメタ地層であり、「各地層上の内容と表現が交叉するところにある」という。それは、地層の外にある抽象機械を「現実化」し「調整」すると「同時に、諸地層の総体と存立平面が交叉するところにある」のだと語り手/チャレンジャー教授(?)がまとめようとする。そして、まとめられる語はどれも「二重鋏み」、「二重分節」という特徴を持つ。一方、まとめる語り手自身も人間の姿を失って溶け始め(チャレンジャー教授)、または世界を掻き回し始めている(語り手(トリックスター))。こちらも「二重鋏み」のように同時に複数の方向へ向かっている。
語りと語られる事柄がこのような状況にあるとするなら、これら言葉の配置も鳥瞰すべき超コード化された次元を持つことはなさそうだ。(確かに、現代に氾濫するまとめ的な記事や記述は超コード化されすぎてスカスカだった。) 地図は描かれても消えるような「ダイアグラム」(図表)なのだ。そして語り手/チャレンジャー教授(?)が地図を描いてもその完成図はなく、作製過程のイメージだけが残るのかもしれない(地図作製)。
そうして、語り手とチャレンジャー教授も二重分節していくのだろう。語り手はチャレンジャー教授を対象として語る。だが、当のチャレンジャー教授は溶けていき、実体のない記述だけが残る。「お前らの信じている実体とはいったい何なのだ?」とホラーは問いかけるかのようである。
が、その問いかけは分節言語では伝達されなさそうだ。良くても叫びだろう。あるいは、発音できない未知の言葉か?
これで終わりだった。
こうしたことすべてが具体的な意味を持ってくるのは、もっと後になってからのことにすぎなかった。
分節された二重の仮面が、手袋や長上衣(チュニック)までもが崩れ落ちて、そこからいろいろな液体が流れ出し、それらが脱走する道筋となって「香の煙が充満し、風変わりな柄の壁紙をはりめぐらせた」公演会場の地層を新色するように思われた。
非分節化され、脱領土化されて、チャレンジャーはこうつぶやいていた----大地をわが身とともに運び去り、神秘の世界、毒にみちたわが庭園へ向けて出発するのだ、と。
彼はさらにこう囁くのだった----自体が進行し、記号が増殖するのは、潰走によってであると。
パニック、それは創造なのだ。
1人の少女が叫んだ、「最高に荒々しくて、最高に深刻でみにくい、凶暴なパニックの発作ね」。
誰1人要約を理解した者はいなかったし、誰1人チャレンジャーを引き止めようとする者はいなかった。
チャレンジャーは、というか彼の残り滓は、もう何も相対的なもののない奇妙な軌道に沿って、ゆっくり存立平面の方へと急いでいた。
彼は滑り込もうとしていた、回転扉の役割を演じるアレンジメントの中、分節子で作動し、強度のチク・タクという音をたて、絶対を連打する相乗的リズムを刻む (大時計) の中へ----「シルエットはくずれて、ほとんど人間のものとはいえぬ姿勢になり、異様な宇宙的リズムをチク・タクと刻む棺の形をした大時計の方へ、魅きつけられて奇異な運動を開始した。
(・・・・・・) シルエットは今や不思議な大時計にたどりついていた。
そして観客たちは濃い煙ごしに何やらはっきりしない鉤爪のようなものが、象形文字で覆われた大きな扉を撫で廻しているのを見た。
釣爪が触れると、ガチャガチャと不気味な音がした。
シルエットは、それから柩の形をした箱の中に入り、背後の扉を閉めた。
異様なチク・タクという音が再び鳴り始めた----、それはあらゆる秘密の扉が開かれるときの基調となる宇宙的な暗黒のリズムを打ちならしていた。」
----<機械圏(メカノスフェール)>、あるいはリゾーム圏。
「----<機械圏(メカノスフェール)>、あるいはリゾーム圏」。
あるいは・・・C・・thu・・・lhu・・・・・・・
最後の引用されたシーンの『ラヴクラフト全集 6』での邦訳(大瀧啓裕訳)は以下の通りである。。。比べてみると、語り手(トリックスター)は、その場に居合わせた「ド・マリニーとフィリップスのふたり」の登場人物を省略して、「ターバン姿のもの」またはチャレンジャー教授の変貌のみに集中する語りに変えて、聞く者を物語世界に直接誘導しているようにも見える。
ターバン姿のものは異様さきわまりない時計の前に達した。それをながめるド・マリニーとフィリップスのふたりは、濃密な煙を通して、ぼんやりとした黒い鉤爪が象形文字の刻まれた丈高い扉をまさぐるのを見た。まさぐっているうちに奇妙なかみあう音がした。するとターバン姿のものは棺形の時計のなかに入り、扉を閉めた。
ド・マリニーはもう自分を押さえてはおれなかったが、時計に駆け寄り、扉を開けたときには、そのなかはうつろだった。時を刻む異様な音がつづき、神秘的な通路の開口部のすべてに内在する、冥い宇宙的なリズムをうちたてていた。床の上には大きな白い手袋と、顎髭のついた仮面を握りしめる男の死体があったが、それ以上のものを何も告げてはくれなかった。
確かに、ラヴクラフトの物語世界は常に二重鋏みであり、読み手の身体も含む現在を二重に分節する。『銀の鍵』と『銀の鍵の門を越えて』の主人公ランドルフ・カーターの夢は、二重鋏みの世界の一方だったのだろう。すると、カーターが銀の鍵によって夢と思われていた別の世界に入り込んだのではなく、世界が二重であることを体験したように思えてくる。
そんなふうに想像するのは、語り手/チャレンジャー教授の語りが二重分節となって、さらにこのコズミック・ホラーに重なって地層化する場面に立ち会ってしまったからだろうか。
◆
言葉を意味にピン留めして哲学史に照らし合わせることに深入りしないように、フワフワ落書きしていると、言い方の方に注意が向く傾向が強くなることが、第3プラトーまで落書きしてみて実感として出てきた。単に深く考えることが苦手なのだが、それでも、言い方の方に注目しすぎても、意外に思想っぽい面に触れるような感覚になることは時折あった。(あくまで「触れる程度」だが。)
ともあれ、ようやく第3プラトーをフラフラと辿っただけの落書きもここでひとまずおしまいにしたい。(これからも時折修正したり補筆したりするだろうが。) 次は第4プラトー「4 1923年11月20日----言語学の公準」に移るのだが、ますます政治の匂いがプンプンしてきそうだ。というのも、タイトルにある日付は、注によれば、第一次大戦後に起きた「決定的インフレ」を指しているというのだが、レーニンが公に姿を現し演説した最後の日付けでもあり、ロシア・フォルマリズムの言語学者から「指令語」と呼ばれたレーニンの言い回しがテーマになるからである。
思えば、第3プラトーもC・S・パースの論理的「カテゴリー」の一つである指標・象徴・図像を語り手/チャレンジャー教授は、「テリトリー」(領土)という政治的な占有の場に変えて、「領土的記号、脱領土化された記号、再領土化の記号」と捉え直していた。彼(彼ら)のミクロ政治学が様々な歴史の時点を横切っていくと、歴史を「超コード化」する権力とそのトップダウン的記述も変形を余儀なくされるのかもしれない。
とはいえ、移住後のあれこれもあって、あちこち散漫になってしまっていたので、次回はちょっと気分を変えたい。「由無し事」記事を1つ挟みたいと思っている。『千のプラトー』の落書きをしながら、いつも荒川修作+マドリン・ギンズの作品図版や文を眺めているのだが、その延長でマドリン・ギンズの著書『ヘレン・ケラーまたは荒川修作』を全文打ち込み始めて、思い浮かぶことが多少あったからである。
ヘレン・ケラーになってアートを体験するまたはアートを創作する、ということはいったいどんなことなのだろう? そんなぼんやりしたことを徒然なるままに書きつくれば、という感じで「もの狂おしく」行けたらな、と思う。
※見出し画像はエドヴァルド・ムンク『叫び』(1893)。分節不能な叫びは世界を褶曲させ、地層化するかのようである。ムンクはこの絵のモチーフを、不安に苛まれ、幻覚が生じるなかで「自然を貫く果てしない叫びを聞いた」ことから得たという。
