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D/Gに巻き込まれる105-『千のプラトー』「1 序----リゾーム」 5: 蟻の隊列を追うように文字列を辿ったら記憶は忘却に変わっていた-

われわれはこの本をリゾームのようにして書いている。
それをさまざまなプラトーによって構成した。
それに循環的な形式を与えてきたが、それは笑うためだった。
毎朝起きては、われわれはおのおの、どのプラトーを取り上げようかと自問したものだ。
ここに5行、あちらに10行と書きつけながら、われわれは幻覚的な体験をした。
いろいろな線が、まるで小さな蟻の隊列みたいに、1つのプラトーを離れて別のプラトーに移るのを目撃したのだ。
われわれは数々の収束円を描いてきた。
それぞれのプラトーがどんな場所でも読まれ、どれでもいい別のプラトーと関係づけられるのである。
<多>に関しては、これを実際に作るような方法が必要だ。
いかなる活字組みの巧妙さ、いかなる語彙上の器用さ、語の混合ないし創造、いかなる統辞法上の大胆さもそうした方法にとって変わることはできない。
そうしたものは事実、多くの場合、イマージュとしての本を目指して、別の次元においては維持される統一性を散逸させ、あるいは分解することを目的とする擬態的手法にすぎない。
テクノ-ナルシズムなのだ。
活字組みの、語彙の、統辞法のさまざまな創造が必要なのは、それらが何か隠された統一性の表現形式に属することをやめて、それら自体が、考察されている多様体の次元の1つとなるときだけである。
われわれはこの分野においてごく稀な成功をいくつか知っている。
われわれには、それができなかった。
われわれはいくつかの語を用いただけであり、それらの語が今度はわれわれにとってプラトーとして機能したのである。
リゾーム学=分析分析(スキゾアナリーズ)-地層-分析=プラグマティック=ミクロ政治学。
これらの語は概念であるが、概念とは線である。
つまり何らかの多様体の次元に結び付けられた数のシステムである (地層、分子連鎖、逃走線または切断線、収束円、等々)。

ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ「序 リゾーム」(『千のプラトー』上巻 pp.54-55)

(※『千のプラトー』は1つのパラグラフが長いので、「D/Gに巻き込まれる」と題される一連の「落書き」では1文ずつ改行して引用している。なおパラグラフの区切りの場合は1行空けてある。)

トリックスターでもある語り手は、「序 リゾーム」後半に要点をまとめる「地図」から土地を切り離し、別の形に変形していく「地図作製」を自ら実践してみせた(「地図作製法」)。ベイトソン『精神の生態学へ』から統合失調症(分裂症)のコンテクストの延長で『千のプラトー』をさまよい始めたこちら側としては、語り手の「地図作製」のプロセスを辿るには「落書き」する程度の遅さがちょうどいいと思える場面だった。この本をどう理解するかではなく、自分をどうするかという問いが、この遅さによって行為に注意を向けるようなアフォーダンスのように知覚することができたからである。

が、困ったことも出てきた。この遅さでは『千のプラトー』のさまよいも2年かかりそうなのだ(おそらくこちら側が飽きてしまう)。ので、慣れてきたらペースアップも必要になるだろう。ただし、速読で済ませて薄っぺらな「地図」を作らないように、あくまで、自分を「本」の方に開いていくことを優先したい。昔のことだがD/Gを「本」という対象として性急にまとめた時、キーワードを目次順に並べてわかったふりをするな、と同書を読んでいた国外の先行者に叱られた。言われた当時はムカついたが、『千のプラトー』もLLMで生成可能な簡約版がウェブ上に氾濫する今では、貴重な叱咤だったと思い起す。

というのも、「序 リゾーム」は「本」を簡約する「精神」の「二分法」を痛烈に批判することから始まっていたからである。簡約していた昔は理解してまとめることに躍起で(単にまとめた自分を他に自慢したかったのだろう。無駄な承認欲求が強かったに違いない)、対象の方が自分の行為を批判していることに鈍感すぎた。というのも、語り手が「地図作製」を実践する過程で示していたのは、語を意味に収束させるのではなく、語をシフター(指示詞)として、または(語り手の言い方に倣うなら)、「線」(流線)として捉えることだったからである。

「(アンドレ=ジョルジュ・)オードリクール」という固有名詞が出てくると、植物学をめぐっていた記述から中国へ話が飛び、さらに中国のイメージから「ヘンリー・ミラー」の書簡へと連想がさらに伸びていく。すると今度はミラーの母国「アメリカ」へと話が移り、アンダーグラウンドやビートニクやギャングへと地下茎を張り巡らせるようにイメージが広がっていく。世界「地図」の上を飛ぶようでいながら、連想に次ぐ連想が展開して、地図が指し示す実際の土地とは関係のないトポロジカルな空間になっていくのである。

語り手の連想がどこかいい加減だなと思ったのは、植物学者から中国語の音韻学者へと専門を変えた経歴を持つオードリクールが「シフター」(指示語)になっていることに気づく前だった。「いい加減」じゃない「地図」をこちらも念頭に入れてしまっていた。だが、連想による「地図作製」では、語は何か別のものを示唆する矢印(ベクトル)のように扱われる。つまり、固有名詞や概念は意味へと収束するのではなく、指示詞としてただ繋げようとするのである。

すると、その動きは関係そのものの地図になっていく。何かを指す指示詞がそれ自体としては接続詞になっていくかのように。<と>・・・<と>・・・<と>・・・。ここは流線streamline(速度ベクトル)からなる流体世界なのだった。

(※ふと思いついたこと・・・機械学習はいわゆる「樹木状」のネットワークとグラフ構造の「層」をなすとされる。正解から逆算して誤差調整して学習するバックプロパゲーションでは、プログラムはツリー状だが、D/Gがいうほど「決定木」ではない。ただ、伝播の仕方はforword/backword(順/逆)が可能な微分の「連鎖律」でできているので可逆的であり、「探して正解を見つけようとする」ことはしない。「探して正解を見つける」方向は進化論的だが、その連鎖は不可逆だ。「地図」は空間である限り可逆だが、連想からなる「地図作製」は不可逆だろうな、という連想からついプチ地図作製に巻き込まれてしまった。)

今回の落書きで、ようやく「序 リゾーム」の最後の部分に入ることになる。語り手はここで「要約してみよう」と言い出す。「要約」だって? どうもここが流体世界であることを忘れさせようと企んでるんじゃないか? そんな疑念も頭をよぎる。ともあれ、ちょっと距離を置いて演説を聞いてみると、これまで不意に登場してきた語彙が勢揃いしている。(ただし、アレンジメント、存立平面、多様体という、リゾームをさらに包括的にイメージさせる語を除いて。)

リゾームの主要な特性を要約してみよう----樹木やその根とは違って、リゾームは任意の一点を他の任意の一点に連結する。
そしてその特徴の1つ1つは必ずしも同じ性質をもつ特徴にかかわるのではなく、それぞれが実に異なった記号の体制を、さらには非・記号の状態さえ機動させる。
リゾームは<一>にも<多>にも還元されない。
それは1が2になったものではなく、1が直接3、4、5、等々になったものでもない。
<一>から発生する<多>ではなく、<一>が付け加わる<多> (nプラス1) でもない。
それは統一性(ユニテ)〔単位〕からなっているのではなく、さまざまな次元から、あるいはむしろ変動する方向からなっている。
それは始まりも終わりもなく、常に中間(環境)であり、そこから成長し、溢れ出す。
それはn次元からなる線形の多様体、主体も客体もなく、存立平面上に平らに広げられ、そこからつねに<一>が引かれるような (nマイナス1) 多様体を形成する。
このような多様体はそれ自体性質を変えて変容することなしには、その諸次元を変化させることもない。
もろもろの点や位置の総体、そうした点のあいだの二元的関係と、そうした位置のあいだの1対1対応関係の総体によって定義される構造というものは反対に、リゾームはもっぱら線からなる。
次元としての切片性線、地層化線といった線である。
また極限的次元としての逃走線や脱領土化線からもなっていて、これにしたがい、これを追っていけば、多様体は性質を変えて変容してしまう。
そうした線(リーニエ)、ないし輪郭(リエアマン)を樹木状タイプの系統(リニエ)と混同してはならない。
後者は単に点や位置のあいだの極限可能なつながりにすぎないのだから。
樹木とは反対に、リゾームは再生の対象ではない。
樹木-イマージュとしての外的再生でも、樹木-構造としての内的再生でもないのだ。
リゾームは反(アンチ)系譜学である。
それは短い記憶、あるいは反記憶である。
リゾームは変化、拡張、征服、捕獲、刺しこみによって進行する。
筆記、図画、あるいは写真とは反対に、複写とは反対に、リゾームは産出され構築されるべき地図、つねに分解可能、連結可能、反転可能、変更可能で、多数の入口、出口をそなえ、さまざまな逃走線を含む地図になぞらえる。
地図に帰すべきものは複写の方であって、その逆ではない。
序列的コミュニケーションと予定されたつながりをそなえた中心化 (たとえ多くの中心があっても) システムに対立して、リゾームは、序列的でなく意味形成的でない非中心化システムであり、<将軍>も、組織化する記憶や中心的自動装置もなく、ただ諸状態の交通によってのみ定義されるシステムなのだ。
リゾームにおいて問題になるのは性衝動との関係であり、また動物との、植物との、世界との、政治との、書物との、自然および人工の事物との関係、つまり樹木状の関係とはまったく異なった関係である。
つまり、ありとあらゆる種類の「生成変化」である。

(同上 pp.51-53)

「要約」「リゾームの特性」についてだ。しかも、「根」(ラシーヌ)も「側根」(ラディセル)も対立項としては出てこないのだから、ツァラトゥストラの段階論として考えてみる。すると、「根茎」(リゾーム)を拡張した「リゾーム」状況を、「樹木状の関係とはまったく異なった関係」からなる世界として、聴く者のイメージを刷新させようとしているのだろう。聞いていると、これまで突然のように登場した語彙群が、繋ぎ直されていくのはよくわかる。

特徴的なのは否定に否定を重ねる言い方だ。「リゾームは<一>にも<多>にも還元されない。それは1が2になったものではなく、1が直接3、4、5、等々になったものでもない。<一>から発生する<多>ではなく、<一>が付け加わる<多> (nプラス1) でもない。」この言い方が、「一時性と不確かさ」を厳密に捉えようとする際の表現であることは確かだろう。そうして、「リゾームは変化、拡張、征服、捕獲、刺しこみによって進行する」と言い変えられる。

さらに「リゾームは産出され構築されるべき地図、つねに分解可能、連結可能、反転可能、変更可能で、多数の入口、出口をそなえ、さまざまな逃走線を含む地図になぞらえる」と続いて、語の羅列によって接続的な関係として繰り返しリズミカルに強調される。ふと、上の要約にはない「アレンジメント」が配列の意味を持っていたことが思い起こされる場面だ。

ただ、「中間」(milieu)という語は、初対面かもしれない。この言葉は「真ん中」や「中心」という意味と「背景」や「環境」という意味を併せ持つところが面白い。語り手は、項と項とを関係づける<と>いう接続詞を中心や真ん中としてイメージさせ、さらに項という前景を際立たせる背景や環境ともイメージさせようとしているようだ。私も今、「さらに」という言葉で2つの文を接続した。

これまでのリゾームに関わる語彙を説明するのではなく、羅列することで、羅列から関係の場へとシフトするのだとしたら、語り手の言葉もちょっと面白く聞こえてくる。「変化、拡張、征服、捕獲、刺しこみ」という部分にも、「分解可能、連結可能、反転可能、変更可能」という部分にもリズミカルな接続があり、言葉にするなら言葉の区切りを表す読点場所には、「そして」や「さらに」や「と」のような接続詞が入るのだろう、と予想はできる。

語の意味ではなく、語の羅列から関係の方をシミュレートするように前景化するということなら、「リゾームの特性」の「要約」になっているのだろう。フムフムと感心していると、語り手はニヤリとしながら急に新しい言葉を連発し始める。否、全然新しくない。この本のタイトルにある言葉である。しかも、その意味については全く無視して進んでいく。ここは流体世界だからな、と思いながら、立ち止まることは諦めた。

「プラトー〔高原、台地〕はつねに真ん中にある。始めでも終わりでもない。」真ん中(milieu)繋がりで「プラトー」plateauxときた(英語訳はJ・R・R・トールキン『指輪物語』の「中つ国」[middle earth]、変容しつつあるmiddleだ、固定したcenterじゃない)。この箇所については以前の落書き(「シンギュラリティからプルラリティに移住する-『精神の生態学へ』から『千のプラトー』へのセットアップ-」)で引用してベイトソンの「プラトー」の使い方と対照したので、ここではちょっと早回しで行く。

ベイトソンが「プラトー状態」と呼んだのは対立して争ったり(対称型分裂生成)、支配と服従の関係を作ったりしながら(相補型分裂生成)、共同体を維持する社会とは異なり、そのような関係の分裂生成(エスカレーション)には至らないように絶妙なバランスで存続する社会を定常型と呼んでその状況を「プラトー状態」と言い換えていた。具体的には1930年代のバリ島の社会に、ベイトソンはこの状態を見ていた。

「グレゴリー・ベイトソンは「プラトー」という語を、きわめて特殊なものを指すのに用いている」という語り手は、「分裂生成」を常態とする社会で「特殊なもの」として捉えていたという。一方、語り手が「プラトー」というとき、この「状態」は至る所にあるかのように語られる。ベイトソンの例を挙げれば、「対称型」「相補型」の「分裂生成」で満たされていると思われる社会にもある、と考えているようなのだ。

が、それが容易には見出されないのは、ベイトソンが見出したような「特殊なもの」ではなく、こちらの状態を変えることでふと感覚される関係そのもの、または「特異なもの」だからかもしれない。というのも、「特異なもの」は運動する最中で「短い記憶」にふと(一時的に)現れるからだ。

ここで、「本」の例がまた出てくる。プラトー状態の「本」とはどんなものか? 想像しながら語り手(トリックスター)の声を聴く。(中盤からは、冒頭のエピグラフに引用した部分の再掲になる。)

例えば、一冊の本は章から構成されるかぎり、それなりの頂点、それなりの終着点をそなえている。
逆に、もろもろのプラトーからなる本、脳におけるように、幾つもの微細な亀裂によってたがいに通じ合うプラトーからなる本の場合は、どのようなことが起こるのであろうか?
1つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてを、われわれはプラトーと呼ぶ。
われわれはこの本をリゾームのようにして書いている。
それをさまざまなプラトーによって構成した。
それに循環的な形式を与えてきたが、それは笑うためだった。
毎朝起きては、われわれはおのおの、どのプラトーを取り上げようかと自問したものだ。
ここに5行、あちらに10行と書きつけながら、われわれは幻覚的な体験をした。
いろいろな線が、まるで小さな蟻の隊列みたいに、1つのプラトーを離れて別のプラトーに移るのを目撃したのだ。
われわれは数々の収束円を描いてきた。
それぞれのプラトーがどんな場所でも読まれ、どれでもいい別のプラトーと関係づけられるのである。
<多>に関しては、これを実際に作るような方法が必要だ。
いかなる活字組みの巧妙さ、いかなる語彙上の器用さ、語の混合ないし創造、いかなる統辞法上の大胆さもそうした方法にとって変わることはできない。
そうしたものは事実、多くの場合、イマージュとしての本を目指して、別の次元においては維持される統一性を散逸させ、あるいは分解することを目的とする擬態的手法にすぎない。
テクノ-ナルシズムなのだ。
活字組みの、語彙の、統辞法のさまざまな創造が必要なのは、それらが何か隠された統一性の表現形式に属することをやめて、それら自体が、考察されている多様体の次元の1つとなるときだけである。
われわれはこの分野においてごく稀な成功をいくつか知っている。
われわれには、それができなかった。
われわれはいくつかの語を用いただけであり、それらの語が今度はわれわれにとってプラトーとして機能したのである。
リゾーム学=分析分析(スキゾアナリーズ)-地層-分析=プラグマティック=ミクロ政治学。
これらの語は概念であるが、概念とは線である。
つまり何らかの多様体の次元に結び付けられた数のシステムである (地層、分子連鎖、逃走線または切断線、収束円、等々)。

(同上 pp.53-55)

ここでの「プラトー」という語は、ひとまずは表面的にはこの本、つまり『千のプラトー』にある15の「プラトー」(「序 リゾーム」は第1プラトーと呼ばれる)と解釈できる。すると、「プラトー」が最初に決まっていて、そこにD/Gが各々別々の「プラトー」または同じ「プラトー」に数行程度書き加え、日が変わると今度は前日とは異なるところに書き加える様子が見えてくる。まるで各「プラトー」が増殖し、他の「プラトー」と関係を作ったり作らなかったりという書き方でこの本が出来上がったかのように。そんな解釈も可能だ。

一方、その作業の中で、さまざまな言葉が発明され、そこから「蟻の隊列」のように繋がっていくような言葉も、「リゾーム」を形成するという過程も語られている。「リゾーム学=分析分析(スキゾアナリーズ)-地層-分析=プラグマティック=ミクロ政治学」等がそれらである。面白いのは、「プラグマティック」という語がここで初めて登場するように思える点だ。つまり、本の順番に従えば初登場と思えてしまうが、D/Gの書き方ではすでにどこかで登場していると想像することもできる。

書誌的には「序 リゾーム」が最初に発表されたとしても、他のプラトーも同時進行で書かれている最中であれば、そんな想定をしても構わないだろう。読み方についても、D/Gは、第15プラトー以外はどこからでも読んでよいと断っていたはずなので、初登場と感じるのは、こっちの読み方の勝手(習慣に従いすぎた)と考えればいい。

最後に「収束円」という語が出てくるが、現在のところ線を速度ベクトル(流線)と仮定しているこの落書きでは「収束」convergenceは海洋学っぽい理解で「収斂」convergenceを重ねてイメージしている。「円」とあるので数学での離散とのセットで語られる円の内側を指すのだろうが、流体世界として考えると海水の流れように乱流が一つの流域に集まってくるような想像である。そんな感じで「プラトー」が出来上がるようにイメージしている。もちろん、この流体世界では、「収束円」も「(地層、分子連鎖、逃走線または切断線、収束円、等々)」のように、読点で接続された「アリの隊列」のようなものとして語り手に提示される線なのだが、この「収束」のイメージが「プラトー」に重なるのかな、と思いつつ・・・。

表面的な部分でD/Gのこの書き方に痺れて、油断していると、流体世界の語り手(トリックスター)の声が「アレンジメント」という語を繰り返し始めていた。シュプレヒコールがだいぶ強めになって、「われわれは」という言葉も叫びも混じっているように聞こえる。「プラトー」 <と> 「アレンジメント」か。。。どんどん<と>の方に挟み込む2つの概念も接近してきているようだ。

どんな場合でも、われわれは科学という肩書きを主張はしない。
われわれは科学性もイデオロギーも知らず、ただ単にアレンジメントを知るにすぎない。
そして存在するのは欲望の機械状アレンジメントだけ、言表行為の集団的アレンジメントだけである。
意味性というものはなく、主体化というものもない--- n人で書くこと (個別化されたあらゆる言表行為は支配的な意味作用に囚われたままで、意味作用を行なうあらゆる欲望は支配される主体にかかわる)。
1つのアレンジメントというものはみずからの多様体において、必然的に、記号論的流れに対して作用すると同時に物質的流れや社会的流れに対して作用する (理論的あるいは科学的コーパスにおいてそれが繰り返し取り上げられうるということとは無関係に)。
現実の領野すなわち世界、表象の領野すなわち本、主体性の領野すなわち著者のあいだの三分化はもはや存在しない。
けれどもアレンジメントというものはそうした領野のそれぞれから取ってきたいくつかの多様体を連結するのであり、そのため1つの本は次に書かれる本をその続編とすることも、世界の中にその対象(オブジェ)を持つことも、1人ないし数人の著者のうちにその主体を持つこともないのだ。
要するに、エクリチュールが何らかの「外」の何おいて成立することがこれで十分ということは決してないとわれわれには思われる。

(同上 pp.55-56)

無意識のあり方が大きく関わっていることを示す場面だ。表層としての意識に対する深層に沈む無意識というフロイトの無意識は、抑圧するもの/されるものの関係にあった。が、語り手は無意識を生産に結びつけた。というのも、どうも語り手は無意識がすでに表層の意識に亀裂のように線状に縦横に走っていて多様なレベルにつながり、触発し、作動していると考えているようからだ。地上に出ている「茎」と土に繋がる「根」という区別を批判して、根と直接土に繋がる「根茎」は、この状態にふさわしいイメージなのだろう。(生産する無意識の詳細は、フェリックス・ガタリ『機械状無意識』を参照。)

「アレンジメント」をその動きも含めた「根茎」のトポロジカルなプロセスと考えてみる。すると、機械状/言表行為の集団的と2つに枝分かれした「アレンジメント」は、物質的/非物質的なレベルでの異質なものの繋がり合う動的で複雑なシステムなのだろう。「プラトー」はそのような複雑な一時性と不確かさを担う状態のやや空間寄り(それゆえ地理空間的にも使用される)の広がりの表現のようだ。(つい身近な対概念を探して、この両者に状態を指す「プログラム」と過程を指す「アルゴリズム」が重ねてしまうのだが。)

動的で異質なもの同士の複雑なつながりからすれば、主体は主体性という集団的なアレンジメントであり、主体を作る言語は主体を前提としたコミュニケーションの道具でもなくなる。とすれば、語り手が「本」を問題にしていることがこちらの思考習慣の根っこを刈り取って、根茎にすげ替えようとする語り手(トリックスター)の企みがどんどん迫ってくるように感じる。「私が本を読む」という命題にしがみつくと、「そんなもの、後生大事にして何になる?」と呆れ顔でトリックスターが鼻で笑う。

「外」というものは、イマージュも、意味作用も、主体性も持たない。
世界のイマージュとしての本に対して、「外」とのアレンジメントとしての本。
それはリゾームとしての本であって、もはや二分法的な、直根、あるいはひげ根のような本ではない。
決して根にならないこと、または根を生やさないことだ。
そうした古めかしい手管に再びすがらないことは、確かに難しいが、「私の頭に浮かぶ物は、その根のところではなく、真ん中辺に位置する何らかの点として私に現われてくる。
だからそれらの物を心に留めようと試みたまえ、茎の真ん中辺でしか生長を始めない草を心に留め、それに自分をゆだねてみたまえ。」
どうしてそれがそんなにも難しいのか?
それはすでに知覚的記号論の一問題である。
物を上から下でもその逆でもなく、左から右でもその逆でもなく、真ん中で知覚することは容易ではない----試してみたまえ、そうすればすべてが変わることがわかるだろう。
事物(もの)や言葉の中に草を見出すのはやさしくない (ニーチェは同様にアフォリズムは「反芻」されなければならぬと言っていた。そしてプラトーというものは決してそこに住まう牝牛たちと区別できないし、その牝牛たちはまた空の雲でもある)。

(同上 p.56)

「私の頭に浮かぶ物は、その根のところではなく、真ん中辺に位置する何らかの点として私に現われてくる。だからそれらの物を心に留めようと試みたまえ、茎の真ん中辺でしか生長を始めない草を心に留め、それに自分をゆだねてみたまえ」というカフカの言葉(『日記』)は、まるで禅の師が弟子に発する問いのようだ。ここから語り手は上下も左右もない「真ん中」middleを想像してみろという。さらに、そんな「本」があるのだともいうのだ。

瞑想するように「真ん中」middleをまずは「点」として「反芻」してみる。もちろん「点」は「流線」(速度ベクトル)だ。middleは変容する過程でもあるのだから「点」で固定はできない。すると、「真ん中」があちこちに移動し始める。ぼんやりしたモヤモヤの状態になる。中心centerにはならずにその状態も「無中心」になってくる。まるでブラウン運動だ。「無心」という語が思い浮かぶ。これがプラトーということか? 否、「真ん中」が「点」から「線」になるとしても、各「線」は一様な速度で動くことはないはずだ・・・。

稚拙だが、概念を「線」(流線)にするように試みようとすると、以上のような過程が咄嗟に思い浮かんだ。それは場所ごとに速度が異なる渦巻き状の流体世界に接近してくる。つまり、流体世界にいれば、前景だった対象が後景の環境の方に溶け込んでいくはずだ。そうして、「イマージュも、意味作用も、主体もない」「外」へ接する「根茎」にすげ替えられる「本」があるとしたら、もはや「本」と指示することすらできないギリギリのところにある曖昧でモヤモヤした状態なのだろう・・・「プラトー」・・・。

「本」を対象として捉え、それを読む/書くと考えているような従来の思考習慣は、「歴史」を扱う際に典型的に現れる、と語り手は考えているようである。しかもそこには読む/書くという習慣を成り立たせる文字文化の政治性がよく現れていると語り手は主張する。文字文化は「定住民族」による非定住民族や無文字文化の差別や排除という権力行使を土台として成り立っているというのである。

そこから、「遊牧論」(ノマドロジー)という主張が出てくるのだが、トリックスターは韻で遊ぶのが常套であることを念頭におくと、ライプニッツのモナドロジーと韻を踏む仕掛けも匂わせているようだ。というのも、世界の最小単位はモナドmonadoのような粒子=点ではなく、ノマドnomadのような移動する線であるという言い換えには、皮肉のトーンが響いているように思えるからである。

人々は歴史を書く。
だがつねにそれを定住民族の視点から、そして国家という統一的装置の名において書いてきた。たとえ遊牧民(ノマド)を語るときでもやはりこの装置が働くのだ。
欠けているのは遊牧論(ノマドロジー)であって、それは歴史に対立する。
とはいえそこにもまた、ごく稀だが偉大な成功がいくつもある、例えば子供十字軍について----可変的諸次元をそなえたプラトーに等しいものとして物語を積み重ねるマルセル・シュオブの本。
アンジェイエフスキの本『天国の門』は、中断のないたった1つの文でできている。
子供達の流れ、足踏みや長い列や加速などをともなう歩行の流れ、行列の先頭にいる老修道士に打ち明けられる子供たちのあらゆる告解からなる記号論的流れ、欲望と性行動の流れ。
この子供たちはそれぞれ愛ゆえに出かけてきたのだし、またヴァンドーム伯爵の、死後も生き続ける男色的な、暗い欲望に多かれ少なかれじかに引きずられており、この流れは収束円をともなっている。
----重要なのはこれらの流れが「一になるか多になるか」ではない。
そんなことはどうでもいいのだ。
言表行為の集団的アレンジメント、欲望の機械状アレンジメントがあり、それらが相互に絡み合い、どちらもあらゆる仕方で多様体になる驚異的な外につながれている。
それから、もっとも最近では、第4回十字軍に関するアルマン・フォラシの本『分解』、そこでは文は斥けあってばらばらになるか、それともひしめき合って共存し、文字や活字組みは、十字軍が錯乱するにしたがって踊りはじめる。
これらこそ遊牧的、リゾーム的エクリチュールのモデルである。
エクリチュールは戦争機械と逃走線に合体し、地層、分節、定住性、国家装置を放棄する。
けれどもどうして、まだ1個のモデルが必要なのか?
本というものはいまだに十字軍の「イマージュ」ではないのか?
いまだに統一性が保存されているのではないか?
シュオブの場合には回転軸的統一として、ファラシの場合には中断された統一として、『天国の門』という最も美しい場合においては死んだ伯爵の統一として?
十字軍のそれよりもいっそう深い遊牧性が、本物の遊牧民のそれが必要なのだろうか、それとももはや動きさえせず、もはや何も模倣しない人々の遊牧性が必要なのだろうか?
そうした人々はただアレンジを行なっているのだ。

(同上 pp.56-58)

語り手は歴史に代表される本にノマドロジーを展開していく。否、展開しすぎてしまったようだ。マルセル・シュオブの本、アンジェイエフスキの本『天国の門』、そして、アルマン・フォラシの本『分解』を列挙して、アレンジメントとしての本に「モデル」を求めてしまう自分にノリツッコミをする語り手は、「外」に直接繋がるアレンジメントの動きを「モデル」を通して「イマージュ」の方に向け直してしまったのである。

「これらこそ遊牧的、リゾーム的エクリチュールのモデルである。エクリチュールは戦争機械と逃走線に合体し、地層、分節、定住性、国家装置を放棄する。けれどもどうして、まだ1個のモデルが必要なのか?」「根茎」(リゾーム)を「側根」(ラディセル)にすげ替えてしまえば、「根」(ラシーヌ)から地上に茎を伸ばす樹木まではそう遠くはない。部分になれば全体が控えている。その危険を自演するトリックスターは、ここからちょっと冷静になり、慎重になるようにも見える。

歴史には、「遊牧論」(ノマドロジー)を展開する余地がまだ多く残されている。と同時に、遊牧論(ノマドロジー)には全体としての神によってすでに計算された(予定調和)部分であるとする「単子論」(モナドロジー)に変わる余地も含むのだ。語り手のいう「本」とは、そのような線と点との強度が絡まって作製され続ける「地図」なのだろう。そこには「作製」しつつある柔らかいプロセスと「作製」された硬い状態(激しく止まっているのだが)の「地図」の両者が、常に重なり合っているのである。

語り手(トリックスター)は、慎重に「いかにして本は、再現すべき世界ではなくむしろ、非等質性においてアレンジメントを作りうる十分な「外」を見出すのだろうか?」と問う。複写される「教養的なものとしての本」の中で、教養を活用して「点」を「線」に、「根」を「根茎」にすげ替えるものはないか? 複写によってではなく地図によって教養を活用するものを語り手は「リゾーム論=ポップ分析(アナリーズ)」と名付ける。この場合、popはシャンパンの栓を外す時の破裂音、不意に飛び出すような動きを表しているようだ。

「点」を「線」に変える「教養」は、科学の中に、特に「数学」に隠れていると語り手はいう。「なぜなら科学は、したい放題にさせておけば完全に狂ってしまうだろうからだ。数学を見るがいい。それは科学などではなく、驚異的な隠語、それも遊牧的な隠語なのだ」と。語り手はどの「数学」を想定しているのだろうか? 位相幾何学か? 流体力学に必要なベクトル解析、微積分、偏微分、テンソル解析、複素関数だろうか?

そんなことを考えていると、「点」を「線」に変える話は歴史の話に飛んでいる。否、飛んでいるというのは数理科学と人文社会科学で分けるこちらの思考習慣がそう思わせるだけなのだろう。語り手には、こちらが複写する「教養」の「塊(ブロック)」にいまだにしがみついていると嘲笑されそうだ。が、そんなことかまうもんかという表情をする語り手の語調は、だいぶ強まってきている。「何か意味する切断よりもむしろ、知覚しがたい断層を。」

遊牧民たちは、国家装置に対抗して戦争機械を発明した。
いまだかつて歴史が遊牧性を理解したためしはなく、いまだかつて本が「外」を理解したためしはない。
長い歴史を通じて、いつも国家は本と思考のモデルだった----ロゴス、王としての哲学者、<イデア>の超越性、概念の内面性、諸精神の共和国、理性の法廷、思考の役人たち、立法者であり主体である人間。
世界の秩序の内面化されたイマージュであるという、そして人間を根付かせるという国家の思い上がり。
それらは1つのアレンジメント、思考がそれ自体遊牧的になり、本がありとあらゆるしなやかな機械にとっても一部品、1つのリゾームにとっての茎になるようにするアレンジメントなのだ (ゲーテに対立するクライストとカフカ)。

(同上 p.59)

複写や教養を強いる思考習慣が「モデル」とするもの、「国家」が出てきた。「国家」をめぐる名詞句が「蟻の隊列」のように続く。「ロゴス、王としての哲学者、<イデア>の超越性、概念の内面性、諸精神の共和国、理性の法廷、思考の役人たち、立法者であり主体である人間。」 <と>・・・<と>・・・<と>・・・と接続するだけの語が出てきたらちょっと身構えなくてはならない。それは覚えた。

いよいよシュプレヒコールを批判対象である「国家」に向けて、革命や武装蜂起にこちらを扇動してくるのだろうか? そう予想していると、意外とそうでもない。トリックスターは「自分自身に革命を起こせ」と言わんばかりである。むしろ「国家」の複写の側に「ゲーテ」を置いて、彼の書き方に「対立する」ような想定で「クライストやカフカ」のように書くことから始めるべきだという。

これまで登場した見知らぬ語たちが、語り手の口からポンポン出てくる。勢揃いだ。ひとまず終わりが近づいているのだろう。「nで、nマイナス1で書くこと、スローガンで書くこと----リゾームになり根にはなるな、決して種を植えるな! 蒔くな、突き刺せ! 一にも多にもなるな、多様体であれ! 線を作れ! 決して点を作るな! スピードは点を線に変容させる! 速くあれ、たとえ場を動かぬときでも! 幸運(シャンス)の線、ヒップ(アンシュ)の線、逃走線。あなたのうちに将軍を目覚めさせるな!」

トリックスターの二色の声は叫びとなって最高潮に達したかのようだ。そうして、その中にゴダールの言葉をちょっと挟んで、ミシシッピ側周辺を舞台にしたミュージカル『ショウ・ボート』(1927)の劇中歌「オールドマン・リバー」の一節が流れる中、フィナーレと思しき流れに変わっていく。「He don’t plant tatos / Don’t plant cotton / Then that plants them is soon forgotten / But old man river he keeps rollin’ along」

リゾームには始まりも終点もない。
いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲 intermezzo なのだ。
樹木は血統であるが、リゾームは同盟であり、もっぱら同盟に属する。
樹木は「である(エートル)」を押し付けるが、リゾームは接続詞「と・・・・・・と・・・・・・と・・・・・・」を生地としている。
この接続詞には動詞「である(エートル)」を揺さぶり根こそぎにする十分な力がある。
どこへ行くのか、どこから出発するのか、結局のところ何が言いたいのか、といった問いは無用である。
全てをご破産にすること、ゼロから出発あるいは再出発すること、1つの始まり、あるいは基盤を求めるということは、旅と運動についての誤った考え方 (方法的、教育的、秘儀伝授的、象徴的・・・・・・等々)を含んでいる。
しかしクライスト、レンツ、あるいはビュヒナーは、旅することについても運動することについても別の仕方を示している。
中間で、中間から出発して、入ったり出たりするのであって、始めることも終えることもない。
それ以上にまた、アメリカ文学、そしてすでにイギリス文学こそ、このようなリゾーム的感覚を示し、事物のあいだを動きまわって「と (そして)」の論理を打ちたて、存在論を覆し、基盤を廃棄し、終わりも始まりも拒否するすべを知っていた。
1つの実践〔プラグマティック〕を作り出すすべを知っていたのだ。
つまり、中間とは決して中庸ということではなく、逆に事物(もの)が速度を増す場所なのだ。
事物(もの)のあいだとは、相互に1つのものからもう1つのものに及ぶ定位可能な関係を指すのではなく、1つもう1つを両方ともまきこんでいく垂直的方向、横断的運動を指すのだ。
始めも終わりもなく、両岸を侵食し、真ん中で速度を増す流れなのだ。

(同上 pp.60-61)

あれ? イギリス文学まで出てきたぞ! そうだった。他のプラトー(章)ではもう出てきているんだろう。このプラトーから読めば初めてかもしれないが、そんな読み方は「歴史」と同じだぞ、と語り手にどやされそうだ。と思っていると、度合い(強度)の中で、特に速度が前面に押し出されている。否、トリックスターが速度を上げているのか、この世界の速度が増しているのか?

「事物(もの)のあいだとは、相互に1つのものからもう1つのものに及ぶ定位可能な関係を指すのではなく、1つともう1つを両方ともまきこんでいく垂直的方向、横断的運動を指すのだ。」 そうかもしれない。こっちも速度酔いをして巻き込まれていたのだった。流れを、川を上から見たような安易な平面イメージで考えてしまいがちなこちらに向かって、トリックスターは「垂直的方向、横断的運動」「まきこんでいく」という。もっと多次元だ、いやもっと多様なのだ、と。

まだまだ、ここをさまようのだろう

この世界が渦巻きのように想像するのはこの多次元性か?中間になるほど速さが増すからかもしれない。たとえば、台風の目(「中心」center)では気圧が最も低くなり凪のような状態も出現する。が、「真ん中」middleは常に動いている。中心は方向の異なる上昇気流<と>下降気流が合流することで一時的にそうなっているだろうからだ。2つの気流を出合わせる<と>は確かに「真ん中」middleにあって、2つ気流の速度が強烈に増す「壁雲」(アイウォール)も同時に作り出している。ここでの「線」は「力」なのだろう

https://tenki.jp/bousai/knowledge/5accc20.html参照

そんなこと思っていると、トリックスターの姿は跡形もなく消えていた。台風のようだったな、と思う。が、そこはこちらがちょっとの間、凪いでいる状態に置いていかれただけなのかもしれない。少し晴れ間も見えるな・・・そんな私は、「短い記憶」でできた世界には馴染んできたようだ。そして、この世界に<と>が満ち溢れてきていて、あたりに「壁雲」(アイウォール)が聳え立っていることを、もう忘れている・・・

移住前日に、「序 リゾーム」の「落書き」をひとまず終えた。(終えたというとトリックスターにまた嘲笑されそうだが。) 紙の資料が全て段ボール箱に収まった状態なので、手元には文庫版『千のプラトー』上巻しかなくなった。ので、他の資料を参照することが少なくなるので、打ち込んだ資料、ウェブ上の資料、そして頭の中の乏しいデータのみでダラダラと書き連ねることになった。(もちろん、これは言い訳だ。)

ともあれ、様々な語に翻弄されながら、少しずつ慣れてきている自分を警戒している自分がいるのは確かである。むしろ語の意味をある程度把握すると、それを剥奪するように次々と使い方を変えてくるこの世界の方に身構える自分がいるからだろう。あるパターンを取り出して他の場所で応用しようとすると次には別のパターンになっていて戸惑うことに慣れはないように思えるからだ。

ベイトソンの学習理論で言えばパターンを応用しようとする「学習 II」がうまくいかない状況、つまりダブルバインド状況が、この流体世界では日常になっている。「点」が「線」になることを、この世界に慣れないこちら側から捉えると、そんな感じ方になる。そこで、今は台風の目の中にいるのだろう、という終わり方にした。

次回は400km移動した後の投稿になる。移住先にWifiを設置し、本を段ボールから出し・・・という一連の作業のなかで、第2プラトー「1914年----狼はただ1匹か数匹か?」に巻き込まれていければ幸いだ。


※見出し画像は『千のプラトー』の第1プラトー「序 リゾーム」の扉絵になっているシルヴァーノ・ブソッティ『デヴィッド・チューダーのための5つのピアノ作品』(SYLVANO BUSSOTI:1959)の楽譜。ちなみにデヴィッド・チューダーはピアニストであり、ジョン・ケージ「4分33秒」の初演者である。

(※以下のYouTube動画はJames Clappertonによる『デヴィッド・チューダーのための5つのピアノ作品』の演奏。楽譜が右から左へ流れるごとに、音符と線にし、上の五線譜から五線譜へ横断する流れとなり、五線譜自体も歪み始める。そんなダイアグラムとしての楽譜を奏でると、偶然と即興性に満ちた「短い記憶」でできているように感じられてくる。つまりは、メロディーとして思い出すことはない。)


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