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第二十話:ノーペイン・ノーゲイン

しづまがタイムシフトのポッドに入り、その意識が2007年の夏へと旅立った直後のこと。
主のいなくなった静かなラボで、城山が険しい顔のまま口を開いた。
​「で。お前は、わざわざ説明するためだけに、ここに来たのか?」
​機材の並ぶデスクから佐香を鋭くねめつける。
対する佐香は、悪びれる様子もなく軽く肩をすくめた。
​「いえ。色々と、お二人だけでは厳しいと思いましてね。協力者を募っていたんですよ。しづまと関わりのあった人物たちをあたってね」
「協力者だと?」
「ええ。とりあえず、返事待ちの人がまだ大半ですが、数人は確保できましたよ」
​佐香の言葉に、加藤と城山が視線を交わす。しづまの過去を知る「協力者」の存在は、この孤独な観測ミッションにおいて大きな意味を持つはずだ。
だが、佐香の報告はそれだけでは終わらなかった。
​「そして、もう一つ。……この拠点、危ないですよ」
​佐香の声から、先ほどまでの飄々とした響きがスッと消えた。
​「結構、上が動いてます」
​――カチッ。
​ジッポライターの硬質な音が、時限爆弾のタイマーのようにラボに響く。
「ここがバレて、我々ごと抹消されるのも時間の問題です」
​「……なんだと?」
加藤が顔を強張らせる。
​「ですから、このカバンを持ってきました」
佐香は足元から、重厚な手提げ鞄――大容量の特殊なバックアップツール――を持ち上げ、テーブルに置いた。
「とりあえず、しづまの観測データとシステムのログをバックアップして……私は、去りますね」
​淡々と作業の準備を始めようとする佐香に対し、加藤がたまらず声を荒げた。
​「おい! 自分だけ逃げるのか!」
​食ってかかる加藤。しかし佐香は全く動じることなく、加藤の耳元へと静かに顔を寄せた。
​――カチッ。
​耳元で鳴らされたライターの音と共に、佐香は極めて冷徹に、だが確かな熱を込めて囁いた。
​「ノーペイン・ノーゲイン。ウェイト・フォー・リターン(痛みが無ければ得るものはない。帰還を待て)」
​その短い囁きを聞いた瞬間、加藤の表情が劇的に変わった。
怒りが引き、目を見開き、佐香の言葉の裏にある「真意」――彼がなぜここを去るのか、そして誰の元へ向かうのか――を瞬時に察したのだ。
​「……ふぅ」
​同じタイミングで、城山がひどく深いため息をついた。
まるでこの事態を最初から予測していたかのように、城山は自身の白衣のポケットで震えだしたスマホ端末を取り出し、その不穏な着信画面を静かに見つめていた。


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