『空はまだ青かった』 第7章「止まる」
土曜日の午後だった。
「悪いんだけど、ちょっとお願いできる?」
隣に住む佐伯さんが、玄関先で申し訳なさそうに手を合わせた。
「急に仕事が入っちゃって。ゆいの水泳教室、お迎えだけお願いできないかな。うちの人も出張中で」
「いいですよ。何時にどこ行けば」
「三時に、駅前のスイミングスクール。本当にごめんね、助かる」
妻が「うちも今から出るところだったし、大丈夫だよ」と横から言い添えた。私は財布とスマートフォンだけ持って、家を出た。
スイミングスクールの前で待っていると、水色のスイムバッグを肩から下げた女の子が出てきた。ゆいは佐伯家の一人娘で、小学三年生だと聞いていた。普段、あまり多くを話す子ではない。
「こんにちは。今日は、坂本さんが送ってくれるんだよ」
「……こんにちは」
ゆいは小さく頭を下げた。私たちは、駅前から家までの道を、並んで歩き出した。
商店街を抜け、住宅街に入る。午後の日差しが、アスファルトに二人分の影を落としていた。ゆいは半歩後ろを、髪の先からまだ水の匂いをさせながら歩いていた。
「プール、楽しかった?」
「うん」
それだけだった。会話は特に続かなかった。私はポケットの中でスマートフォンが震えたのを感じたが、取り出さなかった。
しばらく歩くと、公園の前に差し掛かった。ブランコが一つ、誰も乗らないまま、風でゆっくりと揺れていた。ゆいはその様子を、しばらく見つめていた。
「どうして、誰も乗ってないのに揺れてるの?」
「風が吹いてるからだよ」
「ふうん」
ゆいはそう言うと、また歩き出した。しかし少し歩いたところで、ふと立ち止まり、私の方を見上げた。
「ねえ」
「うん?」
「どうして、大人になると、あんまり『どうして』って聞かなくなるの?」
私は、それにすぐには答えられなかった。
ポケットの中で、指が動いた。スマートフォンに触れかけた。しかし、それ以上は動かなかった。
私は、しゃがんで、ゆいと目線を合わせた。
「……どうしてだと思う?」
ゆいは少し首をかしげ、それから小さく笑った。
「わかんない」
「わかんないよね」
私たちは、それ以上その話をしなかった。ゆいは何かに気づいたように、道端の石を一つ拾い上げ、それを蹴りながら歩き出した。私はその後ろを、ゆっくりとついていった。
家に着くまでの間、私たちはほとんど何も話さなかった。ただ、蝉の声と、遠くの踏切の音だけが、間を埋めていた。
佐伯家の玄関先で、ゆいの母親が帰ってきていた。
「ありがとうございました、坂本さん」
「いえ、大丈夫でしたよ」
ゆいは母親の後ろに隠れるように入っていき、小さく「ばいばい」とだけ言った。
私はしばらく、その場に立っていた。
公園のブランコはもう揺れていなかった。
