「事ニ当タル者」たちのテーブル
毎度毎度「同性婚を」というバナーを掲げておきながら、心情としては「同性婚法制化が退けられた後/婚姻が特権化された後に備える」という気分になっていた。未来、同性婚自体は30年以内に実現するだろう、と私は考えている。30年後の日本人はこの時代の日本人の不甲斐なさに腹を立てながら、改めて求め立つだろう。引き潮が貯える爆発的な力を信じる。同性婚自体はそういう話だと思っている。しかしむしろこの時代に浮足立った国民が「たかがゲイの権利を奪うために」みずから手放すものの多さ大きさが、深刻なのである。同じ国民同士でありながら、誰かには基本的人権が制限されてよいと声を上げたことがマズい。同性愛者は人権の枠外にあると「民意として」決めた形になることがヤバい。同じことをするにも、あくまでも国がやったことだと国民が言える形にしておかなければならないのに、国が「国民が決めたこと」と歴史に刻める余地を残してしまった。国から「多様性を認めますか」と問われたなら、国が全責任を国民に押し付けようとしているのだ。そんな局面で国民が本来示すべきは「全国民に等しく権利がある」という「一点張り」でしかない。しかし現代の国民は、何が試されているのかさえ分かっていないのだ。「それが人権問題である限りはゲイのおれでさえ同性婚法制化には反対できない」ということが、分かっていない。国民がみずから人権を手放すなどあってはならないのに、ケンカの仕方も知らない。それで危機を招いている。
同性婚が下されてすぐ、それは起きる。同性愛者から人権を奪い直すために練り尽くされたロジックをまた使いたくて、民衆は次の犠牲者を探す。血に飢えて、次の誰かの時も「人権を与えるかどうか次も国民に決めさせろ」と騒ぐだろう。
人権が形骸化した後の荒廃、国民の心の荒涼をどこでどこまで止められるのか。今なら誰がそのために動いているか。そんなことが、重かった。
しかしふと罪悪感がよぎる。「おれはゲイのことを忘れてる」と感じて。
「ゲイ活動家をやめる」という宣言は「脱・当事者」アクションだった。被抑圧者層を「事ニ当タル者」と呼んで傍観者を決め込むことはできない、というところにスタンスを戻したかった。問われているのはゲイの権利でなく人権だと気付けと、突き返したかった。しかし私はそのために混乱し傷を負うゲイのことを考えたか。私がゲイの活動家として立ち続けることにエールを送ってくれていた人々の失望を考えたか。
きっと今は考えないことにしたのだ。
いつか謝れる日も来るだろうと思うことにしたのだ、私は。
そんな寂しい心で、友人と町の食堂でメシを食っていた。
「国民」に対しては正しい、しかしゲイに対しては間違ったんじゃないかと、囚われながら。


友人は友人で「間違わないこと」に悩んでいた。つらつらと思いを語る。アレはこうで、コレはああだと、自分の心を辿るのを聴きながら、何を言ってやれるのかとポイントを探していた。すると唐突に「そういうことなんだよ、ウン」とまとめやがった。
「『ウン』じゃねーよ。 引っぱたいてやろうかこのヤロウ」
二人でゲラゲラ笑う。
お前もおれのこと引っぱたけよ。なあ。


