祈りの装置、測定の道具──島津製作所における科学の湿度
いとうせいこうが、富士の樹海に放置されていた縄を展示した現代アートを見たときに、腰のあたりに鈍い衝撃を感じ、それ以来、うまく歩けなくなった。直感的にそれが、なにか霊的なものだろう、しかもおそらくそれは犬の霊であろうということを感じ取ったいとう。
しかし「自分は科学の子だから」としばらくいっしょに連れて歩いていた、という話を思い出した。最後まで除霊などの力に頼らず、そのうちその犬(らしきもの)は愛想を尽かして去っていったという話なのだが、僕はその「科学の子」という表現がたいへん気に入った。
科学の子と、科学からはみ出るもの
「科学の子」はもちろん、鉄腕アトムの主題歌からで、谷川俊太郎による詞だ。鉄腕アトムが科学の力で生まれたというその表現を、「自分もまた科学の子」といういとうの気持ちはよく分かる。私より一回り以上上の1961年生まれのいとうも、また1975年生まれの私の時代も、みな科学の子だった。
1970年の大阪万博は科学の力ですべてが解決されるように思えたし、1985年のつくば万博は、国際科学技術博覧会と名付けられた、科学の最後の輝きであった。私たちは実に、「科学の子」であった。

しかし、その「科学」も今から振り返れば、その反作用としての「科学からはみ出るもの」を抱えていたように思う。大阪万博では、近代に対する異議申し立てをした岡本太郎らによってあのおどろおどろしい太陽の塔が屹立し、文化人類学・民族学の研究活動を行う国立民族博物館を産み落とした。つくば万博による科学ブームの裏では、ノストラダムスの大予言のブームがあった。
予言が示した1999年を目前に控えた1992年に、いとうせいこうは、名曲『噂だけの世紀末』をリリースした。そこでいとうは、世紀末の「イメージ」をみごとな批評のスプーンでぐるりとかき混ぜて見せた。
戦争に備えてある者は体を鍛えた
災害に備えてある者は家を建て替えていた
科学者は実験をくりかえし 思想家はそれをまぜかえし
音楽家は何も気づかず ただ適当な歌を作ってばかりで
楽しめない情けない世紀末 楽しめない世紀末
噂だけの世紀末 噂しか残らない世紀末
仏具職人の手から生まれた科学機器
仏具職人が化学の実験機器をつくったという島津製作所の出自を聞いたときに頭をよぎったのは、「科学の子」を巡るそんなイメージだった。
創業者の息子である二代目島津源蔵は、当時の日本を代表する十大発明家のひとりとして宮中晩餐会にも招かれた、れっきとした科学の子であった。しかしその根底にあるのは、近代科学への単純な信仰ではなく、むしろ仏具づくりという、祈りや死者や不可視の世界に触れる手仕事であったように思う。




仏具と科学機器は一見すると、宗教と科学、霊性と合理性という対極にあるように見えるが、実はどちらも、見えないものと人間とのあいだに媒介物を置く営みである。島津において、仏具職人の手はそのまま科学機器へと移行したのではなく、不可視の世界に触れるための技術が、近代科学の言葉へと翻訳されていったのではないか。

京都という湿度
これは京都という土地にその秘密があると見た。二条木屋町という繁華街からほど近い場所にある創業記念館の、またすぐそばには大村益次郎と佐久間象山が襲われた場所がある。どんどん焼きと呼ばれる大火では市中のほとんどが焼かれた。いずれも島津製作所の創業の10年ばかり前の出来事である。
江戸から明治、そして大正、昭和と島津製作所が歩んだ道には、科学技術だけでは説明のつかない魑魅魍魎に包まれた「世紀末」であった。そんななかだったからこそ、「科学の子」として科学技術に信を置いた。
しかしその根っこには、京都の風土がある。島津の科学には、どこか乾ききらない湿度がある。科学の子でありながら、科学からはみ出るものを完全には切り捨てられない。その二重性こそが、京都という土地から生まれた島津製作所の、もっとも重要な出自だったのではないか。
いとうせいこうが「科学の子だから」というとき、そして彼が世紀末に向けて「噂だけの世紀末 噂しか残らない世紀末」と歌った気分を、島津製作所の展示を見ながら感じた。
人間と科学の二重性
人は常に二重体として存在している。ミシェル・フーコーは、人間を経験論的・超越論的二重体と表現した。人間が一方では観察され、測定され、分類される経験的な対象でありながら、他方ではその観察や測定や分類を可能にする認識の主体でもある、ということである。

近代科学は、人間を対象として扱うことで発展してきた。しかし同時に、その科学を信じ、科学によって世界を理解しようとする人間自身は、完全には科学の対象になりきれない。そこにどうしても、経験からはみ出るもの、測定からこぼれ落ちるもの、噂や霊や予感のようなものが残る。島津製作所の展示を見ながら感じたのは、まさにその二重性だった。

仏具職人の手から科学機器が生まれるということは、霊的なものが科学によって駆逐されたという話ではない。むしろ、見えないものに触れようとする人間の欲望が、そして究極の技術を達成しようとする欲望が、祈りの道具から測定の装置へと姿を変えたということなのだろう。
島津製作所が長らく、剥製標本を製造販売していた背景にも、そうした空気を感じ取った。実験道具という出自から生まれた科学標本事業は、科学というよりも、仏具の文脈を色濃く引き継いでいるようにも思えた。一時85%という圧倒的なシェアを得たというマネキン事業も、「科学」ということで処理できない情念を感じる、というと、うがち過ぎだろうか。



科学の子とは、科学だけでできた子ではない。科学では説明しきれないものを背負い込んだうえで、それでも科学を信じようとする存在のことなのだ。島津製作所はその意味で、正しく「科学の子」であった。

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小山龍介のインスピレーションノート
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