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Chapter 26 初仕事は葬儀、これはイベントだ。

1979年秋。
電通映画社に、電通のイベント戦略を担うための新部署として、「事業制作室」が設立されました。


新しい船出


「事業制作室」のメンバーは、当時映画社で映像制作で中心的役割を担っていた野沢部長が兼務で就任。
電通SP局に出向していた松添氏、映画製作部門のF氏、さらに将来の大阪展開を見据えて関西から来た社員、事務スタッフを含めても10名足らず。

イベント経験者は、私と石川君、そして出向から戻った松添氏の3人しかいません。

今思えば、なんとも心細いスタートでした。

とはいえ、設立直後から、いくつか仕事の相談が舞い込み、私たちは企画会議や提案作業に追われる慌ただしい毎日を送っていました。

そんなある日。

後に、電通、映画社、そして私自身の人生にも大きな影響を与えることになる仕事が舞い込みます。

それは――「葬儀」でした。

初仕事は葬儀

9月7日、金曜日。

電通の連絡局から一本の連絡が入りました。
草月流家元、勅使河原蒼風氏の葬儀を手伝ってほしい、という依頼です。

当時の電通には「黒枠」と呼ばれる訃報広告の取扱業務がありました。
その関係で、草月流事務局から相談が持ち込まれたのです。

しかし、私は戸惑いました。

初仕事で失敗は許されないことは勿論、大変なプレッシャーです。
しかも、私は、舞台、博覧会、ショー、展示会、様々な現場を経験してきましたが、葬儀だけは未経験でした。

そもそも葬儀には専門業界があります。
都内には大手葬儀会社もあるはずです。
それなのに、何故、我々に?

その理由は、喪主の当時映画監督だった、勅使河原宏氏から直接オリエンテーションを受けて、理解しました。

「一般的な形式にはしたくない。流派の葬儀なので、草月流らしい世界観を前面に出したい」

さらに、

  • 全国から数万人の会員が参列する可能性

  • 会場周辺の交通整理

  • 著名人や海外からの参列者対応

  • 現場スタッフの教育と運営指導

など、相談内容は多岐にわたりました。

つまり、大手の葬儀社では対応しきれないので、「草月流と一緒に、この葬儀全体を取り仕切ってほしい」

ということだったのです。

「これはイベントだ」

オリエンを受けながら、私は「これは、イベントではないか。」そう、思いました。

人が集まり、
動線が必要になり、
演出があり、
混乱を防ぐ運営が必要になる。

違うのは、“祝祭”ではなく“追悼”だということだけでした。

実施日まで残された時間は二週間足らず。
すぐに、必要なスッタフを集め、チームを編成、関係者、会場、警察、葬儀会社との怒涛の打ち合わせが始まりました。

葬儀の基本進行は帝都典礼と相談しながら組み立て、伝統的な儀式として守る部分と、草月流らしくアレンジする部分を慎重に整理していきます。
この部分は石川君の担当です。

式典の中心になる、祭壇デザインは、故人と親交の深かったグラフィックデザイナー・亀倉雄策氏。
葬儀委員長には建築家・丹下健三氏。
日本のそれぞれの業界を代表する文化人の方々です。

打合せに伺い、事務所で対面しても、私は緊張しませんでした。

それは、どうすれば、この大規模な葬儀を、美しく、荘厳に、そしてトラブルなく成立させられるかという事で、共通の課題があったからです。

東京中の菊が消えた日

完成した祭壇は圧巻でした。
大量の白菊で富士山を表現した、壮大なデザイン。
後になって、「あの日、東京中の菊がなくなった」と聞かされました。

運営面では、会員の集中による混乱を避けるため、会場外にも別祭壇を設置。
映画社らしく設置したモニターに葬儀の様子を中継しました。

式場外に続く数え切れない人の列、続々と来場する黒塗りの車、各界の有名人、著名人、海外からの賓客、壮大なイベントです。

青山葬儀場開場依頼、最大規模の葬儀だったそうです。
そして、葬儀は大成功で終了しました。

私はこの時、イベントは、祭りやショーだけではない。
同じ場所、同じ空間に人が集まり、想いを共有する事、そのすべてが、イベントなのだと、確信しました。

思わぬ成果

この仕事は、私たちに予想以上の成果をもたらしました。

当時、電通は「広告代理店」から、クライアントが抱える様々な課題に対応する、「総合コミュニケーション企業」へ脱皮しようとしていました。まさに、その課題に対応する機能の一つを具体的にしめす機会になりました。

映画社にとっては、新設「事業制作室」の存在がそうした電通の戦略の一翼をになう存在である事を、内外に強く印象づける結果になりました。

そして経営的に、短期売上としては前例のない成果となり、部門としては組織拡充への追い風となりました。

しかし、何より大きかったのは、私自身でした。
専門外の仕事でも、短期間でも、対応できる、そんな自信がついたのです。

そして、私は、「葬儀のプロ」として認識されるようになりました。

以後、自治体主催の県民葬、企業の社葬、本社役員の葬儀、さらには個人的な相談まで舞い込むようになります。
後年、思いがけない著名人の葬儀にも関わることになります。

こうして、電通映画社「事業部制作室」は、ひとつの葬儀からスタートを切ったのです。

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