美術にときめかなくなった
「…もう?」東京国立博物館、本館2階を一巡したところで思った。春先にも来ているから、展示は入れ替わっている。本阿弥光悦の書は良かったし、北斎の水の表現も面白かった。でも、なんだか心が動かない。見覚えのある作品に「こんにちは。また会ったね」と親しみを込めて挨拶が出来ない。今季の土偶にも。あれ?1階へ降りる。仏像を見る。考古展示室へ行く。本館を出て、東洋館にも行く。蘭亭序を見て「また王羲之か…」と思う。あんなに好きだった青銅器まで色褪せて見え、不思議だった。目に曇りガラスでも嵌められたよう。いつも東博を出る時は、胸いっぱいになる。「今日もありがとう。」そんな気持ちで門を出る。でもその日は、足取りが重く悲しかった。いくつか気が向くものはあった。鯨の絵は楽しかったし、如意輪観音にも目が行った。好きな葦手にも出会った。でも全部、ほんの少し揺さぶられただけ。
私の美術はもう終わってしまったのかな。21年の秋、ふと思い立って最寄りの美術館を訪れたときから、楽しく見続けてきた。SNSには美術をずっと深く見ている人たちがいて、一人の作家を掘り、時代や歴史を知り、また作品を見ていた。知れば知るほど、更に知りたいことが出てくるよう。学んだことを借り物ではなく、自分の言葉で綴る彼らを、すごいなぁと思っていた。ただ、私はどうも違う。知らないことは山ほどあるのに途中で「うん。これ、もう分かったよ…」となってしまう。いや全然分かっていないでしょうと、思いつつ、もうその先へ行けない。所詮、私にはこの程度だったのかな。
帰宅して、行きたい展覧会は無いかと検索する。SOMPO美術館では、アルベール・マルケの展覧会が始まるらしい。マティスと同時代の画家。少し前の私なら、きっと「行きたい」と思った。でも動かない。なんだろう。既視感。観終えた後、どう感じるか想像がつくような気がしてしまった。スクロールしてクリック。
「あ。」「これ、見たいかも。」
東京都現代美術館、秋の展覧会。まず、ほっとした。なんだ、まだある。私、美術を手放さなくていいんだ。…現代美術?私が?
現代アートは、どちらかというと苦手だった。むしろ、頑張って見てきた。食わず嫌いはいけないと思って。「キャプションを読んで余計迷子」という言葉を最近何処かで見かけたけれど、正にそれ。コンセプトを理解するのが面倒。映像の意味が分からず冗長に感じてしまう。私みたいな人間には無理なんだと。全部が駄目だった訳じゃない。福田美蘭は好き。そして、いつからだったか、抽象画にも惹かれるようになった。野見山暁治さんの絵を見た時は、自分でも驚いた。なぜか絵の前から動けなかった。食い入るように見ているような、それでいて気を抜いているような。その両方の気持ちで、ただ絵の前に立っていることが心地よかった。「なんで私、この絵の前から動けないんだろう」と思った。
そういえば、最初に新版画を見た時もそうだった。川瀬巴水。止まった映像のような景色が彫りと刷りで表されている。初めて見たのに「私、これ知ってる」と思った。私にとって、江戸の浮世絵はファンタジー。でも今も、大正の片鱗や昭和の遺構は残っている。知識を得てから面白くなったんじゃない。見た瞬間に、分かったような気がした。文人画を初めて見た時は、また違った。墨で描かれた山奥。手前には川が流れ、橋の上を小さな人が荷物を持って歩いている。ずっと奥には庵がある。そこではお爺さんが、本を読んでいたり、お酒を飲んでいたりする。絵の前に立っていると、ひゅん…と吸い込まれる。私はそこへ行きたいよ。そう思う。
私はなんで美術館へ行くんだろう。もちろん知るのは面白い。西洋美術も、キリスト教や歴史を知って、分かるようになったことがある。でもそれだけじゃなくて。知らなかったものを見て「うわっ」となる。初めて見たのに「知ってる」となる。絵の中へ「行きたい」となる。意味も分からない抽象画の前から、なぜか動けなくなる。新しいものに触れた時、細胞がひらくような感じ。私は、それを探しているのかも。一つのものをどこまでも深く掘っていく人にはなれないかもしれない。それが浅いのかどうかは、まだよく分からない。でもその夜、ディスプレイ越しに次の展覧会のポスターを見てワクワクした。解説を読み、何が待っているのか全く想像がつかなかったのだけれど「これ、見たい」と思った。それが、無性に嬉しかった。
ずっと「私には無理」と思っていたものを見に行った時、私の細胞は、ひらくんだろうか。
