梅雨入りの日の夜読書
1.梅雨入りの知らせ
昼過ぎのニュースで、今年も梅雨入りしたと知った。毎年のことなのに、その言葉を聞くと少しだけ肩が重くなる。
若い頃は季節の変わり目など気にも留めなかったが、五十を過ぎたあたりからだろうか。天気予報の雨マークが妙に気になり始めた。
洗濯物の心配をするようになったからかもしれないし、外出がおっくうになるからかもしれない。あるいは、自分の人生にも残り時間というものが見え始めて、季節の移ろいを数えるようになったからかもしれない。
窓の外では、朝から降り続く雨が静かにアスファルトを濡らしていた。派手な降り方ではない。傘を差さなくても数分なら歩けそうな細かな雨だ。だが、その細かな雨が一日中止まない。それが梅雨というものだ。
仕事を終えて帰宅した頃には、シャツの背中が少し湿気を吸っていた。冷房を入れるほど暑くはない。かといって窓を開ければ湿った空気が入り込む。なんとも中途半端な季節である。
こういう日は無理に出掛けない。誰かを誘って飲みに行く気分でもない。家で静かに過ごすのが一番だ。
冷蔵庫を開ける。晩酌用に買っておいた缶ビールが一本。そして棚には、週末用に残しておいたウイスキー。少し迷ったが、今日はウイスキーにした。
梅雨入りの日は、炭酸の爽快さよりも琥珀色の落ち着きが似合う気がした。
グラスに氷を入れる。カラン、と音が鳴る。その音だけで、仕事モードから自分の時間へ切り替わる。不思議なものだ。雨音と氷の音。どちらも大きな音ではない。しかし静かな夜には十分な存在感がある。
つまみは簡単なものでいい。冷奴に少し生姜を乗せる。スーパーで買った焼き鳥を温める。梅雨入りの日に豪華な料理はいらない。酒があり、本があればそれで十分だ。

2.再読という贅沢
グラスを置き、本棚の前に立つ。どの本を読むか。これが毎晩の小さな楽しみである。新しい本に手を伸ばす日もあれば、昔読んだ本を引っ張り出す日もある。
今日は迷わず再読する本を選んだ。梅雨入りの日には、新しい物語よりも、知っている物語の方が似合う気がした。
長い付き合いの友人に会うような感覚でページを開く。最初の一行を読む。それだけで心が少し落ち着く。
本には不思議な力がある。内容を覚えていても、何度も読み返したくなる。結末を知っていても楽しめる。映画やドラマとは少し違う。
読む側の年齢や気分によって、まるで別の作品のように見えるからだ。二十代で読んだ時には気付かなかった言葉が、五十代になって胸に残る。若い頃には退屈だった場面が、今では妙に心地よかったりする。本は変わらない。変わるのはこちらだ。
だから再読は面白い。ページをめくる。雨音が続く。酒を飲む。またページをめくる。その繰り返し。
傍から見れば実に地味な夜だろう。だが、この地味さこそが贅沢なのだと思う。
世の中はいつも忙しい。スマートフォンを開けば次々に情報が流れてくる。誰かの成功談。誰かの失敗談。新しい商品。新しいニュース。見なくても困らない情報が山ほどある。気付けば心が疲れている。
そんな時、本は逃げ場所になる。いや、逃げ場所というより避難所だろうか。
雨の日に軒先で雨宿りするように、人は本の中で少し休むことができる。

3.梅雨がくれる静かな時間
窓の外を見る。相変わらず雨は降っている。街は濡れている。だが不思議と嫌な気持ちはしない。
梅雨は面倒だ。洗濯物は乾かないし、湿気で髪もまとまらない。外出の予定も狂う。それでも、こうして本を読む夜には悪くない季節だと思う。
雨には人を家に留める力がある。晴れていれば出掛けたくなる。あれもしよう、これもしようと思う。しかし雨の日は違う。最初から諦めがつく。今日は家にいよう。今日は本を読もう。そう自然に思える。
それはある意味、季節から与えられた休日なのかもしれない。
再びグラスを手に取る。氷は少し小さくなっていた。時間が過ぎている証拠だ。本もかなり読み進んでいる。
雨音は変わらない。だが、自分の気持ちは少し変わっていた。帰宅した頃に感じていた重さがなくなっている。梅雨入りという言葉に感じた憂鬱もどこかへ消えていた。
酒と本にはそういう力がある。問題を解決してくれるわけではない。悩みを消してくれるわけでもない。だが、少しだけ軽くしてくれる。
肩の荷を数センチ浮かせてくれる。それだけで十分な夜もある。
時計を見る。思ったより遅い時間になっていた。そろそろ寝る支度をしなければならない。本にしおりを挟む。グラスの最後の一口を飲む。
窓の外では、まだ雨が降っている。天気予報によれば、しばらく雨の日が続くらしい。梅雨だから当然だ。
だが、悪いことばかりではない。これから何度もこういう夜が訪れる。雨音を聞きながら酒を飲み、本を読む夜。それは若い頃には気付かなかった楽しみだ。歳を重ねたからこそ分かる贅沢なのだろう。
部屋の灯りを少し落とす。本を閉じる。静かな夜だった。特別な出来事は何もなかった。だが、だからこそ良かった。
梅雨入りの日。雨に閉じ込められたような夜。そのおかげで、ゆっくりと酒を飲み、ゆっくりと本を読むことができた。
こんな夜があるから、梅雨も案外悪くない。

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