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男性の涙見えない女性 第二編    必然の事故


第一章:ペルソナ

電子音が鼓膜を叩く。 いつもと同じ時間、いつもと同じ音量。日常は、昨日と地続きの朝を迎えたはずだった。 しかし、その音は鼓膜を通り過ぎて、頭蓋骨の内側で直接鳴っているようだった。 身体が重い。鉛のようだ。 昨日、夕闇の公園からどうやって家にたどり着いたのか、記憶が曖昧だ。思い出そうとすると、思考に霧がかかる。ただ、彼の、あの、頭に置かれた手の生々しい温かさだけが妙に鮮明だった。

洗面台の鏡に映る顔は、完璧な「椿 夢」だった。 丁寧に整えられた髪、隈一つない肌。物理的な外見は、昨日と何も変わらない。 しかし、その瞳は、注意深く見なければ分からないほど、僅かに濁っていた。感情の光が消え、瞳孔が針のように小さく収縮している。 シャドウを焼き切られた魂。その後に残された、完璧なだけのペルソナ。 鏡の中の少女が身につけている仮面。それが、昨日の男が言った通り、本当に何の色もない真っ白なのだということを、この瞳だけが知っていた。

リビングへと向かう廊下。その数歩の間に、彼女の思考は深く、そして静かに沈んでいった。 (私の存在ってなんだろう。輪郭は? 心ってなんだろう。今までの日常は、普通じゃなかったの?) そんな、哲学者が一生をかけても答えの出ない問いを頭の中で繰り返しながら、彼女はリビングの扉を開けた。 そこには、完璧な「日常」があった。 淹れたてのコーヒーの香り。テレビから流れる、当たり障りのないニュース。そして、「おはよう、夢」と、何の疑いもなく微笑む両親の顔。

彼女の口が自動的に動く。 「おはよう」 完璧な娘の声だった。 コーヒーカップを片手に、母親が優しい声で言った。 「そういえば、今日、数学の大事なテストがあるんじゃなかった? 頑張ってね」 その言葉に、椿夢はにこりと完璧な笑みを返す。 「テスト?大丈夫だよ」 その笑顔の裏側で、彼女の思考は、何の感情もなく、ただ一つの事実をなぞっていた。 (大丈夫。私は、あなたたちの、「自慢の娘」なのだから)

日常は、何も変わらない。 ただ、彼女だけが、昨日とは全く別のシステムで稼働する、別の生き物に変わってしまった。

学校が始まる。 教室の扉を開けると、いつもの日常がそこにあった。「夢!おはよー!」と、数人の友人が同時に振り返る。それに対して、唇の筋肉を完璧な角度に引き上げる。 笑顔が妙に白い。 「おはよう!みんな早いね」。声も完璧な高さと明るさ。誰も何も疑わない。 友人たちの輪に当たり前のように溶け込みながら、思考の片隅で冷たい汗が流れる。 (この笑顔の色のなさに気づいているのは、私だけなのかな? みんなにはどう見えているんだろう) わからない。 自分の席へ向かって数歩。その時だった。 挨拶を返してくれた男子生徒の一人。その何でもないはずの顔の輪郭が、一瞬ぐにゃりと歪み、あの公園の男の顔と重なった。 脳裏に記憶が蘇る。フラッシュバック。 その瞳に一瞬だけ宿った、恐ろしいほどの強い光。 その光が、彼女の内側、その最も柔らかく脆い部分(シャドウ)を貫き、焼き切った。

しかし、椿夢の足は止まらない。表情も変わらない。口角は完璧な角度を保ったまま。 まるで、激しいめまいを起こしている頭(こころ)と、完璧に歩き続ける身体(からだ)が、別の生き物であるかのようだった。 現実と心が、ゆっくりと、しかし確実に引き離されていく。 その奇妙な浮遊感だけが、今の彼女にとっての唯一の現実だった。

第二章:シャドウ

オフィスに男が一人、帰還した。 守田 要。 その足取りは、凱旋将軍のように誇らしげで、手にした契約書は、彼の正義を証明する戦利品だ。数人の部下が「お疲れ様です、守田さん」と声をかけると、彼は鷹揚に頷いた。

その時だった。 高遠 桜が、まるでそのタイミングを予測していたかのように、自席から立ち上がった。その動きに無駄は一切ない。コーヒーカップを片手に、彼女は守田のデスクへと、静かに、しかし一直線に向かう。 「守田さん、お疲れ様です」。桜の声は、オフィスの喧騒の中に奇妙なほどクリアに響いた。「また一件、契約を取ってきたそうですね。どうでしたか?」 その言葉は、彼のエゴを的確にくすぐる。守田は、待ってましたとばかりに、周囲に聞こえるようにその手柄を語り始めた。彼の言葉には、「情熱」や「誠意」といった、自己満足に満ちた単語が散りばめられていた。

一通り語り終え、彼が満足げな表情を浮かべたその瞬間。 桜は、カップを口に運び、表情を変えずに言った。 「なるほど。では、なぜ、そのお客様は最終的に契約することに合意したのだと、守田さんは分析しますか?」 空気が、凍った。 守田の顔から、自慢げな笑みが消え、苛立ちの色が浮かぶ。 「『なぜ』って…だから、俺の熱意が…!」 彼の声は、彼自身が思っているよりも大きかった。 桜は、少し困ったように眉をひそめ、しかし有無を言わせない完璧に事務的な口調で言った。 「守田さん、少し声が大きいです。他の方の迷惑になります。詳しいお話は、会議室で伺いましょうか」 それは、拒否できない提案だった。

会議室の重い扉が閉まる。 「何が言いたい?」 「私は、『なぜ?』と聞いているだけです」 「だから、熱意だって言ってるだろう!」 「…私の人柄がよかったのでしょうね…人と人が直接会うから契約が取れるんだろう!お客様はデータじゃない。俺という人間を見て、信じてくれたんだ!」 彼はテーブルを拳でドンと叩いた。

桜は、その音にも彼の感情的な訴えにも一切動じない。 彼女は、ただ一つの単純な事実を彼に提示する。 「そうですか。ですが、あなたが今、拠り所にしているその『成績』は、データではないのですか?」

その言葉は静かだった。しかし、守田の耳には雷鳴のように届いた。 彼のペルソナという名の神話が、崩れ落ちる音がした。 彼のシステムは、彼女の純粋な論理の質量に耐えられなかった。 思考が止まる。 彼を支えていた全ての神話が崩れ落ちた後には、ただ絶対的な沈黙だけが残されていた。

その沈黙を破ったのは、会議室の扉を控えめにノックする音だった。 「すみません、お話し中、申し訳ありません。守田さん、お電話です」 若い女性社員の声。 「先日、ご契約いただいた、株式会社〇〇のご担当者様からでして…」 株式会社〇〇。彼がオフィスで武勇伝として語った、あのクライアント。 そのクレームが、この、彼の神話が完全に崩壊した、最悪の瞬間に届いた。 それは、構造的欠陥を抱えた建造物が、ある一定の周波数の音を浴びて、共振し、自壊するのに等しい。 必然の、事故だった。

第三章:共振

どれほどの時間が経っただろうか。 オフィスが終業間際の僅かな浮遊感に包まれ始めた頃、男は帰ってきた。 数時間前、獲物を仕留めた猟犬のようだったあの男の面影はどこにもなかった。 彼は、まるで何日も雨に打たれ続けた捨て犬のようだった。スーツは皺が寄り、彼の身体から魂が抜け落ちた分だけ大きくぶかぶかに見える。 幽鬼のような覚束ない足取りで、彼は自席には向かわない。 桜のデスクの前まで、ただプログラムされたように歩いてくる。 その瞳は、もう何の光も映していなかった。それはただの黒いガラス玉だった。

彼は力なく報告した。 「…なんとか、許していただけました…」 その声はひどくかすれていた。 桜はパソコンの画面から視線を上げない。 ただキーボードを打つ、その指が一瞬だけ止まる。 そしてまるで独り言のように、あるいは道端の石に語りかけるように静かに呟いた。 「なんででしょうね?」

その言葉を最後に、守田要の魂の最後の光がふっと消えた。 彼は深々と頭を下げた。それは謝罪でも服従でもなかった。ただ全ての思考を放棄した、生命のない機械が電源を切られたかのような静かな動作だった。 彼はそのまま自分のデスクへと戻っていった。 そしてパソコンの電源を入れた。営業日報を開く。 しかし、その指はキーボードの上で微かに震え、止まっている。 何を、書けばいいのか分からない。 かつて、彼の指をあれほど滑らかに動かしていた「自信」という名の潤滑油が、完全に乾ききっていた。

その夜、守田要は家に帰らなかった。帰れなかった。 彼は、自分と同じ「魂の匂い」が充満する場所を無意識に探し当てていた。 歓楽街の片隅にあるネットカフェ。 個室の冷たい椅子に深く沈み込み、彼は初めて出会い系サイトを開く。 そして、不意に指が止まった。 一枚の顔写真。制服姿の少女。椿 夢。 彼女の笑顔は完璧だった。しかし、彼の光のない瞳には、それがただ真っ白な仮面に見えた。 そして、その仮面の下にある瞳。光のない瞳。 自己紹介の最後の行。「話がしたいです」と。 守田の指が、震えもなく「いいね」のボタンを押した。 二つの空虚が、共振を始めた。

第四章:統一

ビジネスホテルの狭いシングルルーム。 ドアを軽く二度ノックする音がした。 守田がドアを開ける。そこに制服姿の少女が立っていた。椿 夢。 彼女は何も言わずに部屋に一歩足を踏み入れる。 守田はゆっくりとドアを閉めた。カチャリという無機質なロックの音が響いた。

部屋には二人がいた。 ペルソナを失い、シャドウだけになった男。 シャドウを失い、ペルソナだけになった少女。 二つの、不完全な魂。

部屋の静寂。それを先に破ったのは椿だった。 彼女は窓の外の夜景に視線を向けたまま、まるで独り言のように呟いた。 「なんででしょうね?」 その言葉。守田の鼓膜を叩いたその瞬間。彼の脳裏に、あの会議室の光景がフラッシュバックする。デスクの向こう側で、同じ問いを冷たく繰り返した、高遠桜の顔が。

そして、椿夢もまた、自らが発したその言葉の響きに何かを感じていた。 (これは誰の言葉だっけ) そう考えた瞬間、彼女の曖昧な記憶の中に、あの公園の男の顔が浮かんだ。望月月。頭に置かれた温かい手の感触。そして、その瞳に一宿った、恐ろしいほどの強い光。

二人は同じ部屋にいながら、全く別の過去を見ていた。 しかし、その過去の中心には、高遠桜と望月月という、二人の同じ影が落ちていた。 彼らの魂を不完全にし、この必然の事故を引き起こした、二つの法則の影が。

やがて、二人の唇がほとんど同時に動いた。 「「…終わりですね」」 その言葉を合図に、部屋の張り詰めていた空気がふっと緩んだ。 全ての抵抗が、全ての問いが終わった。 ペルソナとシャドウが、二つの肉体を通して、一つに統一されようとしていた。

「最期の晩餐」が始まった。 「子供の頃、野球をやっててね。一度だけサヨナラヒットを打ったことがあるんだ」 「私はピアノを習っていました。発表会で一度だけ間違えずに最後まで弾けたことがあります」 それは、失われたシャドウの記憶と、失われたペルソナの記憶の交換だった。 ひとしきり思い出を語り終えると、部屋にはまた穏やかな沈黙が戻ってきた。 二人はどちらからともなく顔を見合わせた。 互いの瞳の中に、もう濁りはなかった。ただ雨上がりの水たまりのように静かで空っぽなだけだった。 統一は、完了した。 その魂の、唯一の安定した状態は、完全な「無」だった。

やがて、どちらが言ったのか。 囁くような声がした。 「行こうか?」

ドアが開く。 そして二人は夜の雨の中へと静かに消えていった。

【観測記録 01】

対象名: 椿 夢(つばき ゆめ)

経過: 行方不明後、守田要と共に遺体で発見される。遺体は笑っていた。

【観測記録 02】

対象名: 守田 要(もりた かなめ)

経過: 行方不明後、椿夢と共に遺体で発見される。遺体は笑っていた。


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