アウトドアは、本当にアウトなのか。
――アキレスは亀に追いつけないという話まで巻き込んで考える。
「アウトドア」という言葉を初めて聞いた人は、きっとこう思う。
「アウトなんだから、失格なのだろう。」
野球でアウトになればベンチへ帰るし、テストでアウトなら追試になる。法律でもアウトと言われれば大体まずい。
つまり、アウトとは人類共通の「だめ」の記号である。
ところが、その直後に「ドア」が続く。
つまりアウト・ドアである。
これは「外の扉」なのか。
それとも「外へ出るための扉」なのか。
もし後者なら、アウトドアとは「アウトになる入口」ではなく、「アウトへ向かう通路」である。
しかし、そのアウトとは本当にアウトなのだろうか。
ここでゼノンが突然現れる。
彼は有名な「アキレスと亀」の話を持ち出す。
アキレスは足が速い。
亀は遅い。
普通に考えれば、追いつく。
だがゼノンは言う。
「いや、追いつけない。」
なぜなら、アキレスが亀のいた場所へ着くころには、亀は少し先へ進んでいる。
その少し先へ着けば、また少し進んでいる。
これを永遠に繰り返す。
だから追いつけない。
この話を聞いた人類は二千年以上、「いや、追いつくだろ」と思いながら生きてきた。
ではアウトドアも同じではないか。
部屋のドアを開ける。
一歩外へ出る。
しかしその瞬間、外はもう「さらに外」になっている。
庭へ出る。
いや、その外には道路がある。
道路の外には町がある。
町の外には県境。
県境の外には海。
海の外には外国。
外国の外には宇宙。
宇宙の外には、まだよく分からない何か。
つまり、本当のアウトへ行こうとすると、アウトは常に少し先へ逃げていく。
アキレスから逃げる亀のように。
だから厳密には、人類は一度もアウトドアになったことがない。
キャンプへ行った人も違う。
山へ登った人も違う。
富士山頂に立っても、その上には成層圏がある。
成層圏へ行っても、その外には宇宙がある。
アウトは永遠に前方へ避難し続ける。
つまり我々は、「アウトドアをしている」のではなく、
アウトドアを追いかけ続けているだけなのである。
これは人生にも似ている。
「あと少し頑張れば楽になる。」
その「あと少し」は亀である。
追いついたと思ったら、もう少し先にいる。
だから人は今日もコンビニまで歩く。
本当はアウトドアではなく、亀ドアなのかもしれない。
いや、待ってほしい。
そもそも「アウト」の反対は「イン」である。
だがインドアという言葉には、不思議な罠がある。
インドアをゆっくり読むと、
「イン・ドア」。
つまり「中の扉」。
扉というものは、本来どちら側からでも開く。
ということは、インドアもアウトドアも、実は同じ扉を反対側から眺めているだけではないか。
内側から見ればイン。
外側から見ればアウト。
ドアだけが「どっちでもいいですよ」と無言で立っている。
哲学というものは、だいたい最後にドアが一番冷静だという結論になりがちである。
そしてゼノンがもし現代に生きていたなら、キャンプ用品店の前でこうつぶやくだろう。
「このテントを買っても、君はまだ本当のアウトには到達できない。」
店員も静かにうなずく。
「はい。ですので、こちらの新作モデルはいかがでしょう。」
こうして人類は二千年以上、亀を追いかけるアキレスのように、より軽いテントとより高性能なチェアを求め続けている。
結局、アウトドアとは自然を楽しむ文化ではない。
「アウト」という概念そのものに、いつまでも追いつけない人類の営みなのである。
そして家に帰るころには、なぜか誰もが口をそろえてこう言う。
「やっぱり家が一番だな。」
その瞬間、インドアが亀になり、アウトドアがアキレスになる。
哲学はそこで終わるが、洗っていないキャンプ用品だけは、いつまでも玄関に追いつかないのである。
