誤読の自由
安部公房(1924~1993)が教科書に掲載された自作について、「その大意を述べよ」というのは教育としていかがなものかと何処かで書いておりましたが、シュールで独特、しばしば難解な氏の作品でなくとも、「大意」などという正解があるとしたら、どうにも息苦しい。
といえば、
考える時間はコストであり、コンテンツとは消費するもの🔗、文学に限らず映画もドラマもアニメも兎角にわかりやすい「正解」が求められる昨今にあっては、時代錯誤の老害と誹りを受けるやも知れませんが、あえて申し上げたい。
いかなる作品にも、正解などないと。
作品に触れて残るのはあなたが感じたもの、それだけである。
それが虚無なら、虚無自身がそのとおりで、自由を感じるのであればそれはまがうことなき自由である。
鑑賞し、感じたものは、時には他者と共有しうることもあるでしょう。
されどたとえ百人が、一万人が同じものを感じ取ったと言い表したとしても、言葉と感性の乖離は埋め得ない。
あなたが感じたものとはあなただけが感じたもの、感性とはあなた自身であり、誰とも絶対に異なるという意味において、みな誤読である。
正解があるとすれば、それは抑圧と呼ばれるべきでありましょう。
個人の感性を疎外し、誤読の自由を奪う。
異論を認めず排他的である。
わかりやすいコンテンツばかりが求められる今日に感じる息苦しさの正体が、この「抑圧」だとしても、ほとんどの人はおそらく抗わぬ。
人は自由よりむしろ隷従を選ぶとドストエフスキーの小説にありましたが、考えないですむからでありましょう。
それでも、コンテンツを正解ありきで消費するのではなく、我がこととして鑑賞する人はきっと、自由を希求している。

1958年公開の映画、アンジェイ・ワイダ監督『灰とダイヤモンド』は、共産主義体制下のポーランドで制作され、国際的にも高い評価を得た作品ですが、内容が政府要人の暗殺を依頼された青年に焦点をあてたものということで、検閲を意識し敢えて監督は、ラストシーンで青年をごみの山にて死なせたという有名なエピソードがあります。
イデオロギーという正解ありきの抑圧的状況で、体制側は暗殺を引き受けた青年の死を反政府活動の無意味さの象徴であると捉え、高く評価したらしく🔗、検閲は通り、公開に至ります。
ご覧になればわかりますが、「誤読」といえましょう。
あるいは権力者の驕りというべきか。
正解があるから誤りがあるのではない。
正解があるということこそが誤りである。
表現においては、
ひいては私たちの見ている世界においても、正解とは空しい幻影でしかない。
自分の意志に基づかぬ為政者の暗殺のように。

終戦を祝う花火
ありもしない正解を己の外に求めるということは自己疎外と言い換えられ、それは自らが、己から考えることを奪うということである。
自分でものを考えぬ凡庸な集団ほど排他的で善悪から遠く、束ねやすく、操りやすいことはかつての、そして今もある全体主義国家を思い起こすだけで充分でありましょう。
わかりやすい正解ばかり求めている私たちは何処へ向かい、その果てに何を残すのか。
自ら考えることを止め、誤読の自由を手放して。
松明のごとくわれの身より火花の飛び散るとき
われ知らずや、わが身を焦がしつつ自由の身となれるを
もてるものは失わるべきさだめにあるを
残るはただ灰と、嵐のごとく深淵におちゆく混迷のみなるを
永遠の勝利の暁に、灰の底深く
燦然たるダイヤモンドの残らんことを
チプリアン・カミユ・ノルヴィッド
お読みくださりありがとうございました。
わかりやすい
イケガ◯アキラが
今宵また
悪魔に見ゆる
テレビ捨てよかな
