長編小説『六つの席』
毎朝、同じ駅のホームにあるベンチ。
そこには、なぜか六人が座れる場所がある。
六人は、それぞれ別の人生を生きている。
会社員。
大学生。
主婦。
どこにも居場所を見つけられずにいる青年。
夢を諦めかけた女性。
定年を迎えた男。
彼らはまだ、お互いを知らない。
けれど、ある一週間の出来事によって、少しずつ人生の歯車が同じ方向へ動き始める。
そして一週間後の朝。
六人は初めて、同じ電車を待つことになる。
誰も知らない。
その日に座った六つの席が、それぞれの人生を変えることになることを。
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六人の紹介
1人目 佐伯 恒一(さえき・こういち)
51歳・会社員
大手企業の管理職。
仕事では「何でも知っている人」と思われている。
部下から相談されれば答える。
会議では冷静に話す。
トラブルが起きれば、最後には彼が呼ばれる。
でも、本当は最近、自分が何をしたいのか分からなくなっている。
家では妻との会話が減った。
子どもたちは大きくなり、家の中に自分の居場所が少しずつなくなっている。
朝、駅へ向かう理由は、
「会社へ行かなければならないから」
ただ、それだけ。
ある朝、彼はホームで一人の老人を見かける。
その老人が落とした小さな紙切れを拾う。
そこには、意味の分からない一言が書かれていた。
「今日を最後の日だと思って生きると、昨日まで見えなかったものが見えてくる。」
恒一は、その言葉をなぜか捨てられず、財布に入れる。
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2人目 水野 美咲(みずの・みさき)
22歳・大学生
大学4年生。
卒業後の就職先は決まっている。
周囲から見れば、順調な人生。
けれど本人は、ずっと迷っている。
本当にやりたいことが別にある。
大学では誰にも言っていない。
彼女には、昔から小さな夢がある。
小説を書くこと。
しかし、
「そんなことで生きていけるわけがない」
と言われ続けてきた。
だから、卒業後は普通に働くつもりだった。
ある夜、彼女は久しぶりに昔書いた小説の続きを開く。
そして、書きかけの一文を見る。
「人生は、乗る電車を間違えたからといって、終わるわけではない。」
彼女はその続きを書こうとする。
しかし、その夜は一行も書けなかった。
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3人目 田中 和子(たなか・かずこ)
67歳・主婦
夫を二年前に亡くしている。
子どもたちは独立し、今は一人暮らし。
毎朝、同じ時間に起きる。
朝食を作る。
テレビをつける。
そして、誰もいない食卓を見る。
夫が亡くなってから、
「いただきます」
と言う相手がいなくなった。
それでも、毎朝二人分の味噌汁を作ってしまう。
一杯は自分のもの。
もう一杯は、夫がいつか帰ってくるような気がして。
ある日、息子から電話が来る。
「母さん、もう一人で大丈夫?」
和子は笑って、
「大丈夫よ」
と答える。
電話を切ったあと、
初めて、
「大丈夫じゃない」
と小さな声で呟く。
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4人目 黒田 遼(くろだ・りょう)
29歳・フリーター
何をやっても長続きしない。
コンビニ。
飲食店。
配送。
コールセンター。
仕事を辞めるたびに、
「次こそは」
と思う。
でも、何も変わらない。
実家には帰れない。
友達も少ない。
スマートフォンには、ほとんど通知が来ない。
彼は自分のことを、
「人生に失敗した人間」
だと思っている。
ただ、一つだけ好きなものがある。
電車を見ること。
乗ることではなく、見ること。
ホームを走り抜ける電車を見ると、
「みんな、どこかへ向かっている」
と思う。
自分だけが、
どこにも向かっていない気がする。
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5人目 藤原 直子(ふじわら・なおこ)
42歳・看護師
人の命に関わる仕事をしている。
だから、いつも人に優しいと思われている。
実際、優しい。
でも最近、自分の心が疲れていることに気づいている。
患者には、
「大丈夫ですよ」
と言える。
家族にも、
「大丈夫」
と言う。
職場でも、
「大丈夫です」
と言う。
けれど、本当はずっと、
誰かに
「大丈夫じゃなくてもいいよ」
と言ってほしかった。
彼女には、誰にも話していない秘密がある。
一週間後、仕事を辞めようと考えている。
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6人目 高橋 恒一郎(たかはし・こういちろう)
78歳・元高校教師
国語教師だった。
定年退職してから十数年。
今でも毎朝、電車に乗る。
目的地は特にない。
ただ、電車に乗って街を見る。
人を見る。
そして、ときどき昔の教え子に会う。
彼には妻がいる。
妻は現在、病院に入院している。
毎日、面会に行っている。
妻は最近、昔のことを少しずつ忘れている。
けれど、高橋が病室へ行くと必ず言う。
「今日も来てくれたのね」
高橋は毎回、
「当たり前だろ」
と答える。
でも、病室を出たあと、
一人で泣いている。
