尹東柱の詩をみつめて。佐々木広治の読書随想
尹東柱(ユン・ドンジュ)윤동주を私は愛する。作品としては詩集『空と風と星と詩』(하늘과 바람과 별과 시)これ一冊のみ。
尹東柱の詩は、純度をあげているところがある。繊細でこころ優しい少年の心象、というかんじ。若さもあって社会的発言をしたい気持が沸々とありながらも、それを作品のうえでは抑圧し切り捨てて。性格だとかキリスト教の影響があってことだろうが、それがかれの特質であり、方法だろう。
第二次大戦末期。創氏改名で「平沼東柱」とさせられる。強制的に日本名をつけさせられた。私淑していた詩人、鄭芝溶(정지용)にそのことを「恥ずかしいです」と打ち明けると、恥ずかしいという気持を持ち続けることが大切だと諭される。日本に留学中、同じく留学中であった従兄の宋夢奎が朝鮮独立運動をしていて治安維持法違反容疑で逮捕され、煽りをくらって尹東柱も逮捕され、獄死する。
死因は人体実験だとされ映画でもその説を採用してあるが、彼を愛し永年探求しつづけた大胡吉朗の『生命の詩人・尹 東柱』によると、どうもそうではないらしい。どの国の囚人に限らず、まず日本全体が饑餓状態であり、刑務所は余計そうであった、ということらしい。ただし、だから仕方ないとか許せるとはつゆ思えないし、言いはしないが。
はっきり言えばとばっちりで逮捕され、そもそも従兄の活動とてたいした脅威にもならないものであったようであり。「道」という詩がことに好きです。失してしまったのたです、と始まり、自分が生きているのは失したものを探さねばならないからです、と閉じる。はたして見つけられたのだろうか、見つけられたのであって欲しいと切に願う。見つけられなかった、その前に断たれてしまったろうと思うから余計に。日本人であることに、これほど恥ずかしく申しわけなく思ったことがない。そして、慙愧と罪の意識を決してなくしてはならない、と改めて思いもする。それは自虐でも阿ることでもなく、日本人として必要なことで、日本人より前に、人として必要なことと確信しているから。そういうことにも、気づかされる。
모든 죽어가는것을 사랑해야지
그리고 나한테 주어진 길을
尹東柱と同年生まれというと、日本の書き手では柴田錬三郎、島尾敏雄、峠三吉等がいる。峠三吉といえば、
ちちをかえせははをかえせ
としよりをかぶ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんのにんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
最近、『空と風と星と詩』の一篇「山あいの水」について、「苦しんでいる人よ」について、自分のことを言っているのか、他人のことを言っているのかと解釈の定まらなさを言う文を読んだ。
「山あいの水」
苦しんでいる人よ 苦しんでいる人よ
風に裳裾ははためいていても
胸ふかくこんこんと湧き水が流れ
この夜とともにいうべき言葉をもはやもたない。
街の騒音とはともに唄えやしないのだ。
煤けたように川辺に坐っているので
愛と仕事は街なかにあずけ
そおっと そおっと
海へ行こう、
海へと行こう、
(金鐘時訳)
素直に読めば他者にかけたものだろう。呼びかけになっているわけだし。また、尹東柱の人となりを思い併せたとき、他者にかけたもの、と捉えた方がすんなり呑み込める。序詩に、こうあるわけだし。
序詩
死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを、
葉あいにおきる風にさえ
私は思い煩った。
星を歌う心で
すべての絶え入るものをいとおしまねば
そして私に与えられた道を
歩いていかねば。
今夜も星が風にかすれて泣いている。
(金鐘時訳)
映画『空と風と星の詩人~尹東柱(ユン・ドンジュ)の生涯~』 。死の描き方については疑問だが、彼の生涯を描いたよい映画だと思う。カン・ハヌルがみごとに尹東柱になっていた。泣き謝りながら、私は観た。
