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それは本当に「あなたの能力」か。__AIという「道具」について


あなたの特技や得意なことはなんですか?


面接や履歴書では定番の問いである。
こう聞かれた時にどのように答えるだろうか?
少し考えてみて欲しい。


「早く走れます」
「英語が話せます」
「料理が得意です」
「曲を演奏出来ます」
「手の親指が異常に曲がります」


十人十色の「能力」「スキル」を語ってくれることだろう。


ただ今一度考えてみて欲しい。
それらは本当に「あなた自身」の能力だろうか?



あなたはこの記事をスマートフォンで読んでいるだろうか。
はたまたパソコンかタブレットか。


それらの普及は人間の生活を「豊か」にしてきたと言われる。
もちろんそうだろう。
でなければ私もこうして書けていない。


人間は最初に「道具」「火」を使いだしてから、幾度かの「産業革命」によって技術や文化を爆発的に発展させてきた。


しかし新しい技術には常に対立意見が生まれる。
「人間的では無い」
といった意見だ。
「道具」「火」を使い始めた時も、当時の人間の中にはそれを「堕落」と捉えた人も居ただろう。


「プロメテウスの火」

それは現代ではAIに姿を変えた。



AIの使用頻度が減ってきた。
私の「執筆」における話である。


初めからそれほど多用していたわけではないが、「アイデア出し」「感想を聞く」くらいには使っていた。
しかし今では「感想を求める」ことも減り、ほとんど「誤字チェック」など「校正」的な部分で使うくらいである。
もちろん場合にはよるが、頻度は減る傾向にある。


それはなぜか。


単純に「書く」ということに「慣れてきた」せいだろう。
「慣れてきた」というのは、


「文章の組み立て方」
「アイデアの出し方、またその保存の仕方」
「プラットフォームの特徴」


などがだんだん理解出来てきた、ということになるかと思う。
もちろんまだまだ全てが拙いし、発展の余地があるのは当然だが。
「はじめと比較して」ということだ。


この経緯の中で観察されることは
AIに頼っていた部分を「自分の能力」として使えるようになった
という事象だろう。


そしてここで「把握」しておきたいのは、
「何を自分の能力として認識するか」
ということである。



例えば自分で暗算では出来ない計算式があるとする。
そこで「電卓を使う」場合を考える。
ここで出た答えを、
「自分で計算した」
とは言わないだろう。
場面によってはそう表現もする場合もあるだろうが、ここでは「能力」という観点で見た時の表現である。


「計算した」のは電卓だ。
よってその計算の答えを出したのは「電卓の能力」である。
人間は「計算させた」に過ぎない。

この場合の人間の能力は
「電卓が使える」
という力だ。


ここを履き違えると「客観性」を見失う。


AIの場合も本質的には同様である。
「生成AIを使った成果物を出力する人間を創作者と呼べるか」
という議論がある。
「AIで小説を書く人を小説家と呼べるか」
ということだ。
これはどの分野も同様に物議を醸しているかと思う。


成果物そのものの「是非」は今回は一旦置いておく。
問題なのは先に書いた
「自分の能力としての領域をどう把握しているか」
ということだ。


作り方は様々なので一概には言えないが、今回は全てをAIが出力するという文脈で書く。


電卓の例に置き換えるならば、
「小説を実際に書いた」
のはAIである。
人間の能力は
「小説を書かせるプロンプトを入力出来ること」
になる。

これが良いとか悪いの話ではない。
「自身と他者の認識」
の問題だ。
「使用していない」と嘘でもつかない限り自由である。


しかし確実に認識しておいた方がいい問題がある。
「道具に頼った分の能力は失われていく」
ということだ。



私がAIに頼らなくなった部分は
「自分で考えた方が自分の思い描いた結果になる」
と考えたからだ。


そのままAIに頼り続けることも出来ただろう。
しかしそれでは
自分が本当に作りたいものに対しての能力は、自分の中で育たない。


現代で時に「堕落」したと捉えられること。

「漢字が書けなくなった」
「計算が出来なくなった」
「考える能力が失われた」

これらは「道具」「能力」を依存した結果だ。


しかしこれらが「問題」だとは思わない。
正確に言えば
「道具を使うことでこれらの能力を失うことを認識したうえで使うなら問題ない」
と考える。


「何かを切ること」
は人間だけでは出来ない。
それは「刃物」に頼らなければ不可能だ。


「不可能」
であることは「道具」に頼らざるを得ない。
逆に言えば「可能」であることまで「道具」に頼ることは、その能力を劣化させる。
繰り返すが良い悪いではなく「事実」だ。



「早く走れます」
「英語が話せます」

これらはほとんど純粋に「人間」としての能力だろう。


「料理が得意です」
「曲を演奏出来ます」


「料理」「楽曲演奏」「人間」としての能力だ。
しかし「火を通すこと」「和音を奏でること」は人間の能力ではない。


馬鹿みたいな話をしていると思われるかもしれない。
私も馬鹿馬鹿しくなってきた。
しかしこれが「AI」に置き換わると本質を見失うという馬鹿みたいな状況が起きるのだ。


言葉の正確性の問題にも関わる。
「道具を使える能力」「何かを生み出す能力」は異なる。
「生成AIを使える能力」「人間自身が成果物を生み出す能力」ではない。


全ての人間が北野武のように、監督であり俳優であるわけではないのだ。



調べると「能力」とは
「物事を成し遂げるための力や働きのこと」
とのことだ。


「物事を成し遂げる」
これが示す状況も難しい問題である。


「無駄なことなどない」

と私は書いてきた。


「手の親指が異常に曲がること」
この「特技」でひとつの話題を提供してきた。
そしてこういう種類の「馬鹿馬鹿しさ」の積み重ねで人間自身、そして人間関係は深まったりする。


今のAIにはまだ分からないだろう。
まだ。



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