【長編小説】YOU AND ME cocoon 1齢
【あらすじ】
大丈夫、真鶴。致命傷は外すから
中学3年生の少年・千比呂は、養蚕農家のひとり息子・真鶴(まつる)と出会う。少女のようにも少年のようにも見える「特別な少年」真鶴は、出会った翌日に二重整形した。千比呂は、ダウンタイム中の真鶴の傷に強い興味と性的欲求を抱き、SNSの裏垢「ひなちゃん」として十年に渡って観察し続ける。
二十五歳の春、千比呂は上顎骨切り手術を予定している真鶴との同居に漕ぎ着ける。
初見で男と思う者は居ない程の、美しい女性の容姿に成長した真鶴は、千比呂を「鑑賞者」として受け入れる。だが、骨切り手術の壮絶なダウンタイムに直面し、ふたりは徐々に鑑賞・被鑑賞のバランスを崩していく……
一齢
真鶴を知る者は皆、真鶴について語りたがる。男なのか、女なのか。男でいたいのか、女でいたいのか。男を欲するのか、女を欲するのか。その割に、真鶴と語り合おうとはしない。
俺はもうずいぶん長いこと、真鶴について誰かと語り合うことをしていない。必要がないし、誰かの「真鶴観」に全く興味が湧かないからだ。
真鶴とは、語り合いはする。今日は、真鶴の離職祝いのメニューについて、LINEで。
「おめでとう、夕飯お祝いだね」
「おでん。軟骨とちくわぶ入れて」
「了解」
朝晩はまだ冷えるとはいえ、三月末にちくわぶは売っているだろうか。俺はあと三時間後にスーパーでおでんの材料を買い、場合によってはもう一軒はしごしてどうにかちくわぶを確保し、真鶴の待つ部屋へ帰るだろう。中学時代から十年間見つめ続けた男は、今、俺の部屋にいる。
中学二年生のころ、俺は探究活動の発表会で二席になった。研究内容は「蚕の飼育について」。父が、仕事上付き合いのある養蚕農家から蚕を貰ってきたことが始まりだった。母は、白く太い十頭の蚕に震えあがったが、俺にとっては初めてのペットのような存在だった。
自室に置いた透明なプラスチックケースの中で、蚕はもりもりと桑の葉を食む。時に、その壁に耳を当て、微かな蚕の咀嚼音を聴いた。桑の葉しかない世界で、食べることしか知らない蚕が生きようとする音に耳をすます。かれらを生かすのは、俺だ。農家に週一で通い、「若いのにしっかりしとるわ」という言葉を笑顔で受け流しながら桑の葉を調達し、与え、黒い糞をケースから除去し。初めてのペットであり、観察対象であり、生を与える快感を教えてくれたのが、蚕だった。
飼い始めて二週間ほど経ったころ、蚕が一匹死んだ。かつて掌に乗せればむくむくと脈打った白いものは、きっとまだ柔らかいのに、クレヨンのような硬さを感じた。夕食の席で蚕の死を告げると、母は
「可哀想にね、一生懸命世話してたのに」
と言いながら、どこかホッとした表情をしていた。「案外簡単に死ぬ」という事実が、母を安心させたのだろう。その後もぽろりぽろりと蚕は死んでいった。八匹はおそらく病気が原因で死に、残る二匹は繭になったが、羽化しなかった。
秋、残った白い繭を持ち上げて、少し振ってみた。カラカラと乾いた音がする。これが、死んだものの音か、と思った。繭から出てきた君に会いたかったよ、と心の中で呟いたが、その偽善的な響きに吐き気がした。二度とそんな自分に直面しないよう、二つの繭は、住んでいたマンションの植え込みに埋めた。浅く掘り、土を被せ、手を合わせることはしなかった。
そうした、春から夏の一連のことを観察記録にし、また蚕の死の原因についていくつかの推測と検証を付け加えたものが評価された。そして、中学二年生の終わりに、蚕と桑を提供してくれた椎名さんに受賞の報告をしたところ、いたく感激された。
「千比呂くんは、うちの子たちを一生懸命育ててくれたんじゃねえ」
と言われ、面映ゆさより罪悪感を覚えた。ひたむきに蚕を育てる十四歳は、その死に直面したら涙を流すはずだし、その死を見届けた記録が評価されたら達成感を覚えているだろう。蚕の律儀な一生を見つめ続けたら猶更、自分が著しいエラー値のように思えた。
「次はうちにおいで。ちゃんと、糸取るとこまで見してあげるけん」
「お邪魔じゃなければ、ぜひ」
「なんも、邪魔なことないわぁ。朝の作業もあるし、泊まりでも」
「いえ、流石にそれは、申し訳ないですよ」
隣にいた父は狼狽していた。仕事相手と深く関わる、しかも子供を介して親密になるのは、親としてより社会人として抵抗があったのだろう。だが俺は、笑顔で
「お手伝い出来たら、嬉しいです」
と言った。椎名さんの顔が曇りそうな気配を察したからだ。俺が乗り気である、ということを示せば、父は「子供を巻き込んだ」という罪悪感は持たずに済むし、椎名さんとの関係もこれまで通り円滑に進むだろうと思った。
中学三年生のゴールデンウィークに、俺は三泊四日分の荷物を抱え、ふたたび椎名家を訪れた。丸こい飛び石が配置された砂利敷きの庭、瓦葺きの大きな平屋。玄関は金属の縦格子の引き戸で、中に入ると飴色の大木をそのまま使った上がり框。真鶴の実家は典型的な、裕福な農家だった。駅近くのマンションに住んでいる俺にとっては、十分「豪邸」に見えた。
お茶請けの水まんじゅうや「男の子はこっちのほうが嬉しいでしょう」と皿に盛られたスナック菓子を供され、「学校は楽しいか」「背が伸びたんじゃないのか」という退屈な世間話をする。三〇分ほど歓待された後、新品の軍手や長靴を渡され、母屋東側のビニールハウスへと案内された。
人の声のないビニールハウスに、青い葉のにおいと、小さな、しかし無数の音が、小雨のようなざわめきとなって満ちている。それは、幅一メートル、長さ五メートルほどの囲いの中で、大量の蚕たちが桑の葉を食む音だった。俺が小さなケースに耳を当てて聞いた音に、今全身包まれている。この生命力の塊たちは、この先の工程で乾かし殺されると思うと、憐れで、いとしくて、今度こそかれらが死ぬ瞬間までずっと見つめていてやりたい、そんな気分になった。
「可愛いです、すごく」
「うん、可愛いとよねぇ。白いのが、一生懸命でよう」
そこに憐憫の色はない。俺は口先だけで、そう、そうなんです、と言って笑った。
「あの、蚕の写真を撮ってもいいですか」
「おう、どんどん撮りない。同級生に見せてみない、うえーっちゅうて逃げるけん」
せっかく見学に行くなら、と買ってもらった一眼レフカメラのレンズ越しに、蚕の体側の黒い点が見える。呼吸するようにそれは動いていた。
とりあえずの見学のあと、二間続きの和室に通された。広いちゃぶ台いっぱいに、鶏天やかき揚げや、カニカマの散らされたサラダ、素麺の大鉢が並んでいる。奥には、三〇代だろうよく日焼けした男性と、すいすいとスマホを弄る少年がいた。スマホの透明ケースには、赤と緑の派手なステッカーが挟まれている。
心臓が強く収縮した。同級生たちとはまるで違ったのだ。白い首が発光し、それを反射するように髪はつやつやと輝く。すっと切り開いたような目が涼やかだ。服の下の皮膚の下の、肉の下の骨から違う、特別な少年。俺は、真鶴と出会った。
当時の真鶴は、俺の中学だったら頭髪検査で一発アウトになりそうな、セミロングともウルフとも呼べるような髪型をしていた。人並みに存在しているだろう毛穴はファンデーションで巧みに隠され、唇は赤いグラデーションに染まっていた。
俺はふらふらと、真鶴の正面、一番端の席についた。
「あら、千比呂くんは真ん中に座らんね」
真鶴の祖母がそういうと、男性が
「かあちゃん、子供同士の方が気楽なんじゃって」
と窘めた。真鶴は眉ひとつ動かさず、ぼそっと
「子供」
と言った。
「真鶴は同い年なんよぉ。仲良くしてやってね」
俺は、自分の器用さに空恐ろしさを感じていた。頬は紅潮して緩み、その割に手や腑は軽く震えているのに、
「千比呂くん、どんどん食べて」
「残ったら晩飯、伸びた素麺になるどぉ」
という軽口に
「じゃあ、遠慮なく」
と微笑む。正面からはちゅるちゅると、ゆっくり素麺をすする音がする。それは、どっかりと胡座をかく座り方には似つかわしくないささやかなもので、俺はあの蚕たちのざわめきを思い出していた。
ふいに、真鶴がぎょろりとこちらを見たから、俺はばっちりと目を合わせてしまった。逸らすべきか、いや、そうすれば意味が生じてしまう。その意味が、美しいものに見つめられたことへの恥じらいだと、受け取って貰えるだろうか。一瞬の迷いは、俺を硬直させる。
その時、真鶴の目がきゅっと細まり、口元が歪み、顔の右側だけを使った笑みを浮かべた。小さな頭蓋と丸い頬、細い鼻筋から構成された美しい顔を台無しにするような、品のない笑顔。
俺は、ひと口残っていた鶏天を箸から取り落とした。鶏天はおそらく麺つゆの小鉢に落下したのだろう、左手の甲に、麺つゆの滴が飛んできた。その冷たさを、今でも覚えている。
真鶴の隣に座っている男性はゴウさんといい、真鶴の叔父らしかった。真鶴のような華奢さとは無縁だが、肉に埋もれそうにないシャープな輪郭は、椎名家の人間そのものだった。あらかた料理を食べ終えるとゴウさんは
「じゃ、次は蚕にメシ食わせんとなぁ。ごっそさん」
と言って立ち上がった。俺も慌てて、一筋残った素麺をすすり、ごちそうさまでした、と言って皿を運んだ。真鶴もまた無言で食器を運び、ゴウさんの後に続いた。立ち上がると、俺より五センチほど背が低く、長い睫毛を斜め上から見ることが出来た。
午後、桑畑で葉を収穫しながら、椎名家の人間が、俺に泊まり込んでまで養蚕体験をさせてくれた理由がよく分かった。あの大量の、しかも大飯喰らいの蚕を養うためには、さらに大量の桑の葉が必要だ。人手はいくらあってもいい。初夏の昼過ぎの太陽は、じりじりと照り付ける。首側に布の付いた麦わら帽子の有難みを身をもって知った。
頭ほどの高さの桑の木が、茶色い土の畑に何本も植わっている。時折手を止めて、ふうと息を吐きながら、木の向こうに目をやる。茂った葉っぱの間から、真鶴の白く小さい顔が、見えては隠れ、そして葉が刈られるにしたがって、露わになってゆく。その瞬間をじっと待つ。昼食の時のように、目が合うことも、にやりと笑いかけられることもない。真鶴が、桑の葉をざわざわと揺らす音に耳を澄ます。そんなことを繰り返しながら、一抱えほどの葉を刈って、その日の手伝いを終えた。
夕食時には、真鶴の祖父母とゴウさんだけでなく、ゴウさんの奥さん、そして真鶴の両親も席に着いていた。真鶴の父は、祖父の丸く分厚い鼻を受け継いでいる。
真鶴の母の黒目がちでつぶらな目は、真鶴と少しも似ていないが、白い肌と小さな顎は確かに、真鶴に受け継がれていた。配膳の途中
「お邪魔してます、梶千比呂です」と頭を下げると、
「どうもぉ」
とだけ返された。客のくせに厚かましいけれど、よそよそしい人だなと少し鼻白んだ。
「千比呂くんの歓迎会」という名目で大人たちはよく飲んだ。どんどん顔の赤くなる大人たちをよそに、俺は隅の席に移り、真鶴にそっと
「名前、なんていうの。俺は、千比呂」
と問いかけた。
真鶴は面食らったようにさっとこちらに顔を向けた。一秒遅れて、眼の力を緩める。
「まつる」
「まつる、か。どういう字?」
「真実のシンに、普通の、鳥の鶴。変やろ」
早口で言い切るその口調には、相手のペースでいじらせまいとする意志が感じられた。
「特徴的だとは思うけど、綺麗な名前だね。似合うよ」
「は、どこが。そんまま読んだら『マジで鶴』やん」
「いや、白くて、スッとしてて」
俺はゆっくりと瞬きをし、言い聞かすように
「一人で立っている姿が綺麗なところ」
と言った。真鶴は少し眼を見開いたが、きゅっと眇めた。
「お前、なんか、ヘン」
「ヘン、に留めてくれて安心した。キモイって言われるかと思った」
「キモくないこともないけど、うーん」
少し鼻を擦り、耳の上の髪を指で梳いて
「名前、ポジティブな受け取り方する奴、初めて」
と言った。背筋がぞわぞわとする。こみ上げる笑みを何倍にも希釈して笑った。
「収穫、なかなか体力遣うね。今日は夜中まで起きてたかったんだけど、無理かもなぁ」
「夜、なんかあんの」
「深夜ラジオ。今週、ゲストに『はり鼠』出るんだよなぁ」
真鶴が目を見開いた。
「え、俺もその番組聴いとる」
「ほんとに? うわ、うれしいなぁ。同じクラスで聴いてる奴なんて、全然いないよ」
「や、マジでそう。えー、やばい。そっか。お前……」
「千比呂ね」
「千比呂も、好きなんや」
一瞬の気まずそうな顔もさっさと消え、真鶴は、あの回が良かっただの語り始めた。俺は真鶴の言葉にいちいち笑い、
「ねぇ、一人だと起きてられる自信ないから、一緒に聴かない?」
と言った。少し大きめの声で言ったその言葉を、真鶴の祖母は耳ざとく拾い
「あら、千比呂くんの布団、まーちゃんの部屋に持って行こかね? あんまり夜更かししたらいかんよぉ」
と笑って言った。真鶴は、やや困惑したような顔をしていたが、笑顔を完全には消さず、あぁうん、と言った。きっとこの人は、相手の親密さを無下に出来ない。罪悪感を抱きたくないから、その場の流れに自分を合わせる。俺に都合の良い形で、俺と相性が良い、と確信した。結果的にそれは正解だったのだが、今の俺だったら流石に、あそこまで傲慢にはなれない。
深夜、真鶴はベッドに、俺は布団の中に入り、電気を消して、真鶴のスマホからラジオを流す。スマホ画面の明かりと、窓から差し込む月明かりで、互いに顔を見合わせて笑った。俺は、ラジオを聴きながら寝落ちした。眠さが限界に達したのではなく、真鶴に呆れられてみたかった。眠りに落ちる直前、真鶴が「あんなぁ、俺、明日さ」と言う声が聞こえたが、もう引き返せない程の眠気を感じていた俺は、うん、とだけ言って、寝入ってしまった。
翌朝は五時半に目覚めた。寝不足の割に、非日常にいるという緊張のせいか、頭は冴えていた。真鶴はこちらに背を向けて寝ている。痩せた背中が、すうすうと上下している。それを五分ほど観察した後、声はかけずに部屋を出た。
朝からまた桑を刈り、運び、蚕に与えて古い桑を取り除いて、といった作業をしていたが、真鶴はいっこうに現れなかった。昼食の席にも、真鶴は居ない。大人たちは全員揃っていたから、友達と遊びに出かけているんだろう、と納得しつつ落胆していた。
俺は昨日まで、深夜ラジオを聴いたことなんてなかった。真鶴のスマホのステッカーに書かれていた番組名から、ざっと最近のゲストを調べて、適当に話を合わせただけだ。でも、今なら一緒に聴いたのだから、俺から真鶴を笑わせることができる。先に寝落ちしたことを咎められることもできる。中学生の十二時間は、大人の一週間のようなものだ。半日経てばすっかり話題の鮮度は落ちると分かっていた。
夕食前に二階の客間で自分の洗濯物を片付け、廊下に出たら、真鶴と鉢合わせした。窓からの陽はまだ明るく、真鶴の顔をはっきりと照らす。その瞼は、両方とも均等にふっくらと腫れ、しかし、昨夜は無かったくっきりとした襞が刻まれていた。
どうしたの、なんて聞かなかった。真鶴がさっと顔を伏せたからだ。そこに後ろめたさを見出した俺は、思考スピードよりずっとゆっくりと
「昨日、楽しかったな。今日は早寝するよ」
と言った。どこで寝るか、ということには触れなかった。真鶴は目を伏せたまま、そやなと言った。
肉の焼ける匂いの漂う廊下を通り、台所の手前に差し掛かった時だった。ゴウさんの奥さんの声が聞こえた。ゴウさんと二人、小声で話し込んでいるようだった。
「大人がちゃんと、止めてやらんと。あんな、子供のうちから」
という声が聞こえた。
「お義姉さんは、何考えてんの」
と続く。そっと覗くと、食器棚から取り皿を出す奥さんの横で、缶ビールを手にしたゴウさんが
「いやまぁ、俺らが立ち入れることじゃないやろ」
とため息混じりに応える。
俺は、そっと後ずさった。
「そんな……お義兄さんはもう、ああいう」
という声が少しずつ遠ざかる。一度階段の前まで戻り、三十秒ほどおいて、足音を立てて台所へと向かった。
食事の間俺は、筋肉痛の具合を大人たちに話して笑いを誘いながら、考えていた。真鶴は、整形したのだ、と。二重瞼の整形などちっとも珍しくも困難でもないとは知っていた。だが、半日前に顔を合わせて話していた人が、ビフォアとアフターに分裂する、その日に立ち会うのは初めてのことだった。
あの美しい少年が、自分の美しさを自覚しながらも「足りなさ」を感じ、痛みとともに身体に手を加えた。彼は変態した。明日の真鶴の目はどうなっているだろう。さらに腫れるのか、青くなるのか赤くなるのか。触ったら痛いだろうか。
そんな考えを巡らせていた時、真鶴の祖母が
「まーちゃん、千比呂くんに勉強教えてもらったらいんじゃないとぉ。休み明け、テストあるんじゃろ」
と言った。それを受け、真鶴の母親が
「うそ、そうなの? マー、あんた整形なんかしてる場合じゃないじゃん」
と、素っ頓狂な声を上げた。
一瞬、場が静まった。真鶴が、箸をさっと下ろし、茶碗に叩きつけるように置こうとした。だが、ゴウさんが、犬がボールを拾いに行くような素早さで
「まだ休み入ってすぐやし、千比呂くんはしっかりしとるし、二人で勉強すりゃすぐ追いつくやろ」
と笑い、箸の音をかき消した。大人たちが、気まずさを世間話で上書きしていく。真鶴は席を立ったりはせず、箸を持たない右手を所在なげにテーブルの上に置いた。俺はそっと
「勉強教える、ふりして、部屋でダラダラしよ」
と囁いた。真鶴は、無気力な表情をしたままこちらを見て、小さく「うん」と言った。瞼だけが弾力と深い襞で、はつらつとしている。あの涼やかな目元が失われたことに、俺は少しも落胆していなかった。
風呂の後、真鶴が部屋に戻る音を確認して、五分後に真鶴の部屋の襖を叩いた。
「お疲れ様。勉強しに来た」
んー、という声がしたので、許可と判断して襖をすっと開けた。真鶴はベッドの上でうつ伏せになっていたが、少し身を捩って俺の方を向いた。俺は、ベッドの傍に腰を下ろす。
「真鶴、疲れてるでしょ。俺居て大丈夫?」
「まぁ、別に。俺そんな喋らんけど」
「いいよ。何だか……真鶴といると落ち着くからね」
「お前ホント、ヘン」
ふっと笑う真鶴を見ながら、俺は心の中で「ごめん、大嘘だよ」と呟いていた。整形し、目を腫らし、心労と肉体的疲労と苛立ちに苛まれていた真鶴を見ながら、俺は、その瞼をそっと撫でさせてもらうにはどうすればいいのだろうと、落ち着きとは無縁のことを考えていた。そんなことはできない、と分かっていたから、ベッドに腰掛け、何も言わず真鶴の背中に左手を載せた。一瞬、筋肉の強張りを感じたが、俺は手を除けない。真鶴はふーっと息を吐き
「俺は」
と言った。
「うん」
「俺は、なんやろ……恥ずかしくないよ」
「うん」
「なんか、みんなが『触れたらいかん』みたいにしてるとことか、母親が……そんなんすら考えてないこととか、に、イラっとしただけ」
「うん。あのさ、俺、明日が楽しみだよ」
真鶴がゆっくりと俺のほうに顔を向けた。目だけで、何で? と問うてくる。
「明日の真鶴は、多分、昨日より今日よりもっと、綺麗になってるでしょ。そんな変わり方する人、俺、会ったことないよ」
真鶴は、床に目を落とし、あー……と言った。唇を、そっと噛む。口角が、微かに上がっていた。
「千比呂、ちょい怖い」
「え、何で?」
「なんか、なんか、催眠術みたい? うっかり丸ごと信じたら、やばそう」
そう言うと、真鶴は上目遣いで笑った。
「何、俺ってそんなに、詐欺師みたいな言い方してる?」
「ああ、それ、詐欺師や。危ないわ。お前いつか女に刺されそう」
それは杞憂だ、だって、真鶴にしかこんな言葉は掛けないから。だから俺を刺す可能性があるのは真鶴だけだよ、と言いたかった。まだそういう段階じゃないと判断し、
「ひどいな」
とだけ言って、笑った。
「真鶴、俺じゃなくて施術の方は怖くなかった?」
「いや、まぁ、正直普通に怖くてぇ。めっちゃ針通ってるなーって感覚あるし」
「今は、痛くないの? 麻酔切れてるんじゃない?」
「ちっと痛い。でも、痛み止め飲んでるし、そこまでは」
「そっか、安心した。今日はゆっくり寝なよ」
そう言って、ポンと背中を叩き、俺はベッドから立ち上がった。真鶴が身体を起こす気配が、背中越しに分かる。すっと息を吸って、何か言おうとした気配も分かったが、それを無視して「じゃあ、おやすみ」と言った。
翌日も、朝食後少し休んだら作業が始まる。その日は少し楽で、蚕に新しい桑を与える作業を手伝った。初日に見た大量の桑の葉と蚕の上に、ゴウさんと真鶴、そして俺、三人で軽い網を掛ける。その上に、新しい桑の葉を満遍なく載せた。蚕の上にのぼる習性を利用して、網をくぐらせ、新しい桑の層まで誘導する。
蚕が移動してくるのを待つ間、ゴウさんは桑畑に行った。俺と真鶴は、ぽそぽそと話し合った。
「どう、体調は」
「まぁ、違和感はあるけど。突っ張る感じ。糸で止めてあるやん?」
「ああ、なるほどね。でも、昨日より落ち着いた感じするよ。綺麗」
俺が誉め言葉を口にするたび、真鶴はきまり悪そうに下を向いて唇を噛む。つられて下を向いたら、蚕たちが桑の葉の隙間から顔を出してきた。興味はすっかり真鶴に移っていたものの、蚕を可愛いと思うことに変わりはない。首から提げていたカメラで、葉の下にいる蚕を何枚か写した。そして、身体を起こし、真鶴の方を向いて、カメラを構えた。
「え? 何?」
たじろぐ声色には、警戒心と照れが隠れている。そう信じて俺はカメラを下ろし、ダメ? と聞いた。
「いや、ダメていうか、いきなり、ビビるし。てかお前、距離感すごいな」
「びっくりするかぁ。じゃあ、いつならいい?」
「いつ、て。撮ってどうする」
「真鶴、このカメラ、二年間親にねだり続けて買ってもらったんだ。俺、写真が好きで。いざ手に入れたら、やっぱり撮りたいよね」
「蚕でいいやん。好きなんやろ」
「真鶴、まさか自分が蚕と同列だと思ってる?」
真鶴が、あ、と言って、眉間に皺を寄せ、口元を手で覆う。そのまま、ちらりと伺うように俺を見る。
「まぁ確かに、ちょっとずつ変わっていくところは同じかもね。それが、すごくいい」
俺は、一歩真鶴の方に踏み出した。蚕が桑を食む小雨の音に紛れそうな声で
「いつならいい?」
と言った。
真鶴は口元を押さえていた手で額を押さえ、長い前髪の隙間から俺を見て
「ゴールデンウィークの最終日あたり……眼、落ち着いたら」
と言った。このいたいけな眼を、今すぐ撮りたい。でも、それは真鶴を動揺させすぎるし、俺が主導権を握りすぎる。ぐっとこらえ、うん、と頷いた。蚕はすっかり葉の上に移動したのだろう、しゅりしゅりしゅりという小雨のような音は少しだけ、さっきまでより大きい。俺たちは音だけで蚕の様子を感じながら、ただ互いの目を見ていた。こんな瞬間は、その先の十年間、一度も訪れていない。
ゴールデンウィーク最終日、俺と真鶴は、紡績工場裏の高台にある公園で待ち合わせた。俺たちの住む市は、ショッピングモールも飲み屋街も、大手繊維メーカーの紡績工場を中心に配置されている。市役所だけ、やや離れた川沿いにある。大人たちはみな繊維メーカーの社員か、公務員か、信金の行員か農家という、典型的な企業城下町だった。俺の実家は市役所近くの「旧市内」にあり、真鶴は同じ市内だが市町村合併で吸収されたK町との旧市境に住んでいた。高台の公園は俺たちの家のちょうど中間地点にあり、撮影をするときはいつも、そこで待ち合わせるようにしていた。
公園入口のバス停で下車し、駐車場から続くコンクリート製の階段を半分も上ると、頭皮から滲んだ汗がもみあげをつたい、顎に流れて来る。海に面していて、二本の川が町を貫き、山に囲まれたこの土地は、曇りの日には湿気が充満する。タオルハンカチで汗を拭いながら、見晴台のある広場へと向かった。
見晴台手前の東屋の下に、一台のえんじ色の自転車が停められ、その隣には、薄い体躯の人影が見えた。あの頃の流行からするとずいぶんとタイトなTシャツに、ゆるいカーゴパンツの組み合わせは、まるでウエストがくびれているかのようなシルエットを作る。少年とも少女ともつかない真鶴が、工場のほうを見て立っていた。
「早かったね」
そう呼びかけると、真鶴は振り返った。
「時間、読み間違えた。ていうか、お前発信の約束なんだから、先来てわくわく顔しとけや」
と言い、不貞腐れたように自分の自転車のサドルを撫でた。
「ごめんごめん、ちょうどいいバスがこれしかなくて」
「チャリじゃないんや。軟弱やん」
いたずらっぽく笑う目の腫れはすっかり引き、くっきりしすぎていた二重の襞は、元からそこにあったかのように馴染んでいた。初めて会ったときより一回り目が大きく見える。
拗ねたような素振りの真鶴は愛らしい。誰が見ても、美少年、あるいは美少女だと思うだろう。だが、じっと見ていると汗の臭いや照りがないが、腕やふくらはぎの肉感もないことに気付く。真鶴の親族や同級生たちは、この違和感をどうやり過ごしているのだろうと想像した。もし俺の中学にこんな存在が居たら、生徒たちは「どっちだ」と噂し、さらに彼が整形しようものなら、恰好のゴシップのネタとして消費するだろう。
「真鶴は意外とタフだね。自転車でここまで来てもそんなにきれいなメイクのままって、どんだけ体力あるんだよ」
一瞬、たじろいだように見えた。数日の間に、真鶴は新しい目を存分に謳歌すると決めたらしく、華やかになった目にふさわしいくっきりとしたアイラインを引き、目尻にはピンク色をのせていた。真鶴は乱れのない前髪を手櫛で何度も直しながら
「俺、汗全然かかんから。なぁ、撮るんやろ」
と早口で言った。
見晴台より離れた植え込みの近くで、紡績工場の赤白の煙突が突き出す街を背景に撮影する。ポージングなどという概念は俺達にはなく、ただ所在無げに棒立ちしている真鶴を、ピントを合わせる以外の工夫なく撮っていった。
「真鶴は、すごいね。立ってるだけで画になる」
真鶴は、頭を抱えて、お前マジで理解不能や、と言った。ストレートに称賛し続ける俺が怖いのだという。俺も、俺自身が理解不能で、空恐ろしいと思う。真鶴が欲しがるだろう言葉なら、思ってもいないことでも言えるし、思っていることなら一切の胡麻化しなく口にできる。「立っているだけで画になる」とは、全くの本心だった。当たり前だが、他の人間にこんな接し方はしない。
さらに恐ろしいことには、俺は真鶴を称賛する言葉を口にしながら、どこか自分が冷めていくのを感じていた。スタイルがよく、顔も整った真鶴はそのままで画になるというのは事実だが、俺が撮りたいと思っていたのは、この真鶴ではないのだ、と思った。じゃあどの真鶴なのかということは、まだ分かっていなかった。
もう充分に撮ったと思いながらも、アリバイ作りをするような気持ちで、少しだけ場所や画角を変えながらどうにか二十分間撮影した。東屋に戻って撮影データを見返し、よく撮れたものは真鶴のスマホに転送する。
真鶴は頬杖をついて、テーブルに置いたスマホをスワイプし、十数枚の自分のポートレートを見返す。その表情からは、照れも喜びも見て取れない。むしろ俺同様、すんと冷めた表情をしていた。そして
「千比呂、この写真どうかする気、ある? 俺は、学校もこの顔で行ってるし、この服で地元歩くし、ネットに流しても大して面白いことないからな?」
と言った。俺は思わず、吹き出してしまった。
「は、何なん」
「いや、真鶴、警戒するにしたってタイミングが遅すぎるよ。でも、そうだよね、警戒するよね。ごめん、別に真鶴が心配するようなことはしないし、家に帰ってじっくりじっくり見返したりもしないよ。人物写真を撮りたいだけだし、どうせなら綺麗な人が被写体の方が撮り甲斐がある」
「お前やったら、同級生の女子にでも『ちょっと撮らせて』とか頼めば撮らせてくれるやろ」
「さすがにそれは、親や先生にバレたら気まずいだろ」
「俺やったら気まずくないのか」
「いや、多分気まずいけど、何とも思ってない女子を撮って気まずさを背負うくらいなら、真鶴を撮って気まずくなったほうがいい」
俺が断言すると、真鶴はまた頭を抱えた。
「お前、俺のこと好きなん? 俺別に、そういうんじゃないよ」
「そういうって、どういう」
「いや、男が好きとか、好かれたいとかじゃないよ。男でいることが嫌なわけでもないし」
「真鶴、俺も、真鶴とどうにかなりたいわけじゃない。女子と付き合ってひと月で振られて、へこんだことだってある」
「へこんだりするんや」
「真鶴、俺のこと機械だと思ってる?」
「うん、わりと」
俺たちは顔を見合わせ、笑った。話せば話すほど、俺たちはお互い何のメリットもないことをしている、と気付いていった。俺は真鶴が問い詰めた通りだし、真鶴もわざわざ自転車でここまで来て、腕を蚊に刺されながら素人カメラマンに撮られるために休日を費やしている。メリットがないからこそ、興味や好奇心だけで行動できるんだろう――俺たちはそう結論付けた。真鶴が訳知り顔で「俺らは意味があることに慣れすぎてる」と言ったのが可笑しくて、俺は突っ伏して笑った。
その年の花火大会の夜、俺たちは「意味のないこと」のために再び高台で待ち合わせた。溶けそうな暑さの真昼間に高台に集まるのは、意味がないを通り越して害がある。八月の夜七時はまだ薄っすらと空が明るく、俺の腕でも何とかポートレートらしきものを撮影することができた。空の色も暗さも、工場の灯りも、すべてがあいまいでぼんやりとしている。それが真鶴にはよく似合っていた。二人でカメラの液晶画面を覗きながら
「次からは、夕方に撮りたいな」
そう言うと、真鶴は
「次、あるんや」
と驚いていた。
「あぁ、もう辞めたくなった?」
「いや、別に、そうじゃない……何やろ、なんで俺、リピーターついたみたいな気持ちになってんの」
「リピーターではあるなぁ」
「何これ、俺ら引きで見たらヘンだしきもい」
「別に、誰も見てない。引きでも寄りでも、俺たちのこと、見てないよ」
真鶴が、あー……と言った後、二人して沈黙した。風に吹かれた、真鶴のまっすぐで柔い髪が、視界の左端に入る。今、顔を上げて左を向いたらどうなるだろう、と思った。ひと月だけ恋人ごっこをした同級生の女子とは、こんな空気になったことはなかった。今、目が合ったら。今、工場の方で花火が上がって、二人で顔を上げたら。耳の中の血管が脈を打つ。特に左耳がうるさい。
そう思ったとき、プン、ともっとうるさい音がした。真鶴が「あっ」と声を上げる。俺たちの間の耳元を、蚊が一匹通り過ぎたのだった。
「……蚊だね」
「また刺されるとこやった」
張り詰めた空気はしらけた。ほっとしてはいたが、あの時間の先に何があったのか、知りたくはあった。
「どうする、本当に祭りでも覗いて帰る?」
「いや」
真鶴は立ち上がりながら
「やめとけ、同級生に会ったら変な噂立つぞ」
と言った。そんなことない、とか、別にどうでもいい、なんて、口先で言えなかった。この高台にいる俺たちのことは誰も見ていないけれど、街に出たらそうじゃない。真鶴はもう声変わりしていたが、夜ということもあり、黙っていれば女子にしか見えない。でも、だからと言って真鶴に息を潜めさせる訳にはいかない。真鶴が男に見えても女に見えても、別に俺には関係ないはずなのに、逡巡してばかりで言葉が出なかった。真鶴は穏やかに、行こ、と言った。
バス停に着いたが、中途半端な時間に撤収したから、次のバスが来るまで四〇分も時間があった。
「真鶴、自転車貸して」
「え、俺歩くんか」
「いや、二人乗りしよう。俺が漕ぐから」
「マジか。あっつ」
真鶴は、鼻の付け根をくしゃくしゃにして笑う。笑いのツボはよくわからないが、俺はつられて、そして安心して笑った。
駐車場に向かって階段を降りるあたりから、予感はしていた。だが、俺の予想よりはるかに早く、土砂降りの雨が降ってきた。
「やばい、これ、お前、カメラ大丈夫なんか」
「ジップ袋に入れてあります。真鶴、自分のスマホ心配したほうがいいよ」
トイレの庇に逃げ込んで、真鶴にコンビニのビニール袋を渡し、自分のスマホはカメラの入ったジップ袋に入れた。
「完全にタイミングミスっとるやん」
真鶴が眉を下げて笑う。
「いや、いい。行こう。どうせもう手遅れだよ」
「破滅的やん。俺のチャリやぞ」
そう言いながらも、真鶴は楽しげな顔で庇を飛び出した。
俺たちは二人乗りした。真鶴よりは体格の良い俺が前で漕ぐ。口に雨水が溜まるくらい笑いながら、肩に乗った真鶴の掌のぬるさを感じる。こいつ、二人乗り下手なんだな、他の奴と二人乗りしてないんだろうな。そう思って、わざとハンドルを軽く捻った。車体がぶれると、ぎゅっと、肩にかかる力が強くなる。
この街のくだらない論理は死に、ここには俺たちと俺たちの昂揚しかありません。そう書かれた垂れ幕を、役所の支所の屋上から提げたい。雨に濡れたシャツが肌に貼りつくから、俺は自分の体温をはっきりと認識する。真鶴も多分、きっと、そう。
国道と広域農道の交差点に差し掛かる。やたらと道幅が広く見通しの良い交差点に向けて、俺はゆっくりとブレーキを握る。だが、後ろから
「行け行け、どうせ誰も通らん」
と大声が聞こえる。ハスキーで粗暴な少年の声。俺は右手の力を抜き、体重を預ける立ち漕ぎをする。少し視線を落とすと、おーおー、と愉快な声を上げる真鶴の脚が見える。ジーンズの裂け目から、人形みたいに白い太腿が見える。何で俺、テンション上がってんだ、女子でもないのに。そう思う傍から、でも真鶴だからなぁ、という自己弁護が湧き上がる。俺は、自分が分からない。真鶴のことをどう見ているのか、どう思いたいのか。ただ、分からない、ということははっきりと自覚している。「こいつ男だぞ」などと雑な処理はしない。そういう自分を、いいぞ、と思った。
自分から二人乗りを提案したくせに、多少本数の多いバス停まで走らせてもらったかたちになった。真鶴は上機嫌のまま、通り雨の上がった夜道を走り出す。肩甲骨の浮き上がった背中が遠ざかっていくのをじっと見つめていた。
帰宅した俺を見て、母親は
「あらー、いかにも男子って感じね!」
と言いながら風呂に追い立てた。今頃真鶴は、家族に何と言われているだろう。今、真鶴がへらへらと笑いながら、ぺたぺたと音を立てて廊下を歩いていたらいい。そう思いながら、ふかふかのタオルで顔を拭った。
風呂から上がった俺は、真鶴との約束を破った。大雨から守った真鶴の写真データをスマホに転送し、これまで撮ったものすべてじっくりじっくりと見た。澄ました顔、照れくささから来る笑いを嚙み殺す顔。初日の終盤は少し警戒したように攻撃的な目になっていて、「ああ、この辺りでおかしいって気付いたんだな、だいぶ遅いな」と思って笑った。どんなにじっくりと見ても「俺の気持ちはどんなものか」という答えは見つからなかった。微笑ましかったり、見惚れたりという瞬間はあっても、蚕室で真鶴に撮影の打診をした時のような、あるいは数時間前の雨の中のような、ぞくぞくする感覚はなかった。
真鶴の写真を見返すことが日課になった。ああ可愛いな、よく撮れているな、と思いながら次々とスワイプする。大した感動がなくなっても、それを止められない。そのうち、もっと欲しくなった。生身の真鶴ではない。情報としての真鶴が欲しくなった。
夏休みが明け一週間程経ったころ、真鶴のメッセージアプリのIDと同じ文字列を、SNSで検索した。一瞬で真鶴のアカウントを特定できた。整形後に自己顕示欲が一気に高まったのだろうか、出来立てのアカウントには真鶴の自撮りがずらりと並んでいた。最新の投稿は三時間前のもので、毛先を少しだけ外ハネにしてみた、といった内容のキャプションがついていた。どうやら今日も真鶴は生きているらしい。胸郭の中の空間が広くなったみたいに、心が沸き立つ。
少し遡ると、動画もあった。ASMRもどきというべきか、真鶴がプレッツェル型のグミをゆっくりと噛むショート動画だった。専用の機材を使って音を拾っているわけではないから、咀嚼音は聞こえるか聞こえないかというささやかなものだ。スマホを耳に近付けて、かしゅかしゅ、と菓子が砕ける音を聴く。
両眼のアップの写真に、
「埋没おわった。左だけ線ゆがんでて鬱」
とキャプションが添えられている。俺が対面では近づけなかった距離だ。言われてみれば確かに、という程度の、二重の襞の歪みがある。その歪みは夏になればすっかり馴染んで、美しくなっていること、何なら翌日には多少腫れが引き「綺麗だ」と思うほどの状態になっていると、今の俺は知っている。だが、「今の俺」は、この写真の頃の真鶴からすれば未来人のようなものだ。他人よりずっと解像度の高い目で自分の目を見つめ、まだ見えない未来をポジティブにもネガティブにも想像し強く心を揺らす。その真鶴を想像したとき、俺の心に湧きあがった感情は「いじらしさ」と、それを遥かに上回る興奮だった。
施術から一週間後の写真を見る。明るい窓辺で、右目を器用に閉じた真顔のウィンクの写真に
「二重幅理想過ぎました。天才かも」
というキャプションがついている。今まで出会ったどんな女子よりも可愛い。確かに、天才かもね。思わずいいねをタップしそうになり、慌てて親指を止めた。
画面はそのままで、俺はあの椎名家の廊下や蚕室で見た、赤く腫れた瞼を思い返し、真鶴の写真に重ねる。あの瞼に触れたい。せめて、写真で良いから見たい。俺は何故あの時シャッターを切らなかったのかと激しく後悔しながら、スマホを掴んでベッドに横たわった。
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