夜のサードプレイス——イエメン・コーヒーはなぜ、いまアメリカで増殖するのか
カルダモンの香りが鼻先をかすめる一杯がある。黒と金で縁取られたカップに注がれ、表面にはわずかに油膜のような光沢が浮かぶ。柑橘を思わせる酸味と、煮出した茶のような重さが同居し、エスプレッソに慣れた舌には明らかに異質な飲み物である。アメリカの都市部で、いまこの種のコーヒーを供する店が静かに、しかし確実に数を増やしている。看板に「イエメン」の文字を掲げ、壁にはアラビア文字と山あいの集落の絵を描き、ショーケースには中東の焼き菓子を並べる。ハラズ・コーヒーハウス(Haraz Coffee House)、カフワ・ハウス(Qahwah House)、モカフェ(MOKAFÉ)、カマリア(Qamaria)——名前こそ違えど、これらは同じ潮流に属している。
この現象を、ただ「珍しい風味のコーヒーが流行している」と説明するのはたやすい。だが、それでは本質を取り逃がす。カルダモンの風味は入口にすぎない。アメリカの消費者がこれらの店に求めているものは、飲み物そのものではなく、その飲み物が置かれている「場」の構造である。本稿は、イエメン系カフェの急増という一見ニッチな商業現象を手がかりに、現代アメリカ社会が抱える「夜の空白」と、その空白を埋める担い手がなぜ中東系移民のコミュニティから現れたのかを論じる。問いは単純である。なぜ、いまなのか。なぜ、イエメンなのか。
あらかじめ、本稿の見立ての骨格を示しておく。イエメン系カフェの増殖は、三つの異なる説明変数の交点に立っている。第一は供給の側の固有性——百年の移民史が育んだ文化資本と、コーヒー文化の発生源を名乗りうる真正性である。第二は需要の側の構造的空白——第三の場所の衰退と孤独の流行である。第三は、その空白を満たす条件の歴史的な反転——酒なき世代の台頭によって、宗教的禁酒という制約が競争優位へと転じた逆説である。これら三つが偶然に重なり合った地点に、カルダモンの香りの一杯が立ち上った。以下、それぞれを順に解きほぐしていく。
第一章 風味という入口、そしてその先
イエメン・コーヒーの味の特異さから始めよう。それ自体が無意味だからではなく、むしろ味こそが議論の出発点を誤らせやすいからである。
ハラズの看板商品のひとつであるハラジ・ムファワル(Harazi Mufawar)は、伝統的な製法で淹れられたコーヒーに、カルダモンをはじめとする香辛料を効かせた一杯である。ムファワルとは「泡立てた」を意味し、表面の細かな泡が口当たりに独特のまろやかさを与える。これと並んで人気を集めるのがアデニ・チャイ(Adeni Chai)——インドのマサラ・ティーとイエメンの茶葉を掛け合わせ、カルダモン、シナモン、ナツメグなどを加えた甘く濃厚な飲み物である。インドとイエメンを結んだ香辛料交易の記憶を、一杯の茶のなかに畳み込んだような飲料といってよい。さらにキシュル(qishr)と呼ばれる、コーヒー豆そのものではなく果皮を煮出した飲み物や、サフラン・ラテ、ピスタチオ・ラテといった、ナッツや香辛料を前面に押し出した変奏も並ぶ。
これらの飲み物が体現しているのは、コーヒーという飲料の起源に関わる歴史的事実である。コーヒーの原種はエチオピアに発するとされるが、これを栽培作物として体系化し、紅海を越えて世界へと送り出した最初の土地は、イエメンであった。中世のイエメン、とりわけ紅海沿岸のモカ(Mokha)は、コーヒー交易の世界的な結節点として機能した。「モカ」という語が今日なお豆の銘柄や飲み物の名として生き残っているのは、その記憶の化石である。つまりイエメン系カフェが供するコーヒーは、単なるエスニックな珍味ではなく、「コーヒーという文化の発生源そのものを名乗る」という、歴史的正統性の主張を伴っている。この点は後段で重要になる。
ハラズが名を冠する「ハラズ」もまた、地名である。イエメン西部、標高の高い山岳地帯にハラズ山地があり、ここで栽培される豆は有機栽培・天日乾燥を特徴とする。ハラズというブランドは、この高地の豆を直接買い付けることを売りにしている。風味の独自性は、こうした産地と製法の固有性に裏打ちされている。
歴史を少し遡れば、この産地の主張の重みはいっそう明確になる。十五世紀から十七世紀にかけて、紅海沿岸のモカ港は、世界で唯一のコーヒー輸出港というに等しい地位を占めた。エチオピア高原に自生したコーヒーの灌木は、紅海を渡ってイエメンの段々畑で体系的に栽培され、そこからモカ港を経由して、オスマン帝国へ、エジプトへ、やがてヨーロッパへと運び出された。十七世紀にヨーロッパ各都市で雨後の筍のように開かれたコーヒーハウス——情報と議論と商取引の温床となり、近代的な公共圏の母胎となった、あのコーヒーハウス——に注がれた豆もまた、その多くがモカを経た。コーヒーハウスという社交空間の発明そのものが、イエメンの港を起点とする交易の連鎖の産物であったといってよい。現代のイエメン系カフェが「第三の場所」を提供しているという事実は、四百年の時を隔てた歴史の反復として読むこともできる。社交空間としてのコーヒーハウスは、いま再び、その発生源を名乗る土地の文化から、栄養を汲み上げているのである。
味の話に戻れば、これらの店が体現しているのは、コーヒーという単一の飲料だけではない。ハラズの店頭には、しばしば「新雲抹茶(New Cloud Matchas)」と銘打たれた、富士山型に盛られた抹茶飲料が並ぶ。壁にはイエメンの家屋を描いた絵があり、ショーケースには「ドバイ・チーズケーキ」や「ピスタチオ・ケーキ」といった中東色の濃い菓子が収まる。ここには、近年の飲食をめぐる複数の世界的潮流が交差している。ブランク・ストリート(Blank Street)などが牽引した海外発の抹茶ブーム、ピスタチオとカダイフを用いた「ドバイ・チョコレート」の世界的流行、そして香辛料やナッツを前面に出した「機能性飲料」への関心——イエメン系カフェは、自らの文化的固有性を核としながら、これらの潮流を巧みに取り込んでいる。固有でありながら、同時代的でもある。この二重性こそが、これらの店を単なる民族料理店から、流行の最先端へと押し上げている。
しかし、ここで立ち止まる必要がある。風味の独自性だけで、これほどの増殖は説明できない。世界には独特な風味の飲み物を出す店が無数にある。トルコ・コーヒーも、エチオピアのコーヒー・セレモニーも、ベトナムの練乳コーヒーも、それぞれに濃密な文化的背景を持つ。だが、それらが数年のうちに全米へフランチャイズ展開し、深夜まで若者で賑わうという現象を引き起こしたわけではない。風味は必要条件ではあっても、十分条件ではない。問われるべきは、なぜイエメン・コーヒーという「容れ物」に、これほど大量の社会的需要が流れ込んだのか、である。
第二章 デトロイトから始まった増殖
イエメン系カフェの地理的な震源地は、ニューヨークでもロサンゼルスでもない。ミシガン州デトロイト近郊、とりわけディアボーン(Dearborn)である。この事実は、現象の本質を理解するうえで決定的に重要である。
ディアボーンは、アメリカ有数のアラブ系・ムスリム人口を抱える都市として知られる。その淵源は二十世紀初頭にさかのぼる。自動車産業の勃興期、フォードの工場や五大湖の海運に職を求めて、中東からの第一波の移民が流入した。イエメン出身の男たちの多くは、五大湖の貨物船で働いた。数か月の航海と数週間の休暇を繰り返す生活のなかで、彼らは故郷の家族のもとへ容易には帰れなかった。こうした境遇にあって、コーヒーハウスはきわめて重要な社会的制度として機能した。同郷の者が集い、一つのポットを囲み、言葉を交わす場——それは単なる飲食店ではなく、移民共同体の生活を支える基盤であった。
この歴史的蓄積のうえに、現代のイエメン系カフェ・ブームは立っている。先駆けとなったのはカフワ・ハウスである。創業者イブラヒム・アルハスバニは、イエメンの山中にある一族の農園で収穫された豆を用いてコーヒーを供する店をディアボーンに開いた。彼の言葉を借りれば、その使命は「人々を一つの場所に集め、歴史を分かち合うこと」にある。コーヒーをポットで供するのは、客が一つのポットを共有し、語り合い、それぞれの物語を交換するためだという。
ハラズ・コーヒーハウスは、この潮流のなかでもとりわけ急速な拡大を遂げた一例である。創業者ハムザ・ナセルは、二〇二一年にディアボーンで最初の店を構え(店舗自体の起点を二〇一八年とする記述もあり、フランチャイズ展開の本格化が二〇二一年とされる)、イエメン・コーヒー文化を共有するという理念のもとに事業を組み立てた。ナセル自身はイエメン中部のジュバン地区に生まれ、六歳で家族とともにデトロイト近郊へ移った。父はウェイン州立大学の医学生であった。彼が店を開いた動機の一つは、自身が幼少期に経験したディアボーンの「るつぼ」——イタリア系やポーランド系の移民とも入り混じった多様な街——を再現することにあったという。
ナセルの店をめぐる、ある逸話は示唆に富む。開店当初、カルダモンなどイエメンの香辛料をブレンドしたラテは高い評価を得たが、客から一つの注文がついた。金のフォークを出してほしい、というのである。「金のフォークだぞ。信じられるか。それがディアボーンというものだ」とナセルは笑って語ったという。客たちは、飲み物そのものだけでなく、それが供される様式——上質なカップ、洒落た什器、故郷を思わせる内装、そして遅い営業時間、アラビア音楽、柔らかな照明、子ども連れでも居心地のよい空間——を求めた。ナセルの世代がしたのは、かつてディアボーンのカフェで年配のアラブ系男性が煙草をくゆらせバックギャモンに興じていた光景から喫煙を取り除き、それをスターバックス型の店舗モデルと融合させ、そこにアラブ的な意匠を重ねることであった。
事業の拡大は急であった。ナセルは店をフランチャイズ化し、加盟希望は殺到した。年に千数百件の出店申請が舞い込み、州単位で権利を買い占める起業家まで現れた。注目すべきは、加盟オーナーの全員がイエメン系であるわけではない、という点である。ナセルはこの事実を誇りとした。より多くの人々に、イエメンの人と歴史と伝統を愛してほしいというのが彼の願いだからである。
この拡大を支えたのは、移民共同体に固有の資本のかたちであった。先行して成功を収めたイエメン系の起業家、専門職、医師、技術者たちが、後続の若い世代の出店を、投資家として、また保証人として支えた。血縁と地縁にもとづく信頼の網の目が、銀行融資に代わる資本調達の回路として機能したのである。これは、単独の起業家が孤立して資金を集めるのとはまったく異なる成長の力学である。共同体が共同体に投資し、成功が次の成功を呼び込む——この内発的な循環が、フランチャイズという近代的な事業形態と接続したとき、爆発的な拡大の燃料となった。デトロイト近郊のイエメン系コミュニティは、いわば一つの非公式なベンチャー・エコシステムとして機能していたといってよい。
真正性という資産についても、もう一歩踏み込んでおきたい。現代の消費者が「本物」に惹かれるとき、その「本物」とは、必ずしも歴史的に純粋な伝統を意味しない。むしろ、伝統が現代の文脈のなかで生き直されている、その手触りこそが「本物」として感受される。創業者が自らの工場で飲料の材料を手で配合し、豆は依然としてイエメンの農家から届く——こうした事実の積み重ねが、量産されたチェーンには出せない実在感を生む。だが同時に、その店は金のフォークを出し、富士山型の抹茶を供し、SNS映えする内装を凝らす。純粋な伝統でもなく、無国籍な流行でもなく、その両者の境界線上で振動していること。この振動こそが、現代における真正性の正体である。イエメン系カフェは、この振動を巧みに制御している。
もっとも、拡大の数字をめぐっては慎重さが要る。報道や公式発表を突き合わせると、二〇二五年から二〇二六年にかけて、実際に営業している店舗はおおむね二十から三十あまり、これに対して「契約済み・開発予定」の店舗が百数十から二百近くにのぼる、というのが実態に近い。ナセルが二〇二五年半ばに「世界で五十店舗」を見込むと語ったのは目標値であって、稼働数とは区別されねばならない。署名済みの契約数と稼働店舗数を混同すると、現象の規模を実態以上に膨らませて誤認することになる。ハラズの成長は確かに急だが、それは「契約のパイプラインが分厚い」という意味での急成長であり、すでに全土を覆い尽くしたという意味ではない。
拡大の過程には、固有の困難も伴う。ハラズは、ブランド名の由来であるイエメンの高地から豆を直接調達している。ところが紅海の海運は近年、地政学的な緊張によって遅延と混乱に見舞われている。この供給途絶のリスクに備え、共同フランチャイジーによれば、同社はミシガン州に三年分の豆を備蓄しているという。原産地の風味を保ちながら需要に応え続けるための、いわば兵站である。一杯のカルダモン・コーヒーの背後に、紅海の航路と戦略備蓄という現代的な供給網の問題が横たわっている——この事実もまた、この現象が単なる嗜好の流行ではないことを物語っている。
第三章 アメリカの「夜の空白」
ここからが本題である。風味でも、歴史でも、フランチャイズの巧みさでもない、もう一つの説明変数。それは、アメリカ社会の側にぽっかりと空いた「夜の空白」である。
アメリカの都市生活を経験した者なら、誰もが一度は当惑するだろう。多くの店が午後五時に閉まり、レストランですら午後九時には看板を下ろす。夕刻以降、酒を介さずに、誰かと、あるいは一人で、長く居られる場所が驚くほど少ない。深夜まで開いている店といえば、ファストフード店か、コンビニエンスストアか、ガソリンスタンドの売店か——いずれも長居を前提としない、安価で機能的な空間に限られる。落ち着いて本を読み、仕事を片づけ、友人と語らうための「夜の居場所」は、構造的に欠落している。
この欠落を理解するには、社会学者レイ・オルデンバーグの「サードプレイス(第三の場所)」という概念が有効である。一九八九年の著作『ザ・グレート・グッド・プレイス』においてオルデンバーグは、家庭(第一の場所)でも職場(第二の場所)でもない、人々が気軽に集い、語らう非公式の社交空間を「第三の場所」と名づけた。カフェ、喫茶店、書店、図書館、理髪店、教会、公園、酒場——こうした場こそが共同体生活の錨であり、会話と創造と市民的関与を育む土壌である、と彼は論じた。オルデンバーグはこの第三の場所を、中立的な地、人々を対等にする「平準化装置」、会話を中心に据えた場、誰もが入りやすく居やすい場、常連によって支えられる場、目立たず慎ましい場、遊び心のある場、そして「家庭の外にあるもう一つの家庭」、といった性質によって特徴づけた。
オルデンバーグが警告したのは、こうした第三の場所がアメリカにおいて急速に衰退しつつある、という事態であった。第二次世界大戦が社会にもたらした連帯の効果が過去のものとなって以来、アメリカ人は互いに遠ざかり続けている。生活様式はますます私的で競争的になり、住宅地からは人が集う場所が消えていく。そして、こうした場を欠いたとき、生活は「ばらばらに断片化する」——彼はそう書いた。この診断は、一九八九年の時点ですでに鋭利であったが、その後の数十年で、事態はオルデンバーグの予言を超えて深刻化した。
オルデンバーグが列挙した第三の場所の八つの性質を、いまいちど吟味してみる価値がある。第一に、それは中立的な地でなければならない。誰の所有物でもなく、誰もが自由に出入りでき、義務によって縛られない。第二に、それは人々を対等にする「平準化装置」である。社会的地位や肩書きが入口で脱ぎ捨てられ、客は客として等しく扱われる。第三に、その中心には会話がある。第四に、それは誰もが入りやすく、居やすい。第五に、それは常連によって支えられ、常連の存在が新参者を迎え入れる雰囲気を醸成する。第六に、それは目立たず、慎ましい。気取りや排他性とは無縁である。第七に、その気分は遊び心に満ちている。第八に、それは「家庭の外にあるもう一つの家庭」として、心理的な安らぎを与える。これら八条件を、イエメン系カフェの実態と照らし合わせるとき、その符合の度合いは驚くほど高い。酒場のような排他性も、高級レストランのような格式も、ファストフードのような無機質さもなく、しかし長く居られて、語らえて、常連が育つ——イエメン系カフェは、オルデンバーグが理想として描いた第三の場所の像を、意図せずしてなぞっている。
近年では、この第三の場所論をさらに展開し、デジタル化の進んだ世界における「第四の場所」を構想する議論も現れている。物理的な空間に限らず、没入的な体験や、オンラインとオフラインを横断するコミュニティのなかに、帰属の感覚を再構築しようとする試みである。第三の場所が衰退する一方で、人々が帰属を求める欲求そのものは消えていない。むしろ、満たされぬまま強まっている。その満たされぬ欲求の圧力が、新しい器を探し続けているのだと考えれば、イエメン系カフェの台頭も、より大きな文脈のなかに位置づけられる。
最も権威ある証言は、アメリカ公衆衛生局長官による二〇二三年の勧告である。当時のヴィヴェック・マーシー局長官は、孤独と社会的孤立を公衆衛生上の「流行(エピデミック)」として宣言した。その勧告のなかでとりわけ衝撃を与えたのは、社会的なつながりの欠如が、一日に十五本の喫煙に匹敵するほど健康を害する——肥満や運動不足のよく知られたリスクをすら上回る——という指摘であった。複数の前向き研究の系統的レビューによれば、社会的孤立は死亡リスクを約二十六パーセント、孤独感も同程度、独居は約三十二パーセント高めるという。これらは他の危険因子から独立した効果である。孤独は、もはや個人の心理的な不調の問題ではなく、喫煙や肥満と並ぶ公衆衛生上のリスク因子として、医学の言語で語られるようになった。
数字はさらに具体的である。アメリカ人が対面で友人と過ごす時間は、二〇〇三年には月におよそ三十時間あったものが、二〇二〇年には月およそ十時間にまで減少した。この減少は、とりわけ十五歳から二十四歳の若年層で著しい。そして二〇二四年には、アメリカ人の十七パーセントが「親しい友人が一人もいない」と答えるに至った。オルデンバーグが「第三の場所」という言葉を世に問うた一九九〇年頃、この数値はわずか二・五パーセントであった。三十数年のあいだに、親密な友人を持たない人の割合は、およそ七倍に膨らんだのである。
ここに、需要と供給の致命的な不均衡がある。一方には、家庭でも職場でもない「夜の居場所」を切実に必要とする、孤独に蝕まれた社会がある。他方には、その需要を受け止める器がほとんど存在しない、早じまいのアメリカがある。この空白に、深夜十一時まで——週末には深夜一時まで——煌々と灯りをともし、酒なしで何時間でも居られる店が現れたとき、それが差別化の要因になるのは、むしろ当然のことであった。イエメン系カフェの長時間営業は、単なる営業戦略ではない。それは、構造的な空白への応答である。
第四章 酒を飲まない世代
「夜の居場所」の歴史的な担い手は、長らく酒場であった。バー、パブ、居酒屋——アルコールは、見知らぬ者同士の緊張をほぐし、夜の社交を成立させる潤滑油として機能してきた。ところが、この潤滑油そのものが、若い世代において急速にその役割を失いつつある。これが第二の説明変数である。
アメリカの飲酒文化は、世代を境に劇的に変化している。一九九一年には、十代の半数あまり——五〇・八パーセント——が過去一か月に飲酒したと答えていた。これが二〇二一年には二二・七パーセントにまで低下した。注目すべきは、この変化が世代的なものだという点である。中年層の飲酒習慣はさほど変わらず、五十五歳以上ではむしろ飲酒が増えている。減ったのは若年層だけなのである。各種の調査によれば、Z世代の六割から六割半ばが「飲酒を減らすつもりだ」と答え、この傾向は二〇二六年に入っても続いている。しかも彼らは、年明けの「ドライ・ジャヌアリー」のように一時的に断酒して二月には元に戻る、という従来型の節制とは異なり、持続的な生活様式の変更としてこれを選んでいる。
なぜ、若者は酒を飲まなくなったのか。理由は単一ではない。第一に、健康と幸福への意識の高まりがある。世界保健機関によれば、アルコールは癌や肝疾患を含む二百以上の健康状態に関連する。デジタル時代に育ち、健康情報へのアクセスがかつてなく容易な世代は、こうしたリスクに敏感である。第二に、メンタルヘルスへの関心がある。Z世代は、飲酒が不安や抑うつといった精神的不調と結びつきうることを意識し、より慎重に酒と向き合う。第三に、経済的な要因がある。可処分所得の制約のなかで、週に五十ドルから百ドルを酒に費やすことの合理性が問い直されている。第四に、デジタルの記録性への警戒がある。SNSの常時監視のもとで育った世代は、酩酊下の振る舞いが永久に記録され拡散されうることを知っており、後悔しうる行動に慎重である。
そして、見落としてはならない第五の要因がある。皮肉なことに、若者の飲酒減少それ自体が、対面の社交の減少と相互に絡み合っている、という点である。ある研究者は、アルコールが若者にとっても「社交の薬」である以上、飲酒の減少は対面の社交が減ったことの一つの帰結でもありうる、と指摘する。先に見たとおり、若者が友人と対面で過ごす時間は激減している。社交の場が縮小すれば、その場で消費される酒も減る。逆もまた真である。孤独と禁酒は、同じ社会変動の表裏なのかもしれない。
重要なのは、Z世代が「楽しみ」そのものを放棄したわけではない、ということである。彼らが求めているのは、酒に依存しない社交である。アルコール抜きで成り立つ、つながりと創造性と「いまここ」の充実。事実、酒を出さない「ソバー・バー」——ニューヨークのヘカテ、オースティンのサンズ・バーなど——が各地に現れ、モクテル(ノンアルコール・カクテル)のメニューや、瞑想・ヨガとDJを組み合わせた早朝の「ソフト・クラビング」のような新しい社交形態が広がっている。報告によれば、Z世代はバーをコーヒーハウスに置き換えつつある。ラテとモクテルが、カクテルに取って代わるのである。
経済的な側面も無視できない。酒を飲まないという選択は、健康や倫理の問題であると同時に、家計の問題でもある。週に五十ドルから百ドルを酒に費やせば、年間では二千六百ドルから五千二百ドルに達する。住宅費と学生債務に圧迫された若い世代にとって、この支出を削り、旅行や健康や体験へと振り向けることは、合理的な選択である。一杯数ドルのコーヒーやモクテルは、夜のカクテルよりもはるかに安価でありながら、同じ「外で過ごす夜」を提供する。酒を飲まないことが、節約と社交を両立させる手段になっている。
ここには、社交様式の歴史的な転換が映し出されている。かつて、適度な飲酒は成熟の証であり、洗練の象徴であった。酒を嗜むことは、大人になることと分かちがたく結びついていた。だが、いまや飲酒は、人がくつろぎ、自らの洗練を示すための、数ある選択肢の一つにすぎなくなった。ある専門家が指摘するように、酒は「社交の既定値」の座から滑り落ちた。かつて飲酒が自動的に担っていた役割——夜遊び、デート、仕事帰りの社交、祝祭——のそれぞれにおいて、酒はいまや、ウェルネスや、ゲームや、配信や、ノンアルコール飲料といった、無数の代替肢と競合しなければならない。この既定値の崩壊が空けた席に、酒を出さないカフェが静かに座ったのである。
この文脈に置いたとき、イエメン系カフェの位置づけは一気に鮮明になる。これらの店は、構造的に酒を出さない。イスラム教の戒律にもとづくこの特徴は、かつてはニッチな制約に見えたかもしれない。だが、酒を介さない社交を求める巨大な世代的潮流が立ち上がったとき、それは制約から強みへと反転した。深夜まで開き、酒がなく、長居ができ、しかも単なる味気ない待合所ではなく、洗練された意匠と濃密な文化的背景を備えた場——イエメン系カフェは、Z世代が求める「新しい夜」の条件を、ほとんど偶然のように、しかし完璧に満たしていた。宗教的な禁酒という、本来は事業の制約となりかねなかった条件が、時代の追い風を受けて、最大の競争優位へと転じる——この逆説は、現象の核心にある。
第五章 なぜ「イエメン」でなければならなかったのか
ここまでの議論は、需要の側の説明である。孤独の蔓延、第三の場所の衰退、酒なき世代の台頭——これらは確かに「夜のサードプレイス」への巨大な需要を生んだ。だが、この需要を満たしうる器は、理屈のうえでは何でもよかったはずである。深夜営業のチェーン書店でも、二十四時間の図書館でも、ノンアルコールの社交場でもよかった。にもかかわらず、なぜ、ほかならぬイエメン系カフェがこの空白を占めたのか。供給の側の固有性を問わねばならない。
第一の鍵は、真正性(オーセンティシティ)である。専門家が口を揃えて指摘するのは、現代の消費者、とりわけ若年層が「本物であること」に強く惹かれるという事実である。スペシャルティ・コーヒーの世界でも、エンターテインメントの領域でも、真正さと実在感への希求は高まり続けている。イエメン系カフェは、この希求にまっすぐ応える。豆はイエメンの農家から直接届き、創業者一族の家系図が壁に掲げられ、産地の工芸品が店内を飾る。先述のとおり、コーヒー文化の発生源そのものを名乗るという歴史的正統性まで備えている。これは、量産された均質な体験を提供する既存のチェーンには、容易には模倣しがたい資産である。
第二の鍵は、二つの文化のあいだに立つ世代の存在である。現代のイエメン系カフェを設計しているのは、かつて五大湖の貨物船で働いた移民たちの子孫であり、二つの文化を生きる移民第二世代・第三世代である。ミシガン大学ディアボーン校でアラブ系アメリカ研究を専門とする研究者は、この点に注目する。移民の子どもたちは、伝統的でありながら、きわめて新しく現代的な文脈で消費されるものを楽しんでいる、というのである。中東において、コーヒーは目を覚ますために慌てて流し込む飲み物ではなく、社会的な交換そのものであった。この社交としてのコーヒー文化を、彼らはアメリカの主流文化のただなかへと持ち込んだ。伝統を、現代の器に注ぎ直したのである。
第三の鍵は、もてなしの様式である。金のフォークの逸話が象徴するように、これらの店は単なる飲食の提供を超えた歓待を志向する。ある利用者は、店に足を踏み入れた瞬間に、故郷を思わせる温かな笑顔と心からのもてなしに迎えられたと書く。誕生日の来店に、店員が頼まれもしないのに特別な計らいをしてくれたという証言もある。スターバックス型の効率的で非人格的な取引とは対照的な、人格的で過剰なまでのもてなし。これこそが、孤独な社会において人々が渇望していたものであった。
ここで、本誌がしばしば分析の補助線として用いてきた二つの視座——経路依存と贈与論——を導入したい。この現象は、この二つのレンズを通したとき、いっそう立体的に見えてくる。
経路依存という補助線
なぜデトロイトだったのか。なぜ、いまだったのか。この問いに対して、偶然や個人の才覚だけを答えとするのは浅い。そこには、百年にわたって積み重ねられてきた経路依存の論理が働いている。
二十世紀初頭、自動車産業と五大湖海運がイエメン系移民をデトロイト近郊に呼び寄せた。彼らはコーヒーハウスを共同体の制度として根づかせた。この第一の蓄積があったからこそ、後続の世代は、確立された共同体の支援を受けることができた。先に渡った世代——イエメン系の起業家、専門職、医師、技術者——が、投資家として、若い世代の後ろ盾となった。資本と人脈と文化的ノウハウが、特定の場所に局所的に集積していたのである。
現代のブームは、この集積のうえに花開いた。豆の調達ルート、焙煎と配合の技術、バリスタを養成する学校、フランチャイズを担う起業家層、そして「ディアボーン体験」とでも呼ぶべきブランドの磁場——これらはいずれも、一夜にして生まれたものではない。百年の移民史が敷いた経路のうえを、現代の事業が走っている。ゆえに、この現象はサンフランシスコでもニューヨークでもなく、デトロイト近郊から始まらねばならなかった。経路依存とは、過去の選択が現在の可能性の集合を規定する、という事態を指す。イエメン・コーヒーの増殖は、まさにその教科書的な事例である。
反実仮想的に考えてみるとよい。もしイエメン系移民の集積が、デトロイトではなく、たとえば飲食の新業態が生まれにくい地方の小都市に偏在していたとしたら。あるいは、第一世代が海運や自動車産業ではなく、コーヒーハウスの文化を持ち込まなかった職種に従事していたとしたら。あるいは、先行世代が後続を支える投資家層を形成していなかったとしたら。——いずれの場合も、今日の爆発的な拡大は生じなかっただろう。需要の側に「夜の空白」がどれほど大きく口を開けていても、それを満たす器は、特定の歴史的経路を経た特定の場所からしか生まれえなかった。需要は普遍的でも、供給は徹底して局所的である。この非対称性こそが、なぜ「イエメン」でなければならなかったのかという問いへの、最も深い答えである。
付言すれば、経路依存は祝福であると同時に拘束でもある。イエメン系という出自に根ざした真正性は、強力な資産であると同時に、その出自から自由になれないという制約でもある。次章で見るように、この出自は政治的緊張のなかで標的にもなりうる。過去の経路が現在を可能にすると同時に、現在を縛る——経路依存の両義性は、この事業の未来を考えるうえで、繰り返し立ち返るべき論点である。
贈与論という補助線
もう一つの補助線は、贈与の論理である。一つのポットを囲み、それを分かち合い、物語を交換する——カフワ・ハウスの創業者が語ったこの光景は、市場交換とは異なる原理に属している。
アメリカの主流的な小売・飲食空間を支配しているのは、等価交換の論理である。代金を払い、商品を受け取り、取引は完結する。長居は歓迎されず、回転率が至上の価値となる。午後五時の閉店も、長時間営業がコンビニとファストフードに限られるのも、この等価交換の論理が空間を律しているからである。そこには、関係を持続させる契機が乏しい。
これに対して、もてなしの過剰、ポットの共有、頼まれもしない計らい、家庭の外のもう一つの家庭という自己規定は、贈与の論理に近い。贈与とは、等価の見返りを直ちには求めず、関係そのものを継続させる行為である。受け取った者は、いつか何らかのかたちで返す義務を負い、その返礼がまた次の関係を呼び込む。一杯のコーヒーが、取引の終点ではなく、関係の起点となる。常連が生まれ、共同体が形成されるのは、この贈与的な循環が働くからである。
人類学の古典的な議論を借りれば、贈与には三つの契機が伴うとされる。与える義務、受け取る義務、そして返礼の義務である。ポットを囲んで一杯を分かち合うという行為は、この三契機をきわめて純粋なかたちで体現している。店は客に、商品としてのコーヒー以上のもの——歓待と居場所と物語——を与える。客はそれを受け取り、単なる代金の支払いを超えて、その場の常連となり、雰囲気の担い手となることで返礼する。常連の存在そのものが、次の新参者を迎え入れる温かさを生み、贈与は循環し続ける。等価交換が一回ごとに完結し、関係を残さないのとは対照的に、贈与は関係を堆積させ、共同体という持続的な構造を生成する。移民共同体のコーヒーハウスが、百年にわたって生活を支える制度たりえたのは、それが等価交換の店ではなく、贈与の循環の場であったからにほかならない。
ここで、現代アメリカの孤独の流行を、贈与論の言語で読み直すことができる。等価交換は効率的だが、関係を残さない。市場が生活空間の隅々まで浸透し、あらゆる接触が取引へと還元されていくとき、人々は便利さを得る代わりに、関係の堆積を失う。スーパーマーケットのセルフレジ、アプリで完結する注文、回転率を最大化する座席設計——これらはいずれも、接触から贈与の契機を削ぎ落とし、純粋な等価交換へと純化させる装置である。便利になればなるほど、人は孤独になる。この逆説の核心には、贈与の枯渇がある。
イエメン系カフェが提供しているのは、コーヒーという商品の背後に、贈与の論理に基づく関係の場を埋め込むことである。人々がそこに惹かれるのは、味のためでも、目新しさのためでもなく、市場が枯らしてしまった贈与の回路を、その場が細々と再生しているからだと考えれば、現象の深層に届く。もっとも、商業的なフランチャイズが、贈与の論理をどこまで保持しうるかは、それ自体が一つの問いである。この緊張については、のちに立ち返る。
第六章 カフェという新しい夜——潮流のなかに置く
イエメン系カフェの台頭を、それだけ孤立した現象として見るのは適切でない。同じ時期に、アメリカの都市では、いくつもの関連した潮流が並走している。これらを重ねて見るとき、イエメン・コーヒーの流行が、より大きな地殻変動の一つの露頭であることが見えてくる。
第一に、「カフェの夜化」とでも呼ぶべき現象がある。かつて夜の社交を担ったのは酒場であった。だが、酒なき世代の台頭とともに、夜の重心はカフェへと移りつつある。深夜まで開き、モクテルや機能性飲料を供し、ときにDJを入れる——そうした「夜のカフェ」が、バーやクラブの代替として浮上している。ニューヨークの夜を記録する書き手たちは、イエメン系のカフワ・ハウスやハラズと並んで、ヨーロッパ式の紅茶を出す店、日本式の茶房、中国式の茶館、デザート専門の店などが、深夜十時、十一時、ときに深夜零時まで灯りをともしていることを書き留めている。これらに共通するのは、酒を中心に据えず、明るい照明のもとで、長く居られることである。イエメン系カフェは、この「夜のカフェ」という新しいジャンルの、最も成功した一角を占めている。
第二に、飲料そのものの「機能性」への関心がある。Z世代は、低・無アルコール飲料を選ぶ理由として、カロリーの低さや、プレバイオティクスやビタミンといった機能的便益を挙げる。単に酔わないだけでなく、身体に良いとされる成分を求める。この文脈に置けば、カルダモンやサフラン、ピスタチオといった香辛料・ナッツを効かせたイエメン系の飲料は、「機能性」と「贅沢さ」を同時に満たす商品として読める。伝統的な香辛料は、現代の健康志向の言語に翻訳されたとき、新たな付加価値を帯びる。
第三に、抹茶やドバイ・チョコレートに代表される、非西洋的な飲食文化への関心の高まりがある。コーヒーとエスプレッソを基軸とする西洋的なカフェ文化が成熟し飽和するなかで、消費者の好奇心は、その外側へと向かっている。抹茶は、日本の茶道という文脈から切り離され、世界的な飲料として独立した。ドバイ・チョコレートは、SNSを介して一夜にして世界を席巻した。イエメン・コーヒーもまた、この「非西洋の飲食が世界の主流に躍り出る」という大きな流れのなかにある。そして先述のとおり、イエメン系カフェ自身が、抹茶やピスタチオ菓子を取り込むことで、これらの潮流を一つの店内で束ねている。
第四に、視覚と共有可能性の経済がある。黒と金のカップ、富士山型の抹茶、アラビア文字の壁画、緻密に意匠を凝らした内装——これらはいずれも、写真に撮られ、共有されることを前提とした美学に貫かれている。SNSにおいて、ソバー・キュリアスな生活様式そのものが「映える」ものとして、ある種の憧れの対象となっている。酒に酔う夜ではなく、美しい一杯を囲む夜が、共有可能な価値として流通する。イエメン系カフェの洗練された意匠は、この共有の経済に最適化されている。味わうための一杯であると同時に、見せるための一杯でもある。
これら四つの潮流——カフェの夜化、飲料の機能性、非西洋的飲食への関心、視覚的共有の経済——は、互いに独立しているのではなく、根を同じくしている。いずれも、アルコールを中心とした旧来の社交様式が後退し、健康と真正性と共有可能性を軸とした新しい社交様式が立ち上がりつつあることの、別々の現れである。イエメン系カフェは、この四つの潮流が交わる結節点に立っている。だからこそ、それは一過性の珍奇な流行ではなく、構造的な変化の象徴たりうるのである。
第七章 シャッターの下りたスターバックスを継ぐ者
この潮流の象徴性を、ひときわ鮮やかに照らし出す事実がある。ハラズをはじめとするイエメン系カフェの新規出店のなかには、撤退したスターバックスの跡地を引き継ぐ事例が含まれているのである。
スターバックスは、かつて「サードプレイス」という概念を商業的に体現したブランドであった。家庭でも職場でもない、誰もが居られる第三の場所——その理念を掲げ、世界中に店舗を広げた。ところが近年、同社はこの第三の場所としての性格から後退していると指摘されることが多い。注文の効率化、モバイル受け取りの比重の増大、座席の削減や閉店——理念としての「居場所」は、収益最適化の圧力のもとで痩せ細った。
この後退には、ある種の必然があった。上場企業として四半期ごとの成長を株主に約束する以上、回転率と客単価と店舗あたり収益の最大化は、避けがたい命令となる。長居する客は、一席あたりの収益を押し下げる。会話を中心とした緩慢な滞在は、効率の指標とは相容れない。オルデンバーグが第三の場所の条件として挙げた「目立たず慎ましいこと」「遊び心」「対等であること」は、いずれも測定しにくく、収益化しにくい。グローバル資本の論理が空間を律するとき、第三の場所を成り立たせていた贈与的な要素は、最初に切り詰められる。スターバックスが第三の場所から後退したのは、個別の経営判断の失敗というよりも、上場企業が第三の場所を維持することの構造的な困難の現れであった、と読むこともできる。
その撤退した空間に、共同体に根ざしたもてなしを掲げる新興のカフェが入る。この交代劇は、たんなる不動産の入れ替わり以上の意味を帯びている。等価交換と効率を極限まで追求したグローバル企業が手放した「居場所」を、贈与の論理を残した移民共同体発のブランドが拾い上げる——そこには、アメリカの社会的インフラをめぐる、ある種の象徴的な権力移行が映し出されている。第三の場所という理念を最初に商品化した者が、その理念を体現しきれずに退き、その理念をいまだ文化として保持する者が、空いた器を満たす。この皮肉は、現代アメリカの社交空間が置かれた構造を、これ以上なく雄弁に物語っている。
ただし、ここに先回りして一つの問いを置いておかねばならない。イエメン系カフェ自身もまた、フランチャイズという成長モデルを選んだ以上、いずれスターバックスが直面したのと同じ構造的圧力に晒されるのではないか。共同体の贈与的なもてなしを売りにしながら、全国規模で店舗を増やし、加盟店に収益を約束していくとき、その贈与の論理は、どこまで保たれるのか。今日の新興ブランドが、明日のスターバックスにならない保証はない。この問いは、次章で扱う留保の核心に触れている。
もっとも、この象徴を過度にロマン化することには慎重でありたい。撤退の跡地を引き継ぐのは、たんに賃料の安い空き物件が手に入りやすいという経済合理性の結果でもある。物語に酔うあまり、事実の手触りを失ってはならない。
第八章 この熱狂はどこへ向かうのか——いくつかの留保
現象の構造をここまで描いてきたが、健全な議論のためには、楽観に水を差す留保もまた記しておかねばならない。
第一に、フランチャイズという成長モデルそれ自体のリスクである。署名済みの契約が二百近くにのぼるという数字は、たしかに勢いを示すが、契約と実稼働のあいだには大きな隔たりがある。急速なフランチャイズ拡大は、品質管理の困難、加盟店間の体験のばらつき、過剰出店による共食い、そして撤退の連鎖といった、外食産業に古くからつきまとう陥穽を抱えている。「契約済み」を「展開済み」と読み替える楽観は、いずれ現実によって修正されるだろう。
第二に、原点からの乖離という問題である。ハラズがニューヨークの高級地区ソーホーに出店したのは、ブルックリンやクイーンズの中東系コミュニティの外へと顧客層を広げる戦略であった。これは商業的には合理的だが、共同体に根ざしたもてなしという原点と、不特定多数を相手にする高級立地の商業空間とのあいだには、緊張が生じうる。真正性は、それが大量に複製され、文脈から切り離されて消費されるとき、希薄化する危険を常に孕む。贈与の論理を売りにする店が、等価交換の論理によって全国展開されるという逆説——この緊張をどう御するかが、長期的な成否を分けるだろう。
第三に、政治的・社会的な逆風である。創業者の一人は、近年の中東情勢の緊張のなかで、ムスリムやユダヤ系の人々が身辺の安全に過敏にならざるをえない状況を語っている。自宅周辺に不審者が現れ、買い物をオンラインのみに切り替え、子どもをイスラム学校に移したという証言もある。文化的な真正性が事業の強みである一方で、それは特定の政治的緊張のなかで標的にもなりうる。なお当人は、緊張の高まりのなかでむしろ来客はより多様化し、業績は伸びていると語っており、事態は単純な脅威としては描けない。だが、文化に根ざしたブランドが文化的・政治的な力学から自由でいられないことは、留意されてよい。
第四に、より根本的な問いがある。イエメン系カフェが埋めているのは、あくまで「夜の空白」という症状であって、孤独の流行という病そのものではない。一杯のカルダモン・コーヒーが、断片化した社会を縫い直す万能薬であるはずもない。社会学者が指摘するように、図書館のような公共的な社会インフラは、支払い能力にかかわらず誰にでも開かれた、市場の外側の第三の場所であった。これに対し、商業的なカフェが提供する居場所は、結局のところ代金を払える者にのみ開かれている。流行のカフェが第三の場所の機能を一部代替するとしても、それは公共的な社会インフラの衰退を覆い隠す絆創膏にすぎないのかもしれない。熱狂の祝福と、その限界の認識は、両立させねばならない。
結 どこで夜を過ごすかが、その社会を語る
イエメン系カフェの増殖は、表層的には風味の流行に見える。カルダモンの香り、金と黒のカップ、富士山型をした抹茶、中東の焼き菓子——たしかにそれらは目を引く。だが、本質はそこにはない。
この現象が照らし出しているのは、現代アメリカ社会が抱える「夜の空白」である。家庭でも職場でもない第三の場所が衰退し、孤独が公衆衛生上の流行と宣言され、対面の社交が痩せ細り、その社交を支えてきた酒さえもが若い世代から退いていく——そうした構造的な空白のただなかに、深夜まで灯りをともし、酒なしで人々を迎え入れ、もてなしと共有の論理を残した場が現れた。それがイエメン系カフェであったのは、百年の移民史が敷いた経路と、コーヒー文化の発生源を名乗りうる真正性と、贈与の論理を保持した共同体の蓄積が、たまたまその器に流れ込んだからである。風味は入口にすぎず、人々が本当に求めていたのは、その器が再生する関係の回路であった。
ある社会が、夜をどこで、誰と、どのように過ごすか——それは、その社会が何を失い、何を取り戻そうとしているかを、静かに語る。午後五時に街の灯が消える国で、深夜まで人々が一杯のコーヒーを囲んで語らう場所が切実に求められているという事実は、それ自体が一つの診断である。イエメン・コーヒーの流行は、その診断書の余白に記された、ささやかだが正直な一行なのである。
最後に、視座を転じておきたい。この現象は、太平洋のこちら側に住む者にとって、決して無縁の話ではない。喫茶店という独自の社交文化を育みながら、その多くを失ってきた社会。深夜営業の是非が、働き方や安全や採算の問題として問い直されている社会。そして、孤独や孤立が、やはり静かに進行している社会。——アメリカの「夜の空白」を埋めたのが、百年の移民史に裏打ちされたコミュニティの文化資本であったという事実は、では、われわれの社会において、夜の居場所を、贈与の回路を、第三の場所を、誰が、どのような文化資本をもって担いうるのか、という問いを、鏡のように差し戻してくる。
カルダモンの香りの一杯は、その問いを運んでくる使者である。風味は入口にすぎない。その奥には、人がどこで誰とともに在りたいのかという、きわめて古く、きわめて新しい問いが、湯気とともに立ちのぼっている。
※本稿は公開情報および各種報道にもとづく分析であり、特定の事業者への投資判断を推奨するものではない。店舗数等の数値は時点により変動する。
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