『面(おもて)』第四話 面の声
朝の光が障子を白く照らしていた。
目を覚ますと、聞こえてくるのは鳥の声だけだった。
東京では、朝は音から始まる。
電車。
車。
工事現場。
誰かの足音。
ここでは違った。
静けさが先にあって、その中から一日が始まる。
居間へ行くと、母がお茶を入れていた。
「よく眠れた?」
私は小さくうなずいた。
父はもう仕事へ出ていた。
湯気の立つ湯のみを両手で包む。
湯気の向こうに神棚が見えた。
昨日、手に取った面。
朝の光を受けて、何も変わらずそこにあった。
私はゆっくり立ち上がり、神棚の前へ座った。
手を伸ばせば届く距離。
それでも、すぐには触れられなかった。
ただ見つめていた。
木目の深い黒。
少し擦れた金色。
長い年月、人の手に触れられてきた跡。
祭りの日だけ命を宿すその面は、今は静かに眠っているようだった。
私はふと思った。
この面は、何人の人生を見てきたのだろう。
祖父も。
そのまた祖父も。
もっと昔の誰かも。
嬉しかった日。
悲しかった日。
別れの日。
祭りの日。
何も語らないまま、
ただそこに在り続けてきた。
私は、そっと手を伸ばした。
触れようとして、やめた。
なぜなのか、自分でも分からなかった。
「……。」
もちろん、返事はない。
面は、何も語らなかった。
それでも私は、目をそらすことができなかった。
見つめているうちに、自分の心の声だけが、少しずつ聞こえてくる。
東京で暮らしていた頃には聞こえなかった声だった。
急ぐことばかり考えていた。
前へ進むことばかり考えていた。
立ち止まれば、置いていかれる気がしていた。
けれど今は違う。
静けさの中でしか聞こえないものが、この家にはあった。
私はもう一度、面を見つめた。
外では風が木々を揺らしていた。
神棚の榊が、小さく音を立てる。
その音だけが、部屋に響いていた。
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── 第五話「神楽への道」へ
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