「自分は鬼ではない」と言い切れるだろうか― 『鬼滅の刃』が問いかける人間と社会 ―
一番怖かったのは、鬼ではなかった
『鬼滅の刃』を読んでいて、私が一番怖いと思ったのは鬼ではなかった。鬼よりも「鬼」だった人間である。
弱い者を踏みつける人間。他人の苦しみに無関心な人間。自分の利益のために他者を利用する人間。そんな人間たちが、鬼たちをさらに深い絶望へ追い込んでいく。
この作品は鬼を倒す物語として語られることが多い。しかし、私にはそうは思えない。
この作品が描いているのは、鬼ではない。人間である。

鬼も、柱も、同じ悲劇を背負っていた
鬼は、生まれつき鬼ではない。もともとは家族を愛し、夢を持ち、誰かを大切に思っていた、ごく普通の人間だった。
しかし、病気や貧困、差別、喪失、孤独といった絶望の中で、人として生きる希望を失い、鬼となっていく。
一方、鬼殺隊の柱たちもまた、家族を失い、理不尽な悲劇を経験してきた。
鬼と柱は、悲劇という出発点ではほとんど変わらない。違ったのは、生まれではない。人生の分岐点だった。
絶望の中で鬼舞辻無惨と出会った者は鬼となり、産屋敷耀哉や仲間と出会った者は、人を守る道を歩んだ。
だから『鬼滅の刃』は、善人と悪人を描いた物語ではない。同じ悲劇を経験した人間が、異なる道を歩んだ物語なのである。

鬼は、社会の中で生まれる
鬼を生み出したのは無惨である。それは間違いない。しかし、鬼たちの過去を見ていると、それだけでは説明できない。
彼らは鬼になる前に、すでに人間社会によって深く傷つけられていた。虐待や差別を受け、飢えや貧困に苦しみ、大切な人に裏切られる。そうした絶望が積み重なり、人間として生きる意味を見失ったとき、無惨が現れる。
つまり、無惨が鬼を作ったのではなく、無惨が現れたときには、すでに鬼になる土壌ができていたとも言える。
そう考えると、鬼を生み出したのは無惨だけではない。社会もまた、その一因だったのではないだろうか。
「鬼」とは誰なのか
もちろん、人を喰らう鬼を正当化することはできない。
鬼は倒されなければならない。しかし、『鬼滅の刃』は鬼だけを悪として描いてはいない。
鬼の過去を知るたびに、「もし自分が同じ人生を歩んでいたら、本当に鬼にならなかったと言い切れるだろうか。」そんな問いを読者へ返してくる。
そして、もう一つの問いも浮かぶ。本当に「鬼」と呼ぶべきだったのは、誰だったのだろうか。
この問いは、鬼を正当化するためのものではない。鬼を生み出した人間や社会にも目を向けるための問いなのである。
この問いは、現実社会にも向けられている
この構図は、現実社会にも重なる。
犯罪者も、生まれた瞬間から犯罪者だったわけではない。誰もが子どもとして生まれ、誰かに抱きしめられながら育ってきた。
だからこそ、罪は裁かなければならない。しかし同時に、その人を犯罪者たらしめたものは何だったのかを、社会は考え続けなければならない。
それは犯罪者を擁護するためではない。未来の被害者を減らすためである。
犯罪を裁くことと、犯罪を生み出す背景を考えること。鬼を倒すことと、鬼を生み出す社会を考えること。その二つは、決して矛盾しない。
『鬼滅の刃』が最後に問いかけたもの
『鬼滅の刃』は、鬼退治の物語ではない。人間を描いた物語である。
鬼とは、角が生えた怪物ではない。他者を傷つけ、弱い立場の人を切り捨て、自分の苦しみを他人へ向けてしまう心。その「鬼性」は、人間の中にも存在する。
鬼を倒すことは必要だ。しかし、鬼を生み出す社会が変わらなければ、新たな鬼は生まれ続ける。
それは『鬼滅の刃』の世界だけではない。私たちが生きる社会も同じである。
だから、この作品が最後に読者へ問いかけているのは、「自分は鬼ではない」と言い切れるだろうか、という問いなのだと思う。
その問いに答えを出すのは、作者でも主人公でもない。私たち一人ひとりなのである。
