『虚飾の破片』 第1章:宣告
第1章:宣告
梅雨の湿気を含んだ風が、大津地方裁判所の重い扉を抜けて廊下に澱んでいた。
令和八年六月十八日。午後一時すぎの法廷は、傍聴席まで埋め尽くされている。天井から下がる蛍光灯の白い光が、磨かれた木の床を冷ややかに照らしていた。
大野憲夫は、傍聴席の三列目、通路側の椅子に深く腰を下ろしていた。背もたれに当てた背中が、じっとりと汗ばんでいる。二ボタンのスーツの袖口から覗く指先は、エアコンの冷気に晒されてすっかり冷え切っていた。ポケットの中で、親指の爪を人差し指の腹にしつこく押し当てる。鋭い痛みが脳の隅に走るが、指先の冷たさは消えなかった。
視線の先には、被告人席に立つ男の背中があった。
神谷誠二。
濃紺のスーツを皺ひとつなく着こなし、白いワイシャツの襟元が綺麗に立ち上がっている。白髪の混じった短い髪は、いつも通り完璧に整えられていた。琵琶湖市議会議員として、また旭ヶ丘自治会の理事として、地域を文字通り「動かしてきた」男の背中だ。その肩は微塵も揺れていない。法廷の重苦しい空気を拒絶するように、ただ一本の直線のようになってそこに立っていた。
証言台の向こう側、高い壇上に座る裁判官・徳永陽一が、手元の書類に目を落とした。眼鏡の奥の瞳には、何の感情の動きもない。
徳永が、ゆっくりと顔を上げた。マイクを通した声が、コンクリートの壁に反射して鼓膜を叩く。
「主文。被告人を懲役二年四月に処する」
法廷の空気が、一瞬にして凝固した。
傍聴席の最前列に座る記者が、膝の上のノートに素早くペンを走らせる音がやけに大きく響いた。
大野は息を吸い込もうとしたが、喉の奥が引き攣るように収縮した。乾いた唾液を無理に飲み込む。胃の底に、氷の塊が落とされたような重い冷たさが広がっていくのが分かった。
懲役二年四月。実刑判決だ。
検察の求刑は四年だった。弁護側は「一円の授受もない」と無罪を主張し続けた。その結果が、これだ。
徳永裁判官は、淡々と量刑の理由を読み上げ始めた。
「被告人は、当時、自治会の理事のみならず、市議会議員としても活動しており……」
神谷の背中は、やはり動かなかった。微動だにしない。まるで他人事を聞いているかのように、ただ前方の裁判官を見据えている。
だが、大野は見逃さなかった。神谷の右手の指先が、ズボンのシームのラインに沿って、わずかに小刻みに動いているのを。それは何かを計算しているかのような、あるいは苛立ちを抑え込もうとするかのような、不自然な指の蠢きだった。
大野の視界が、ゆっくりと歪んでいく。
かつて、あの背中は大野にとって「絶対的な正義」だった。地域の陳情を役所に通し、滞っていた自治会の駐車場整備を強力に推し進め、神社の建替をも実現させた。市議会議員という肩書と、圧倒的な行動力。大野のようなしがない引退間近の男にとって、神谷は逆らうことなど考えられない、輝かしい権力の象徴だった。
「だまし取った総額は、九百五万円に及び……極めて卑劣かつ悪質であり……」
裁判官の声が、遠くの波音のように聞こえる。
大野は目を閉じ、額に浮き出た冷たい汗を手の甲で拭った。
どこで、狂ってしまったのだろう。
いや、狂っていたのは最初からだったのだ。自分たちが、神谷という男を都合よく崇め奉り、その闇に目を瞑り続けた結果が、この乾いた法廷の光の下に晒されている。
大野の記憶は、霧を払うように、五年前に引き戻されていった。
すべてが始まった、あの湿った雨の降る初夏の日に。
大野の通帳に「五十五万円」の出金記録が刻まれ、その右横に自分の手で、震える鉛筆で「井戸水質検査代」と書き加えた、あのあの日から。
裁判官が書類を閉じ、法廷に起立を促す声が響いた。
神谷はゆっくりと向き直り、刑務官に促されるままに、法廷の脇にある細い扉へと歩き出した。
すれ違いざま、神谷の視線がほんの一瞬だけ、傍聴席の大野を捉えたように見えた。
その瞳は、凍りついた湖のように平坦で、憎しみも後悔も、何の色も宿していなかった。ただ大野の網膜に、男の冷徹な影だけが焼き付いた。
扉が閉まり、神谷の姿が消える。
大野は立ち上がることができず、周囲の傍聴人がぞろぞろと席を立つ気配を、ただ背中で感じていた。
膝の上に置いた両手が、かすかに震えていた。ポケットから取り出したスマートフォンの画面には、自治会の役員からの着信マークがいくつも光っている。
街を、自治会を、そして自分自身を破滅に導いた五年前の出来事。
大野は立ち上がり、重い足取りで法廷を後にした。廊下の窓から見える琵琶湖の境界線は、鉛色の雲に覆われて、どこまでも曖昧に沈んでいた。
