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作業用BGMを選び続ける夜と火間虫入道(ひまむしにゅうどう)――なぜ私たちは、始める前に灯の油を舐めてしまうのか

こんにちは。民俗学准教授の東条紗季です。

深夜0時。明日までに仕上げなければならない仕事がある。私たちはパソコンの前に座り、まず何をするでしょうか。

作業用BGMを探します。「集中 作業用 90分」で検索し、再生し、10秒で「違う」と感じて別の動画へ移ります。次に、机の上のマグカップの位置が気になって片付けます。ついでに使っていないアプリを整理します。集中力が高まると評判のタイマーアプリを新しく入れ、通知設定を調整します。「今日やること」をノートアプリに書き出し、見出しの色を決めます。

そして気がつくと、午前2時になっています。肝心の書類は、1文字も進んでいません。

これを「怠けていた」と自覚している人は、実はほとんどいません。私たちの主観において、その2時間は準備だったからです。しかし江戸の絵師は、まさにこの2時間に潜むものを、1体の妖怪として描き残していました。


縁の下から現れる、首の長い入道

火間虫入道(ひまむしにゅうどう)。鳥山石燕(とりやま せきえん)の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』(1781年/安永10年刊)に収められた妖怪です。

図には、縁の下から上半身だけを突き出した、異様に首の長い男が描かれています。その男は舌を伸ばし、行燈(あんどん)の油を舐めています。

石燕が添えた解説は、おおよそ次のような内容です。人の生は勤めることにあり、勤めていれば乏しくならない。生きているあいだ何の役にも立たず、うかうかと暇を盗んで一生を送った者は、死してもその霊が「ひまむし夜入道」となり、灯の油を舐めて、人の夜なべ仕事を妨げるのだ、と。

冒頭の言葉は、中国の古典『春秋左氏伝』にある「民生在勤、勤則不匱」(民の生は勤むるに在り、勤むれば則ち匱しからず)の引用です。つまりこの妖怪は、はじめから勤労道徳の教訓として設計されています。

ここで注目していただきたいのは、この妖怪が「他人の仕事を邪魔する」存在だという点です。自分が怠けるのではありません。灯の油を舐め、火を弱らせ、働こうとしている者の手元を暗くする。怠惰は自分の内側にとどまらず、必ずどこかの灯を消しに行く。石燕はそう見立てました。


「間を盗む」という、奇妙な言い回し

私が最も惹かれるのは、解説文にある「うかりうかりと間(ひま)をぬすみて」という表現です。

現代の私たちは、時間について語るとき、たいてい受け身の構文を使います。「通知に時間を奪われた」「アルゴリズムに時間を吸い取られた」。主語は常に外側にあり、私たちは被害者の位置に立ちます。

ところが石燕は、逆に書きました。盗んでいるのは、当人なのです。誰かに奪われたのではなく、自分が自分の人生から、こっそり暇を抜き取っている。

この主語の置き方は、残酷なほど正確です。作業用BGMを選び続けたあの2時間、私たちは何かに奪われていたのでしょうか。おそらく違います。私たちは自ら、着手を先送りするための時間を、自分の持ち時間からそっと抜き取っていた。妖怪の名に「盗む」の含意が組み込まれているのは、そのためです。


落書きから生まれた、怠惰の妖怪

さらに興味深いことに、この妖怪の出自そのものが、暇つぶしと結びついています。

石燕は解説の末尾で、「ひまむし」が訛って「ヘマムシ」と呼ばれるのだと述べています。ヘマムシヨ入道とは、江戸時代に行われた文字絵の遊びです。カタカナの「ヘ」「マ」「ム」「シ」「ヨ」を組み合わせて人の横顔を作り、「入」「道」の2文字を胴体に見立てる。「へのへのもへじ」と同種の、手すさびの落書きでした。

つまり火間虫入道は、退屈しのぎの落書きから立ち上がった、怠惰を戒める妖怪だということになります。暇つぶしから生まれた者が、暇を盗む者を罰しに来る。この入れ子構造は、いささか出来すぎているほどです。

なお妖怪研究家の多田克己は、「火虫」「燈蛾(ひとりむし)」がゴキブリの異名であることを手がかりに、この妖怪の正体を、行燈の油を舐めに来る虫に求める解釈を示しています。台所の暗がりから這い出て、灯明皿の油を舐める虫。それを人の姿に描き直したとき、そこに「怠け者の成れの果て」という物語が与えられた。妖怪とは、しばしばこのようにして生まれます。


私たちの「油」は、何でできているか

行燈の油は、江戸の生活において高価な資源でした。だからこそ、油を盗む怪異の話は各地に伝わっています。石燕は別の画集『今昔画図続百鬼』(1779年/安永8年刊)に「油赤子(あぶらあかご)」も描いており、こちらは近江国大津で地蔵の灯明油を盗み続けた油売りが、死後に怪火となったという伝承(『諸国里人談』などに載る「油盗みの火」)を下敷きにしています。

では、現代の私たちの行燈には、何が注がれているのでしょうか。

  • 電力ではありません。バッテリーは、寝ているあいだに満たされます。

  • 通信量でもありません。翌月には回復します。

減り続け、二度と補充されない油。それは、可処分時間と、注意力です。

作業用BGMを探して10本の動画を再生した夜、私たちが舐め尽くしていたのは、まさにその油でした。しかも私たちは、それを「準備」と呼んでいた。舐めている自覚がないという点において、現代の火間虫入道は、江戸のそれよりも厄介かもしれません。


なぜ、縁の下なのか

最後に、この妖怪が現れる場所について考えておきたいと思います。

火間虫入道は、天井から降りてきません。窓の外から覗き込むのでもありません。縁の下から、つまり家の床下から現れます。

床下は、住人がその上で暮らしていながら、決して目を向けない空間です。外部ではなく、内部の死角。そして石燕の設定に従えば、そこから這い出てくるのは、かつて人間だった者の霊です。

外から来る敵ではないのです。準備という名前をつけて着手を遅らせるとき、その手を引いているのは、私たち自身の足元にいる何かです。着手すれば、自分の実力が露呈します。まだ始めていない限り、私たちは「本気を出せばできる人」でいられる。その居心地のよい薄暗がりを守るために、灯はそっと弱められていく。

今夜、あなたが3本目の作業用BGMを再生しようとしたとき。手を止めて、床下に耳を澄ませてみてください。何かが、あなたの灯の油を舐める音が聞こえるかもしれません。

それでは、また次回の講義でお会いしましょう。

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