母であることと私であること
結婚しても、人生はそんなに変わらなかった。苗字が変わって、フルネームは珍妙な名前になった。奥さんなどというどうにも破廉恥な呼び名で呼ばれるようになった。結婚が決まった一ヶ月後に、海外への引越しが決まって、住む国も変わった。
それでも、私は私のままだった。夫も、夫のままだった。
やたらと天井の高いニューヨークのアパートメントで一人ぼっち。誰も知り合いはいないし、あまりに英語ができなすぎて赤ちゃんに戻ったような気持ちになって滅入ってたけど、やっぱり私は私。どこにも馴染めなくて、いつも不安で不機嫌なただの私。
ニューヨークの春には、桜に似た桜ではない、白い花が咲く。
花も街も違うのに、私はいつだってあまりにも私のままで、うんざりしていた。どこにいようと、何をしようと、私は厄介な私以外のものになり得ない気がしていた。
それから引越しを何度かして、東京で子供を産んだ。子供が生まれたら、人生は変わった。私、というものはいつだって後回し。産後はまた海外に行き、ワンオペ育児だったので、そうしないと生活は回らなかった。
子供中心の生活をして、子供中心の人間関係に飛び込み、子供に関する話題しかない環境に長いこといた。私はお母さんというものになった。お母さん、という子供とセット売りの存在として周りから扱われた。赤ちゃんを連れてると、誰かと新しく知り合っても個人としてどんな人間なのかは、興味を持たれない。母親である、ということ以外の側面は捨て去るのが美徳とされがち。
夫は、あまり変わらなかった。彼には彼の人間関係があり、人生があった。私は急激に変わらざるをえなかったのに、未だ自分の時間だとか自分の交友関係を変わらず保とうとする夫に苛立つことも多かった。
他の男性を見てもよく思ってた。なぜこの人達は、父親になっても頑なに自分を優先できるのだろう。子供を公園に連れて行ったものの、ベンチでスマホ見てるだけの父親であろう男性にイライラすることも多々あった。そういうことしてるの、大体男性じゃない? 見るべきはスマホではなく自分の子供。スマホに夢中で、あなたの子が何やってるか知らないでしょ。滑り台を逆登りしたり、他の子に砂かけてんだわ。事故や事件も怖いし、お願いだから目を離さないでほしい。もちろん、男性全員がそうなのではないし、女性でもそういう人はいるんだろうけれど。
お母さんでいることは、辛いことでもあった。特に出産直後は、衣食住の全てが満足にできない。何事も子供が泣けば中断。中断ばかりで何もやり通せないのが本当にストレスだった。体調は常に悪いし、メンタルも最悪。なのに一人で全部やり遂げなきゃならない。
一方で、お母さんでいることは、救いでもあった。あんなにも誰かから愛され、必要とされる経験は、もうできないと思う。正直、夫が移植が必要な病気になったとき、肝臓やら腎臓やらを提供するかどうかは迷う。でも、子供なら一ミリも迷わない。必要なら心臓でも何でもあげる。自分よりも大切なものができるということは、怖いけれどとても幸福なことだ。
そして、周りからもお母さんとして扱われるのは本当に楽だった。
子育てしてて大変ね。
頑張っていて偉いわね。
自分が望んで産んだのだから、そんな風に褒められたいわけでは決してなかったけど、お母さんでいる限り、自分の人生というものが意味のあるように扱ってもらえる。
結婚してから子供を持つまでが長かったので、子供を持たないことや、欲しいのに持てないかもしれないことへのプレッシャーから解放されたのは大きかった。結婚したら子供を持つべきと口出ししてくる人は滅びろと思うけど、私は子供が欲しい側だったから、やはり外野から言われると気にはなった。うちは長らく、夫が子供を持つことに否定的だったのよね。病気まではいかないけど私はもともと婦人科系に自信はない上、確実に歳を取りゆくのに、子供を持つのはもっと後でいいじゃない、と夫から言われるのはきつかった。そういうのにお構いなく、外野は口出してくるよね。それ、私じゃなくて夫に言ってくださいと言ったってみんな聞いちゃくれないから、苦笑いしかできなかった。
私は望んでお母さんになった。お母さんでいることは、つらくはあるけど、楽でもあった。とても充実していて幸福だった。ただ、お母さんでいる間に、私がどんな人間だったかをかなり忘れた。
子供が行きたいところ、子供が食べたいもの、子供が好きなもの。子供を軸にして暮らしていたら、自分が何が好きで何を食べたくてどこに行きたいのかよくわからなくなっていた。もちろん、子供がいなかったら行けなかった場所や、知らなかったこと、できなかったことはたくさんあったけど、あまりにも自分のことを放置しすぎた。
子供の手が離れてきた頃、ちょっとまずいぞ、と思った。あんまり依存しすぎると、後が怖い。子供は大切だけれど、別の人間だ。
子供には子供の人生があり、失敗も成功も喜びも悲しみも、全部子供のものだ。心から子の幸せは願うけれど、子供に幸せにしてもらおうとしてしまうのはまずい。子供の夢は私の夢ではないことを忘れてはならない。そうしないと私の重みで子供を潰してしまう。
子供を世界の全てにしてはいけない。人生の目的にしてはいけない。心の穴は、自分で埋めなきゃいけない。
お母さんじゃない自分を、取り戻さないといけない。
でも私って、どんな人だっけ?
長年放置してきた私、というものはボロボロだった。育ち方が良くなくて、心が歪みまくっていたのに、それに気がついてもいなくて、ただただ苦しかった。人を傷つけてもきた。今まで子供とセットだったことでなんとか生きてこられたけど、子供を引き剥がしてみるとまあ、問題がありまくり。
noteをはじめて、文を書くことは癒しになると感じた。自分がどんな人間で、どんなものが好きで、何がしたいのか。私はここで自分を取り戻す活動をしているように思う。子供を産む前の自分に戻るのではなくて、今現在の自分を、そんなに歪んでない状態で取り戻したい。
書かなきゃ死んじゃうタイプではないけど、文章を書くのは好きだし全く苦にならない。昔から、自分はあんまり好きになれなかったけど、自分の書く文章はわりと好きだった。上手い下手ではなくて、好みの問題。
書きたいのは、自分の心が動いたこと。下らなくても下品でも見苦しくてもわけがわからなくても、私にしか書けないことが書きたい。子育て関連も書くけど、書きたいのは私のこと。子育てを通して私が感じたり考えたことだけ。こうして世界中の人が読めるところに置くのだから、誰かには読んでほしい。でも、三人くらいでいいや。私は単純に書きたいのだと思う。書くことは楽しい。
これからも変わらず、私は子供のお母さんだけれど、徐々にただの私でいる時間を増やしている最中だ。
これからの時間は、私が私であることを愛せるようになりたい。一人でも、心がグラグラしないようになりたい。
そうしないとうまく、子供のことも、他の人のことも愛せないように思う。
今住んでいる国には桜も、桜に似た花もきっと咲かない。それでも木には花が咲く。暑い国に咲く見慣れぬ花を一人で見上げるのは、不安でも不機嫌でもない、わりと楽しそうな私であればいいと思う。
