配慮って、どこまでが優しさなんだろう
「あの人には、これ頼まないでおこうか」——そんな小さな一言が、職場の空気をほんの少しだけ変えてしまうことがある。
最近、ニュースで連日取り上げられている、あの二人の話題。詳しい事情は当人たちにしかわからないし、正直、どちらが悪いのか、外側にいる私には判断できない。ただ、画面越しに眺めながら、ふと思った。
これって、遠い世界の話じゃないな、と。
私の職場にも、配慮が必要な人がいる。体調のこともあって、対人の仕事はなるべく避けるように、という取り決めになっている。それ自体は、必要なことだと思う。しんどい人に無理をさせて、倒れてしまうよりずっといい。
でも、現実はもう少し複雑だ。
その人が担当しない分の仕事は、消えてなくなるわけではなくて、周りの誰かが引き受けることになる。窓口対応、電話、クレームの一次受け。「じゃあ私がやりますね」と手を挙げる人は、たいてい同じ顔ぶれになっていく。そしてその人には、代わりに"そうではない仕事"が割り振られる。
誰も悪くない。本当に、誰も悪くないのだ。配慮される側は望んでそうなったわけじゃないし、引き受ける側も、別に恩を着せたいわけじゃない。それなのに、休憩室の空気がちょっとだけ重くなる瞬間がある。「大変だよね」と言いかけて、飲み込む。本人のいないところで話すのは陰口みたいで嫌だし、本人の前で話すのは責めているみたいで、もっと嫌だ。
高瀬隼子さんの小説『おいしいごはんが食べられますように』が話題になったとき、多くの人が「わかる」と言ったのは、たぶんこういう感覚なんだと思う。あの物語で起きていることと、私の職場で起きていることは違う。ニュースの二人の件とも違う。
でも、根っこのところには、よく似たものが流れている気がする。
「弱さに配慮すること」と「その配慮を引き受ける人の疲れ」が、どちらも本物であるということ。そして、そのふたつを天秤にかける会話が、なかなかできないということ。
配慮は、優しさだ。それは間違いない。でも、配慮"だけ"を優先しすぎると、今度は別の場所に不和が生まれる。引き受ける側の負担が言葉にされないまま積もっていくと、いつのまにか、腫れ物に触るような空気ができあがる。
話しかけるときに一瞬ためらう。
仕事を振るときに変に気をつかう。
その「気をつかわれている感じ」は、たぶん配慮される側にも伝わっていて、お互いにちょっとずつ息苦しい。
夏目漱石の『草枕』は、こんな一文で始まる。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。
百年以上前の言葉なのに、うちの職場のことを書かれているのかと思った。理屈で「不公平では」と言えば角が立つ。
情に流されて全部引き受ければ、自分がすり減る。
「私だって大変なんです」と意地を通せば、窮屈になる。
ほんとうに、人の世は住みにくい。
でも最近、少しだけ思うのだ。住みにくいのは、「配慮があるから」ではなくて、「配慮について話せないから」なんじゃないか、と。
配慮って、一度決めたら終わり、ではないのかもしれない。
「今のやり方、どう?」
「ここはちょっとしんどい」
「じゃあ、こうしてみようか」
そういうすり合わせを、面倒がらずに、責めずに、何度でもやり直せること。行き過ぎた主張も、我慢しすぎた沈黙も、どこかで一度テーブルの上に出して、ちょうどいい場所を探し直せること。それができる職場は、たぶん、配慮のある職場よりもっといい、「話せる職場」なんだと思う。
……と、偉そうに書いたけれど、私自身は言えていない。
だから、これは自分への宿題みたいなものだ。
もし、あなたの職場にも似たような空気があるなら、無理に解決しようとしなくていいから、まずは信頼できる誰かと「ね、ちょっと難しいよね」と言い合えるだけでいいんじゃないかと思う。言葉にした瞬間、腫れ物は腫れ物じゃなくなって、ただの「みんなで考えること」になる。
今日も一日、おつかれさまでした。
あなたも、おいしいごはんを食べられていますように。
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