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認知行動療法の実践⑧フランシス子へ

 誰かが、何かが、ぼくたちのなかに埋まっている糸に触れにやって来る。その糸は人間以外のもの、たとえば神や仏であってもいいわけである。滝沢克己さんや親鸞は、そんなふうにして神仏と出会っているように見える。
 滝沢さんが神と人の関係性としてあげる「不可同・不可分・不可逆」にしても、まさにぼくたちが生涯において出会う「大切なその人」の関係性と同じである。師であるカール・バルトとの往復書簡(なんと34年もつづいた!)のなかで、彼は「神と人との関係をインマヌエルとして直覚したとき、まだ聖書を読んだことはなかった」と述べている。たしかにそうだろう。神は彼にとって神以前に、思わず昵懇の仲になってしまった「その人」だからである。
 親鸞の場合も同様である。彼にとって仏は対座して向き合うものではなく、「不可同・不可分・不可逆」な関係にある「大切なその人」である。「自然法爾」とはそういうことだろうる。この道理を理屈で言うことはできない。理屈で言えないから、中島みゆきは歌にしたのである。「縦の糸はあなた、横の糸はわたし。出逢うべき糸に、めぐり逢えることを、人は仕合せと呼びます。」そのとおりではないか。
 生前、滝沢さんは「私の哲学には死への言及がないと言って批判される」とこぼしていたそうだ。もっともなことである。彼と神の関係は、直接的に「性」であり、「性」のなかではおのずと死は消えるからである。
 
《もう、この猫とはあの世でもいっしょだという気持ちになった。この猫とはおんなじだな。きっと僕があの世に行っても、僕のそばを離れないで、浜辺なんかで一緒に遊んでいるんだろうなあって。》(吉本隆明『フランシス子へ』)                             
 
 どうやら吉本さんにとって横の糸はフランシス子という名前の猫だったようだ。「不可同・不可分・不可逆」という関係性としてある「性」が、生の果てにある死に囚われている「自己」をやわらかく包み込むとき、実質的に死は消えている。死は「死」という言葉だけのものになっている。実質は「この猫とはあの世でもいっしょだという気持ち」のほうにある。

・死を治したければ、死を治そうとしてはいけない。
・「死」という言葉は、死とは関係ない。
・死はなくそうと思わずに、別にあってもいいから「心地よさ」「いい気分」を求める。
 
 親鸞にとっての仏、滝沢克己にとっての神、吉本隆明にとってのフランシス子。三者三様、見事に死にたいする認知行動療法を実践したと言える。
                                                                     この項、了。

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