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認知行動療法の実践⑦有縁は有情に先立つ

 ぼくたちが当たり前のように生きている「自分」というものは、どこか与り知らないところからもたらされるものらしい。自分が自分である根拠は、自分のなかにはない。引きつづき、中島みゆきさんの歌の歌詞を使わせてもらえば、誰のなかにも目に見えない糸が埋め込まれていて、この糸が別の糸と出会って織りなされたところに「私」が生まれる。
 この糸のことを「縁」と言ってもいいのではないだろうか。人間のなかには目に見えない「縁」が埋まっている。その「縁」に誰かが、何かが触れた途端、「きみは生きろ」や「私の一生はつまらぬ一生だった」が出現する。同時に、「きみは生きろ」や「私の一生はつまらぬ一生だった」と言っている「自分」が生まれる。
 目に見えない糸のなかに棲まうのは、あらかじめ名指すことはできないけれど、結果的に「ローズ」とか「茂平治」といった固有名をもつ他者である。しかも「きみは生きろ」や「私の一生はつまらぬ一生だった」をもたらす味わい深い他者である。この他者のあり方は、まさに「不可同・不可分・不可逆」である。まず他者だから不可同、目に見えない糸として埋め込まれているから不可分、さらに先後・主客の関係において不可逆。すると「インマニエル」とか「神はわれらと共なり」とか言わなくても、「誰のなかにも大切な人が棲まっている」と言えばいいことになる。
 
<親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念佛まうしたること、いまださふらはず。そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に佛になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念佛を廻向して父母をもたすけさふらはめ。たゞ自力をすてて、いそぎ浄土をさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと、云々。>(『歎異抄』)
 
 バガボンド同士の出会いである有縁は、親子や家族といった有情に先立つ、と親鸞は言っているように見える。真意は違うかもしれない。しかしバガボンド同士の出会いが他力であり、そうして出会った他者とのあいだに有情が生まれるということは、ほとんど還相廻向みたいなものではないだろうか。有縁は有情に先立ち、有情のなかにはいつでも目に見えない有縁が埋まっている。だから子が親を選んで生まれてくるという感覚や、時間の壁が消えた「魂の場所」のようなものが可能になるのではないだろうか。

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