『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

J・D・サリンジャー、
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳)。


むかし、学校の図書室で『ライ麦畑でつかまえて』のほうを手に取ったことがある。分厚いわけでもないのに、なぜかやけに気難しそうな顔をした小説で、少女だった私には、その乱暴さも過剰なイライラも気だるさもどうにも受け付けず、物語の核心部分までたどり着くことなく本を閉じた。


ということで、今回は村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で読み直し。以前の野崎孝訳とは訳文の印象がかなり異なるものの、相変わらず、ホールデン・コールフィールドは、のらりくらりとしながらもひどく苛立っている。やたらと傍点が打たれ、強調を何度も繰り返すその姿は、思春期そのもの。

人を「フォニー(偽物)」と呼び、些細なことにも悪態をつき狭い世界に喧嘩を売っている。大人の偽善を嫌い、子どもたちもそこへ落ちていくことを恐れている。その一方で、自分がどこへ行けばいいのかは分からない。

そんな彼が夢見るのは、ライ麦畑で遊ぶ子どもたちが崖から落ちそうになったとき、そこに立って捕まえる「キャッチャー」になることだった。



大きな問題を抱えている本人にとっては、世界が終わるほどの数日間なのだろう。物語の外側から眺めれば、それは『青春』という明るい言葉に収まる、人生のなかの一つの時期にすぎない。だが、その渦中にいる本人にとっては、ほんの数日をやり過ごすことさえ途方もないことがある。

長い月日を経て、今度こそ辿り着いたラストには、それまで散々聞かされてきた『やれやれ感』さえ違って聞こえてくる。苛立ちながらもどこか飄々としていたその語りが、今ではこの少年の照れ隠しのようにも思え、ホッとした。

奇しくも、今回、図書館を検索すると見つけたのは「ティーンの棚」。こんな乱暴な本がここでいいのかと不安を覚えながら持ち帰り、それを帰省した自宅の、少女趣味の残る部屋のベッドで読む。これもまた、エモくていいよね。


最後に、アントリーニ先生がシュテーケルの言葉として渡す一節を。

『未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ』

p.319

名作は語りすぎないのが美学かな、と。
では、ここまでで。

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