『台北人』

次に桂花が香ったら、あの場所を思い出したい。

白先勇『台北人』。
中国本土を離れ、台湾で暮らすことになった人々の、その後の人生を描いた短編集。

歴史や時代背景に意識を向けていたせいで、登場人物たちが抱える複雑さは、戦争や迫害、喪失によるものなのだろうと最初から思い込んでいた。

当初は、作中に現れる読めない字や慣れない歌、慣用句のひとつひとつに戸惑い、それらを遠い異文化の情景として眺めることしかできなかった。しかし次第に、それらこそが彼らの愛した世界の残滓であると気づきはじめ、視界に映る景色が色を変えていった。

そして、その美しさが彼らにとっては二度と戻れない「失楽園」であるということには、読み終えてからようやく胸に落ちた。

彼らは台北で暮らしている。けれど、心は故郷を離れない。台北人として生きながら、台北人にはなりきれない。その宙吊りの人生は苦しいはずなのに、この短編集から強く伝わってくるのは、苦悩や喪失よりも、故郷へ静かに想いを馳せ続ける姿の美しさばかりだったように思う。

家族、故郷、言葉、料理、音楽、習慣、風習。

失われたものを手放さず、記憶の中で何度も抱きしめ直す。行き場を失った忠誠心の行方は、国ではなく家族や育った土地や風習なのだろう。
それは、もう故郷へ帰ることがなくとも方言をやめない母の姿を思い出させた。

表紙いっぱいに描かれた桂花(金木犀)の花々は、故郷を思う人の数だけ、記憶の中の故郷が美しく咲き続けることを象徴しているように見える。

この短編集が描き出したのは、歴史の事実ではなく、ある時代を愛し続けた人々の、終わらない哀悼の物語だったのだと思う。

最後に、訳者あとがきにあった一文を。

白先勇の言葉を借りるなら、本作は「死にゆく者たちに挽歌を口ずさみ、生きていく者たちに賛歌を歌い上げる」小説である。

p.289

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