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石を投げる正義と、傷つけられた人を黙らせる正義──「あなたにも原因がある」と言いたくなる『ヨブ記』の世界──

数百万円を強盗に奪われた人がいたら、たいていの人はその人に同情すると思います。

火事や地震で、数百万円相当の財産を失った人がいたら、「大変だったね」と声をかけるでしょう。

犯罪被害であれば、加害者に憤る人もいるでしょう。


では、同じ数百万円を失っても、ほとんど同情されないどころか、むしろ嘲笑される人がいるとしたら。

その違いはいったい何なのでしょうか。


私はこの二年半、そのことを常に突き付けられる現実と戦ってきました。

私に生じたのは、数百万円規模の逸失利益だけではありません。

  • 根拠もなく逮捕されるべき人間だと拡散され、

  • 危険人物とのレッテルを貼られ、

  • 休業を余儀なくされ、

  • 計画していた整体教室の開催を妨害され、

  • ストレスから心身の健康を害し、

  • 顧客から預かった写真は中傷の材料として晒し者にされ、

  • ホームページ閉鎖や十年分のブログ記事の削除に追い込まれ、

  • 中傷や顧客写真の削除のために法的手続きを取らざるを得なくなり、

  • 裁判や開示請求に時間と費用と労力を費やしました。

平凡な毎日はほぼ破壊し尽くされました。

数百万円というのは贅沢するためのお金ではなく、子どもたちを大学に行かせるために、我が家にとって切実に必要なお金でした。


けれど、私を批判していた人たちの世界では、長いあいだ、それは「被害」として認識されていませんでした。

なぜなら、その前にすでに、

「違法なことをしている整体師」
「厚労省通知に反して側弯症患者に施術している人」
「患者に危険なことをしている人」

という物語が共有されていたからです。


その人たちにとっては、私に起きていることは「被害」ではありません。

悪いことをした人間が受けるべき「当然の報い」として扱われていました。

けれど、ここにはひとつ、大きな飛躍があります。



■仮に私が違法だったとしても


私は二年半前に炎上が起きた当初から、何度も同じことを言ってきました。

「私の行為が違法だと思うのであれば、公的機関へ通報してください」
「行政や警察などの、公的な判断に委ねてください」
「日本は法治国家であり、市民が勝手に人を処罰する権利はありません」


これは、私の施術が適法だったか違法だったかという問題とは別で、問われるべき問題です。

仮に私が本当に何らかの法律に違反していたとしても、一市民に私を処罰する権限があるわけではありません。

まして、

  • 本人や顧客の写真を使って晒すこと。

  • 集団で嘲笑すること。

  • 犯罪者のように扱うこと。

  • 「逮捕される」「覚悟しろ」とメッセージを送りつけること。

  • 営業が続けられなくなるまで大勢で攻撃すること。

  • その結果として大きな経済的損失が生じること。

  • それらの損害を「自業自得だ」と扱うこと。

それらが許されるわけではありません。


「この人は違法ではないか」と疑ったとしても、

「だから自分たちがこの人を罰してよい」と考えるのは論理の飛躍です。

けれどSNSでは、その一線を簡単に踏み越えてしまいます。

そこでは、「この人は悪い人だ」という合意さえできればいいのです。


誰かが一つ投稿する。
誰かが一枚写真を拡散する。
誰かが一言嘲笑する。
誰かがそれをいいね・リポストする。

一人ひとりは小さな石をひとつ投げただけのつもりでも、

何百何千もの石をぶつけられる人間は一人です。

一人ひとりは、自分が誰かを傷つけたとも、その人の生活を壊したとも思わないでしょう。

でも、投げられる側には、それら全てが傷として積み上がるのです。


私は石を投げられなければならないようなことは何もしていません。

けれど、その論点とは別の問題として、

法治国家の日本で、その人が違法か合法かの判断を一般市民が勝手に行い、公的機関の判断を待たずに石を投げることは本来許されないことです。



■「でも10万円しか取れていませんよね」


そして二年半の戦いの末、私は民事訴訟で和解しました。

被告は謝罪し、投稿を削除し、今後同様の投稿その他私を誹謗中傷する投稿を行わないことを約束し、解決金を払うことに同意しました。

私が最も取り戻したかった顧客写真も、すべて削除されました。

私が裁判で求めていたのは、自分の整体を裁判所に認めてもらうことではなく、中傷を止め、投稿、とりわけ顧客写真を削除させることでした。

その目的は果たせました。


ところが、和解報告を公開すると、今度は鍼灸師・あん摩マッサージ師からこんな言葉が浴びせられました。

  • 「数百万円の逸失利益と言っているのに、和解金はたった10万円」

  • 「被告は10万円と投稿削除で済んだとも言える」

  • 「施術の適法性は認められていない」

こうした投稿は、短期間で8千回以上閲覧されました。


数百万円規模の損失を受けた人間に対して、

「それだけの損害があったのなら大変だったでしょう」ではなく、

「でも10万円しか取れなかった」という言葉が浴びせられる。


もし強盗被害者に、

「数百万円盗まれたっていうけど、
犯人から10万円しか取り返せなかったなら、
大した被害じゃなかったんだね」

と言えば、かなり奇妙に聞こえるでしょう。


ところが、私をあらかじめ「悪い人」と分類していると、同じことが成立してしまう。

ここで10万円という数字は、被害額を測る数字ではなく、

「この人をまだ被害者として扱わなくていい」

という根拠として使われているように、私には見えました。



■私が被害者であることを許さない構造


そこでは、一つの構造が浮かび上がってきます。

炎上当初、私は、

「悪いことをしているのだから、これは被害ではなく当然の制裁だ」

と思われていました。


ところが、法的手続きを経て、少なくとも、私に対して何をしても許されるとは言えない形で終わると、今度は、

10万円しか救済されていないことを根拠に、それまでの私的制裁の正当性を保とうとする。


表現は違っても、結果として向かう先は同じです。

「この人には同情しなくてよい」
「この人はこのような目に遭うだけの悪いことをした」
「当然の報いを受けているだけで、被害者ではない」

まるで、私が被害者である資格を剥奪しようとしているかのようです。


私に一度「悪い人」のレッテルを貼れば、私にも普通の市民と同じように、

  • 守らなければならない家族や生活があること。

  • 傷つけられない権利があること。

  • 財産や仕事や生活を守る権利があること。

  • 名誉を傷つけられたら怒る権利があること。

  • 被害を受けたら、その被害について語る権利があること。

そういう当たり前のものまで、見えなくなってしまうのです。



■そして、被害を語ることを許さない構造


けれど、この二年半、私を黙らせようとした力はそれだけではありません。

もう一つ、まったく違う方向から働く力がありました。

それは、

「石を投げられる側にも、投げられるに値する問題があった」

と考える力です。


宗教的な言葉なら「因果応報」。

心理学では、「公正世界仮説」と呼ばれる考え方です。

スピリチュアルの世界なら、

  • 「波動が低かった」

  • 「自分で引き寄せた」

  • 「カルマだった」

  • 「魂の学びのためだった」

と表現されることもあります。


この世界観のもとでは、被害を語る人には、

  • 「いつまで被害者でいるの?」

  • 「被害者意識を手放したほうがいい」

  • 「その考え方が加害を引き寄せたのです」

という言葉が向けられます。


これは、先ほどの「悪人を罰する正義」とは正反対に見えます。

一方は正義と悪をはっきり分け、悪人とみなした人間を公的機関に委ねることなく勝手に叩く。

もう一方は善悪を超越したような顔をして、すべての出来事には意味があり、人はその報いを受けていると語り、

苦しみを乗り越えるためには、被害を手放せと言う。

でも、石を投げられている側から見ると、奇妙なことに、この二つは同じ方向へ働きます。


一方は「あなたには石を投げてもよい」と言う。

もう一方は「石を投げられた被害をいつまでも語ってはいけない」と言う。

石を投げられている最中には、「あなたにも原因がある」と言われ、

ようやく石が止まったあとには、「いつまで被害を語っているの」と言われる。


これは、石を投げた人の自由を認め、その行為の是非を問わせない構造として働きます。

投げた側には「正義」があり、

傍観者は「投げられた人が招いたことだ」と説明する。


投げられた人だけが、

  • 怒るな

  • 恨むな

  • 被害を語るな

  • 手放せ

  • 前を向け

  • 学びに変えろ

と、沈黙を求められるのです。



■私自身も、その力を恐れていた


実を言えば、私はこの記事を書くこと自体をためらいました。

こんなことを書いたら、

「まだ被害者意識を手放せていない」
「せっかく和解成立したのに、まだその話題にとどまるの?」

と言われるのがオチだと思ったからです。


そこまで思い至って、少しぞっとしました。

裁判の被告からは謝罪を得て、訴訟は終わりました。

少なくとも、二年半続いた被告との法的な争いには区切りがついています。


それなのに、

「被害を語ったら、被害者意識に囚われていると言われるかもしれない」

という予感が、私の筆を止めようとしたのです。

それは、外から口を塞がなくても、被害を受けた者の内面に、検閲官が住み始めていることを自覚させられた瞬間でした。

これは、フーコーの語っているパノプティコン構造そのものです。


こんな記事を書いたら、

「石を投げられたのは、あなた側にも原因がある」
「そんな考え方だから被害を招いたのだ」
「いつまでも被害を語るな。前を向け」

と言われるのではないか、と無意識に自分で自分の口を塞ごうとしてしまう。

自分のその心理に気付いたからこそ、私は今回、その構造から降りることにしました。



■私は「前に進めなかった」のではなく、語ることを封じられていた


ここでもう一つ、はっきり書いておきたいことがあります。

この二年半、傍から見れば、私は自由に思想を語ってきたように見えたかもしれません。

しかし、実際には、私が語れることはかなり限定されていました。

この二年半、私は自分の整体師としての経験も、整体の手法を文化人類学的考察に接続することも、炎上から裁判までの経緯も、自分の人生でありながら、ほぼ語ることができませんでした。

なぜなら、語れば、さらに攻撃されたからです。


私が整体にまつわる記事を書くたびに、それが新たな嘲笑の材料になり、そこに顧客の写真が使われました。

私一人が攻撃されるだけなら、まだ言い返すこともできたかもしれません。

しかし、私が発言するたびに再度顧客まで巻き込まれ、写真を削除させるためには、また法的対応を取らざるを得なくなる状況でした。

顧客写真が、事実上、私の発言を封じるための人質のように機能していたのです。

そのため私は、自分が何を語るかを、自分一人の問題として決める自由を奪われていました。

発言すれば現実に顧客に対する報復が起きるというこの構造は、私にとって事実上の言論弾圧として機能していました。


つまり私が和解によって取り戻したのは、自分のことを自分の言葉で語れる自由です。

だから、私にとってこの二年半の戦いは、「過去に囚われていた」「相手に謝罪を求め続けていた」というようなものではありませんでした。

顧客写真が事実上の人質として機能し、私の言論の自由まで奪われるという異常な状態を終わらせ、自分の発言の自由を取り戻そうとしていたのです。



■被害を分析することは、被害者であり続けることではない


自分の受けた被害について分析することと、「被害者」という一つのアイデンティティに人生全部を閉じ込めることは、同じではありません。

  • 不当なことをされたなら、「不当だった」と言っていい。

  • 傷つけられたなら、「傷つけられた」と言っていい。

  • 何が起きたのかを記録してもいい。

  • なぜこんなことが起きたのかを分析してもいい。

それは、その出来事から抜け出せていないことを意味しません。


もちろん、被害を受けた人が、その被害だけを人生の中心に据え、

いつまでも謝罪や償いを求め続けることにこだわったり、

恨みや憎しみに囚われ続けたり、

自分の人生の大部分を、加害者のことを考え続ける時間に費やす必要はないと、私も思います。

けれど、「前を向くこと」と「起きたことを語らないこと」は同じではありません。


出来事を記録し、その構造を分析し、不当だったことを不当だったと語ることまで「被害者意識」と呼ぶなら、

増え続けるSNS中傷被害からどう被害者を守るかという問題を、当事者目線で議論することさえできなくなります。

そのとき、「被害者意識に囚われるな」という言葉は、回復を促す言葉ではなく、被害者を沈黙させる圧力に変わります。

しかし、自分に起きた出来事を自分の言葉で語り直すことは、受け身の生き方なのではなく、主体性を取り戻す行為であるはずです。



■ヨブの友人たちは、なぜヨブを責めたのか


旧約聖書の『ヨブ記』には、何の落ち度もない一人の義人が登場します。

ヨブは「潔白で正しく、神を畏れ、悪を避けていた」人物として描かれています。

ところが、そのヨブに次々と災いが襲いかかります。

財産を失い、子どもたちを失い、自らも病に苦しむことになります。


そこへ友人たちがやってきます。

最初、友人たちはヨブのあまりの苦しみを目の当たりにして絶句し、七日七晩、何も言わずにそばに座っていました。

けれどヨブが口を開き、「自分はこんな苦しみを受けるようなことは何もしていない」と訴え始めると、友人たちは次第にヨブを説得しようとします。

  • 「そんなはずはない」

  • 「神は正しい」

  • 「正しい世界で、理由もなく正しい人がこれほど苦しむはずがない」

  • 「ならば、ヨブ自身に何か原因があるはずだ」

  • 「何か罪を犯したのではないか」

  • 「自分でも気づいていない過ちがあるのではないか」

  • 「悔い改めれば、神は再びあなたを祝福してくれるのではないか」


友人たちは単に「苦しんでいる人に説教する嫌な人たち」ではありません。

おそらく友人たちなりに、ヨブを立ち直らせたいと思ったのでしょう。

だから、ヨブがどこを改めればよいかを指摘してあげようとしたのです。


しかしそれだけではなく、友人たちは、ヨブという存在そのものの扱いに困っていたのではないでしょうか。

何の落ち度もない人間に、理由もなく災いが降りかかるはずがない。

そんな例外が一人でも存在してしまえば、「世界は正しくできている」という彼ら自身の世界観が揺らいでしまいます。


だからこそ、その言葉には、ヨブを救おうとする思いだけでなく、自分たちの世界観を守ろうとする力も混じっていたのでしょう。

そして、

「あなたにも原因があるはずだ」

とヨブに責任を背負わせなければならなかったのです。



■『ヨブ記』から、思想おもちゃ『魂の学びDX™』へ


これは、現代の「公正世界仮説」にもよく似ています。

公正世界仮説とは、

「この世界は、良いことをすれば良いことが返ってくる、
悪いことをすれば悪いことが返ってくるようにできている」

という世界観のことです。

不幸な人を見たとき、「あの人自身に、不幸を招く原因があった」と考えれば、この世界観は守られます。


しかし、しばしば苦しんでいる人は

「いや、私はここまで苦しまなければならないようなことは何もしていません」

と反論することがあります。


そんな時、

  • 「マイナス思考が引き寄せたのではないか」

  • 「波動が低かったのではないか」

  • 「前世のカルマだったのではないか」

  • 「魂の計画だったのではないか」

  • 「その経験から何を学ぶかが大切なのではないか」

と理由を与えることができれば、

「何の落ち度もない人が、ただ不当に傷つけられることがある」

という恐ろしい現実を見なくて済みます。


しかし、ヨブはそれを拒みました。

  • 私はここまで苦しまなければならないようなことは何もしていない。

  • 私は自分の苦しみをそのように説明する世界観を受け入れない。

私は、そのヨブの姿勢に強く共感します。


苦しみの意味づけ → 反論 → 印籠。

これは私が『魂の学びDX™』で思想おもちゃとして展開した構造と全く同じです。

人類は、数千年前『ヨブ記』が書かれた時代から、目の前の説明のつかない苦難をどう説明するか、という同じ問題を扱ってきたのです。

そしてその世界では、「あなたにも原因がある」という説明が、苦しむ人を黙らせる印籠として機能してきたのです。


もちろん、私はヨブではありません。

財産も子どもたちも健康も失ったヨブの苦難と、自分の経験を同じものだと言うつもりはありません。

けれど私は二年半前、何十万人もの人が見ている公開の場所で、身ぐるみを剥がされました。

次々と石を投げられ、仕事を失い、顧客から預かった写真を中傷に使われ、生活の基盤を破壊され、大金を失い、心身の健康を害しました。


そして、その出来事には長いあいだ、

「違法なことをしていたのだから仕方がない」
または
「魂の学びだった」「本人の波動が引き寄せた」

という説明が与えられ、私には反論する自由さえありませんでした。



■自分の世界観では説明できない差異に出会ったとき、生成が始まる


今回、私が読者の皆さんに問いかけたいのは、

「私たちが信じている世界には、常に、私たちが説明し尽くせない差異が存在しているのではないか」

ということです。

それをお伝えするためにこそ、これまで「シンクロニシティ」や「悟り印籠」や「独我論と他者」や『魂の学びDX™』の記事を書いてきました。


「この人が苦しんでいるのには理由がある」
「この人は苦しむに値することをしたのだ」

そういう単純な物語では説明できない一人の人間が、目の前にいる。

それは、自分の世界観の中に現れた「例外」です。


そして例外とは、単なる邪魔者ではありません。

自分が見ていた世界観では説明できない差異を示す他者の痕跡です。


その差異に出会ったとき、人には二つの道があります。

  • 相手の側に原因を押しつけて、自分の信じる世界観を守ること

あるいは、

  • この世の中には、自分の理解していた世界観では説明しきれない現実があるのかもしれない、と認めること。


私たちは、他者のことも、世界のことも、自分の主観を離れて理解することはできません。

他者や世界はしばしば、

「この世にはあなたの解釈では説明のつかない現実が存在します」

と突き付けてきます。


むしろ、解釈に収まらないからこそ他者なのです。

他者は、自分の世界観にきれいに収まるために存在しているのではありません。

だからその差異は、ときに私たちに世界観の更新を迫ります。


  • ヨブの友人たち

  • 石を投げる人たち

  • 被害者を黙らせようとする人たち

彼らに問われているのは、

目の前の他者を、自分の世界観の正しさを守るための説明材料にしないこと

なのかもしれません。


私の二年半の経験は、

「本人に落ち度がなくても、人は不当に傷つけられることがある」

という例外がこの世界に存在することの、一つの痕跡としてここに置きます。


その例外を消さずに受け入れるとき、

私たちの他者像や世界観は揺さぶられ、更新を迫られます。

これまでの世界観を守るために差異を消すのではなく、差異によって世界観のほうが変わっていく。

私が「生成」と呼んでいるのは、その瞬間のことです。



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