定線観測33 信濃川と街道
日本一長い信濃川。
源流から長野県内は千曲川、新潟県に入ると信濃川と名を変えます。
中山道・北国街道・三国街道で出会った川の姿を上流から紹介します。
名前が変わる信濃川

千曲川
今回紹介する信濃川は、全長367kmの日本一長い河川。
長野県内では千曲川、新潟県内では信濃川と、その名を県境で変えています。
全長367kmのうち、長野県側の千曲川が213.5km、新潟県側の信濃川が153.5kmです。
ならば河川名は千曲川でも良いのではと思ってしまいますが、河川法上では、一般的にその川の下流部の名前を使うそうです。

信濃川
かつて新潟県に昭和天皇がご巡幸された際、「なぜ千曲川が信濃川になるのか」との問いに県知事が答えられなかったという逸話が残っています。
江戸時代以前は、国や藩ごとに河川名称を変えていた名残が、信濃川に引き継がれているからだと思われます。
私たち人類にとって、生まれてから授かった名前を改名するタイミングは何回あるのでしょうか。
婚姻・離婚・養子などで、氏が変わる。
生活に支障がある理由で、名を変える。
宗教上の理由で出家し、名前を変える。
死後に、戒名を授かる。
川と人生は重なる気がします。
街道で出会った名前が変わる大河
淀川

京街道 淀川左岸
淀川は、琵琶湖を水源に、上流部の滋賀県では瀬田川、中流部の京都府では宇治川、下流部の大阪府で淀川となります。
流域面積8,240㎢、幹川流路延長75.1kmの一級河川です。
北陸道を歩いていた時に、福井県と滋賀県の県境に位置する栃ノ木峠に、淀川の源流の石碑が建っていました。
▽高時川

北陸道 淀川の源
ここは琵琶湖へ流入する河川・高時川の水源地、国土交通省のホームページでは淀川の水源は琵琶湖ですが、更に上流に遡ると福井県境まで来るのですね。

北陸道 高時川
高時川が淀川の源流といわれる由来は、淀川水系の川で最北端から流れているからだと思われます。
峠付近ではまだまだ小さな流れでしたが、徐々に川幅を広げ、長浜市中心部に入る手前で琵琶湖に注がれます。

北陸道 琵琶湖 東岸
北陸道はこの先の鳥居本宿で中山道に合流。琵琶湖から少し離れた内陸を西に進みます。
北陸道、淀川の源を歩いた時の記録はこちら↓
▽瀬田川

中山道 瀬田川源流付近
琵琶湖を源流とする瀬田川が見えてきました。この付近は琵琶湖の南側の先端部でかなり広くなっており、この先で有名な瀬田唐橋を渡ります。
ここは、諺"いそがばまわれ"の舞台になった場所です。
もののふの 矢橋(やばせ)の船は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋
中山道を東から歩いてくると、草津宿から大津宿までは、何事も無ければ矢橋(やばせ)の渡しで琵琶湖を渡った方が早く着きました。
しかし、比叡山からの強風で舟の欠航や転覆リスクが高く、安全性を重視するなら、遠回りでも瀬田唐橋を渡って行くべきだという教えです。

中山道 矢倉立場の道標
上の画像の道標が、往時の旅人が、船で近道をいくか、瀬田唐橋経由の遠道をいくか思案した場所にあったものです。

中山道 瀬田唐橋
瀬田唐橋は、京都へ向かう道沿いにあったため、幾度となく戦火の舞台となり焼失と再建を繰り返しました。
現在の橋は、織田信長が整備した頃の姿を引き継いでいます。

中山道 瀬田唐橋
瀬田唐橋、こんなに美しい橋はなかなかお目にかかれません。
琵琶湖には117本の一級河川が流れ込んでいますが、湖から流れ出る唯一の自然河川が瀬田川。
瀬田唐橋を渡ると瀬田川とはお別れ、もう出会うことはありません。
中山道で瀬田唐橋を歩いた時の記録はこちら↓
▽宇治川

京街道 宇治川
瀬田川は京都に入ると、宇治川とその名を変え、京都競馬場近くの京街道沿いに、静かに流れる深緑色の姿を表します。

京街道 宇治川距離標

京街道 背割桜地区地図
桂川・宇治川・木津川、三つの川が合流する地点の航空写真を、社会科の教科書か何かで見た記憶が蘇ります。
合流地点に架かる御陵橋を渡る時は、興奮していました。

京街道 木津川石標
この後は最後の河川、淀川です。
▽淀川

京街道 淀川石標
京街道は守口市・寝屋川市・枚方市付近は淀川の堤防上から川を見ながら歩くことが出来ます。

京街道 大阪市内ビル群

京街道 淀川距離標 21.6km
堤防の上を歩く距離が8km位もあり、川を眺めて楽しかったのは最初の30分くらいだけで、あとは単調過ぎてすぐに飽きてきます。

京街道 新淀川橋

京街道 川船
時々船が淀川を行き来しています。
この船を見ていると、江戸時代にも同じ様な風景が眺められたんだろうと、想像が膨らみます。

京街道 淀川上流

京街道 犬飼大橋
この付近で淀川と京街道は別れ、川幅をさらに広くして大阪湾に注がれていきます。
京街道、淀川沿いを歩いた時の記録はこちら↓
富士川

東海道 富士川橋
富士川は、山梨県の鋸岳を水源に、上流部の山梨県では釜無川、笛吹川と合流してから河口までは富士川となります。
流域面積3,990㎢、幹川流路延長128kmの一級河川です。
今回の投稿で名前が変わる川を調べるまで、甲州道中で何度も見た釜無川が富士川に名を変えるとは知りませんでした。
下流から上流に向けて富士川を紹介していきます。
▽富士川

東海道新幹線 車窓
上の画像は、西国街道を歩いていた時に、帰りの新幹線から撮影した富士川と富士山。
この景色は新幹線に乗っていて、富士山側に座っているとよく目にします。
その富士川を歩いて渡れる、前方には霊峰富士の裾野まで拝める。
新幹線だと1分くらいの光景が、10倍以上楽しめる、これぞ街道歩きの醍醐味です。

東海道 富士川橋西詰
富士川の流れが見えてきました。
河口近くの大河は、高い堤防を登ってから川の流れを眺める事が出来ますが、東海道の富士川は丘の上からいきなり見下ろせました。
上から見下す大河もいいですね。

東海道 富士川橋 全景
富士川橋。
開通が1924年、100年の歴史があります。
橋を上から眺める事も珍しく、アーチの美しさが際立ちます。

東海道 富士川橋 親柱

東海道 富士川と富士山
新幹線からいつも見ているこの眺めを、歩いてゆっくりと満喫したかったのです。
新幹線は時速250kmで街道歩きは時速4km。
富士川と富士山の眺め、街道歩きは新幹線の62倍満喫できます。

東海道 溶岩と魚道
川の横の魚道をよく見ると、溶岩が露出している、富士山麓らしい迫力ある風景です。

東海道 水神社

東海道 富士川渡船場説明
上の画像の説明文を読むと、約1万5千年前の溶岩流がこの付近に露出していると記されていました。
富士川を渡った東海道の記録はこちら↓
▽釜無川

甲州道中 七里岩
上の画像は、山梨県韮崎市にある七里岩の上から見た風景。
中央左奥に富士山、中央右には釜無川が流れています。
東海道から見た富士川と富士山の風景と比較すると、同じ川と山とは思えない絵になっています。

甲州道中 七里岩
七里岩は八ヶ岳の斜面が崩壊して出来た堆積物が、釜無川によって侵食されて形成された地形。
ちょうど七里岩の横を釜無川が流れている地点では、その名残がわかりやすく残っています。

甲州道中 八ヶ岳
釜無川の奥には、紅葉で赤く染まった八ヶ岳連峰が望めます。
あの山が崩れて七里岩になった時は、かなりの規模の噴火があったと思われます。

甲州道中 釜無川上流

甲州道中 釜無川と石碑
この付近で釜無川とはお別れ。
川は源流の鋸岳まであと少しです。
釜無川の源流近くまで歩いた日の記録はこちら↓
信濃川以外で、街道でご縁があった川の名前が変わる改名川をふたつ紹介しました。
千曲川を歩く1 中山道と佐久平
中央分水嶺

中山道 塩尻峠からの諏訪湖
中山道を歩くと、長野県内で渡る河川が太平洋側か日本海側か、どちらに流れるかわからなくなってきます。
東から歩いた場合に出会う河川や湖の順番と、流れる先の海は下記の通りです。
千曲川→日本海
諏訪湖→太平洋※天竜川経由
奈良井川→日本海
木曽川→太平洋
長野県内には、中央分水嶺と呼ばれる雨水が太平洋と日本海に注がれる境目の線が縦横無尽に走っているために、4回も入れ替わりました。
こうやって川の記録をまとめていると、人生に例えられそうな景色や言葉が湧いてきます。
分水嶺もそのひとつで、自分の人生に例えると生きている中で何度かありました。
古い順に思い返すと、就職・結婚・転職、そして街道との出会いになります。
どれも、普通ならそっちに行くのでは、といった流れとは逆を選んで、結果的に幸せを掴んでいる気がします。
信濃川の記録をまとめようとしていたら、淀川・富士川とかなり脱流しましたので、そろそろ本流に戻ります。

中山道を西に向かって歩き、最初の難関である碓氷峠を越えると、暫くは高低差がない佐久平に入ります。
晴れていれば浅間山を拝みたかった所ですが、この日は朝から雨。
前日の峠越えを急ぎ足で歩いた影響で、膝を痛めながら歩き、もう限界だと思った頃に千曲川が表れました。
千曲川

中山道 千曲川の段丘
街道を歩いていると、次の川までの距離感がわかります。
見極め方は簡単で、緩やかな坂道を下りはじめた道の先に、今歩いている場所と同じくらいの高さの丘が見えていると川が近い証拠。
河岸段丘だったりします。

中山道 街道の坂道

中山道 千曲川堤防
街道歩きで、道の先に堤防が見えてくる風景が好きです。
往時は橋がなかったので、渡船に乗る前に休憩する茶店などで賑わっていた光景を想像しながら歩きます。

中山道 中津橋
堤防に登ると川の対岸を眺めます。
往時の旅人はどんな気持ちで川の流れを見ていたのか、ここには渡船が行き交っていたのかなど、想像が膨らみます。

中山道 千曲川下流
千曲川は歩いて渡れそうな深さです。
この先は佐久平を抜け、小諸城・上田城下を流れて長野盆地に至ります。

中津橋を渡り対岸をふり返ると、先ほど歩いてきた道が小さく見えます。
中山道はこの先、道中最高峰の和田峠を越え木曽路に入ります。
佐久平の中山道を歩いた時の記録はこちら↓
千曲川を歩く2 北国街道と善光寺平
起点と終点

北国街道 仁王堂
北国街道(ほっこくかいどう)。
中山道の信濃追分から新潟県の上越市高田に向かう道、途中善光寺を通るので、善光寺東参道とも呼ばれています。
北陸道や善光寺東参道を歩いていると、北国街道の道標をよく目にします。
なぜ同じ名前の街道が異なる場所にあるのか。それはその地域から見た行き先が街道名になるからです。
北国街道は、北国と呼ばれる越中・越後などに向かう道を指していました。

水戸街道 道標
水戸街道を江戸から歩いた時は、道中では水戸街道の道標しか目に入りませんでしたが、終点の水戸に着いた時、道標に江戸街道起点と刻まれていました。
江戸街道起点の道標を見た時に、何かハッとしました。
以前京都の人との会話の中で、中山道を歩いて終点の三条大橋に着いた云々の話をしていたら、終点ではありません起点ですと、怒られた覚えがあります。
何事も別々の視線で見ないと、いけないと思いました。
これこそ街道歩きで学ぶ教訓です。
参考までに、パリ市内にあるリヨン駅は、パリから南東約400kmに位置するフランス第2の都市リヨンに向かう鉄道の駅名なので、考え方は似ています。

北国街道 仁王堂

北国街道 仁王堂
北国街道は、長野県上田市から長野市の間で千曲川と並走します。
流れが早く、大雨が降った後は怖そうな川です。

北国街道 太鼓岩

北国街道 太鼓岩 説明看板
坂城町の千曲川の真中にある太鼓岩、中央に柱が2本立っています。
これは1930年に村の有志が架けた吊り橋の支柱の跡です。
1959年の伊勢湾台風の際に災害を避けるために切り落とした後は、架け直される事はありませんでした。
街道を歩いていると、遺構などの説明書きに、時々過去の災害について触れられているケースがあります。
その中で一番多いのが1959年の伊勢湾台風、全国各地の街道で目にしますので、被害が大きかった事が窺えます。
次に多いのが関東地方になりますが、1783年に千曲川源流に近い、浅間山で起こった天明大噴火です。
川を伝って火山泥流が江戸まで流れついた様で、後に天明の大飢饉を引き起こしました。
千曲川

北国街道 街道の風景

北国街道 岩井堂山
岩井堂山。
見事なピラミッド型の山で、標高は793m。山頂には烽火(のろし)台跡があり、松茸の時期の秋は入山禁止になるそうです。

北国街道 千曲川上流
千曲川の対岸には戸倉上山田温泉があります。
1893年に開業、当時は堤防が整備されておらず、水害に悩まされていたそうです。善光寺詣りの精進落としの湯として親しまれ、長野県内最大級の温泉街になりました。

北国街道 千曲川上流


長野市内で北国街道とはお別れ。
この先千曲川は新潟県内に入ると信濃川と名を変え日本海に向かい、北国街道は善光寺を経由して上越を目指します。
千曲川沿いの北国街道を歩いた時の記録はこちら↓
信濃川の治水と三国街道 大河津分水路

三国街道。
太平洋側と日本海側を結ぶ最短路の街道で、上野国の高崎から三国峠を越えて、日本海側の港町、越後国の寺泊を結んでいます。

三国峠の名の由来は、上野(群馬)・信濃(長野)・越後(新潟)の三国国境に位置する事からそう呼ばれています。

戦国時代は上杉謙信が関東遠征の際の、軍用道路として使われ、江戸時代になると参勤交代や佐渡金山の運搬路としても賑わいました。
信濃川

川は新潟県に入り信濃川に名を変えています。長野県から山を下り日本海が近づき、川の流れが少しづつ穏やかになってきました。

三国街道 榎峠古戦場
榎峠古戦場。
三国街道沿いには戊辰戦争の戦績が多く残っています。
ここ榎峠は川と山に挟まれた交通の要衝、三国峠にも石碑が建っていました。
峠道など隘路となっている場所が、古戦場になりやすい様です。

三国街道 妙見堰
妙見堰。
道路橋の他に、信濃川の安定・上水道の取水・JR小千谷発電所の発電を担っている多目的な堰です。

三国街道 妙見堰 説明看板
JR小千谷発電所は首都圏の鉄道を動かすために、発電所から朝・夕のラッシュ時に放流される水を調整して発電をしているそうです。
信濃川が首都圏の人の移動を支えているとは、知りませんでした。

三国街道 蔵王橋
蔵王橋。
かつてこの地に幕府領の蔵王村があった事が橋の名の由来です。

三国街道 蔵王橋

三国街道 蔵王橋
近くにある金峯神社は、流鏑馬行事が有名で、橋の街灯が弓の形をしていたり、流鏑馬の様子の彫刻版が飾られています。

三国街道 信濃川上流

三国街道 信濃川下流
弥彦山が見えてきました。
新潟県を代表する名峰で標高は634m、東京スカイツリーと同じ高さです。
山頂からは日本海や佐渡島を眼下に望むことができます。
この山を見ると日本海が近付いてきていると、実感します。

三国街道 北陸自動車道 信濃川橋

三国街道 河川敷と弥彦山
この付近の堤防からの風景は、歩いている事を忘れるくらい美しかったです。
終点まで20kmを切り、気持ちが昂ってきました。

三国街道 サイクリスト

北国街道 信濃川100キロポスト
100キロポストがありました。
千曲川から信濃川に変わってからのキロポストの様です。

三国街道 与板大橋と雲海
信濃川の向こうに、低い雲が広がっています。幻想的な風景でした。

三国街道 信濃川堤防
信濃川の堤防が見えてきました。
堤防に向かって歩いていると、不思議と心が躍るのはどうしてでしょう。
きっとその向こうに川があるからです。

三国街道 信濃川堤防

三国街道 本川橋
堤防を登り切ると、赤い本川橋が見えてきます。
この付近が、信濃川と大河津分水路の分岐地点。画像では見えませんが、この先信濃川は河口の新潟市内まで約40km北東に向かって流れていきます。
大河津分水路

三国街道 大河津分水路0キロポスト
北国街道はこの先約10kmは、人工的に作られた大河津分水路沿いを進み日本海を目指します。

大河津分水路(おおこうづぶんすいろ)。
この分水路を建設した背景に、信濃川の洪水による水害がありました。
元々の信濃川はこの付近から、越後平野を約40km北東に縦断して日本海に注がれていました。

三国街道 大河津可動堰
その当時は度重なる洪水の被害で、越後平野には泥が深い水田が多く、質の高い米が獲れませんでした。
江戸時代中ごろから、現在の燕市分水地区から日本海に向けて運河を掘り、信濃川の水を日本海へ流す分水の必要性が幕府等に訴えられ続けていました。

三国街道 大河津可動堰
1869年に明治政府が大河津分水工事を開始するも、通水直前の1875年に信濃川の流量が減り新潟港の水深が浅くなり、船の航行に支障をきたすとの理由で、大河津分水は一旦廃止され、治水事業は堤防強化を中心としたものに移行します。

三国街道 大河津可動堰

三国街道 大河津可動堰
1896年に越後平野は現在の燕市横田地区付近などで堤防が破堤し越後平野一帯が泥の海と化した"横田切れ"と呼ばれる大水害に見舞われます。

三国街道 大河津可動堰

1922年、"横田切れ"を契機に工事が再開された大河津分水路が通水します。
半世紀に及ぶ大工事、東洋のパナマ運河とも呼ばれました。

三国街道 大河津可動堰
通水後、越後平野は洪水の被害を受けなくなり、日本屈指の米どころに発展すると共に、都市開発も進みました。
新潟市内の信濃川河口付近の川幅は、水量が減った900mから300m程度まで減り、川に寸断されていた街が一体化したそうです。

工事に携わった人の数は延べ1,000万人、三国街道沿いには、工事で賑わったと思われる街がありました。

通水後には、堰の陥没という大事故が起きたり、度重なる改修工事を繰り返されてきました。
現在も令和の大改修工事が行われており、上の画像の奥には改修工事用のクレーンが何本も建っていました。この工事は2038年度まで続く予定です。
放水路と別れ、三国街道を1時間くらい歩いて終点の寺泊港に到着しました。
信濃川と大河津分水路沿いの三国街道を歩いた時の記録はこちら↓
日本一長い信濃川は、様々な顔を持つ大河でした。河口の新潟市までは三国街道では歩けませんでしたので、北国街道で歩こうと思います。
定線観測シリーズは他にも、巨樹・熊・桜・酒・鉄道など、様々なテーマで記録をまとめていますので、詳しくは目次をご覧ください。
