まだ生まれていない子供たちへ
僕はふと、今まだ生まれてもいない子供たちが目に浮かんだ。20年先を見据えた解決策は何か、誰がそれを実装するのか、と。
子ども・子育て支援金についての記事を読んだ。給与から月数百円が天引きされる新しい制度を、X上で人々は「独身税」と呼んで怒っている。
中間層が一番割を食う制度設計。出産の保険適用が産科を消す逆説。保育無償化の空洞化。こども家庭庁の7兆円とKPIの不在。すべて事実だ。
でも僕は何か、フラストレーションのようなものを感じた。
僕の頭にふと、子供の頃の記憶が浮かんだ。小学校1年生まで、祖父の家で大家族で暮らしていた。父の弟二人の家族も一緒だった。貧しい百姓の家だったはずなのに、子供だった僕たちはそれを貧乏だと認識さえしていなかった。たのもし講があった。近所の付き合いがあった。
その記憶と筆者の文章が、頭の中で繋がりかけて、繋がらないまま止まった。
僕はまた、ふと、今まだ生まれてもいない子供たちが目に浮かんだ。20年先を見据えた解決策は何か、誰がそれを実装するのか、と。
僕の別の自分は答えた。育児負荷を物理的に分散するインフラ。近居支援の住宅政策。世代を混ぜたケア空間。年少扶養控除の復活。きれいに整った言葉が並んだ。
次にまた別の3番目の自分が、「誰が実装するのか?」と問うた時、2番目の僕は「実装は不可能に近い」と即答した。政治家の任期は短い。官僚は2年で異動する。大臣は毎年替わる。20年後に成人する子供は今投票しない。だから20年スパンの政策にコミットする主体が、構造的に存在しない、と。
その回答が、一瞬で出てきた。
僕はそこで、もう一度止まった。そしてわかった。
問題は難しすぎて解けないのではない。問題は自明すぎて解けないのだ。
これが逆説の細部だった。
普通の感覚では、難しい問題は理解が進めば解ける、と思う。でもこの問題は逆だ。誰もが理解している。理解は飽和している。僕が一瞬で要約できるほど、共有知になっている。それなのに動かない。という事は、知識の不足が原因ではない。知識を行動に翻訳する経路そのものが、社会構造の中に存在していないという事だ。
読者もそれを暗黙に知っている。記事は問題の正確な記述を提供する。読者の認識を少しだけ精緻にする。それだけだ。社会は動かない。
僕の祖父の家にあった大家族は、今では制度的に再現できない。三世代同居を税制で誘導しようとすれば、嫁世代の女性に負荷が集中する。共同体が溶けた事は、個人の自由を獲得した事と裏表だった。過去には戻れない。
でも、戻れないという事実を認めても、何かが進む訳ではない。準・共同体を再構築するという発想も、誰も実装しない。そういう政治構造になっていないからだ。
僕が小さい頃、貧しさを認識していなかったのは、参照する他者がみんな同じだったからだ。今は参照する他者が見える。SNSで、他人の子育てが、他人の収入が、他人の不満が、全部見える。だから「独身税」という言葉に怒りが集まる。怒りは正確だ。でもその怒りもまた、問題を可視化するだけで、構造を動かさない。
僕は記事を読んだ。そして僕は深く深く内面で別の僕たちと会話した。そして、最初の自分が答えた。すべてが正確で、すべてが動かない。
逆説の細部は、そこに宿っていた。
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Shin Mikami
704-905-1294
