映画『敵』考察 「敵」とは何なのか
思いがけない暴飲暴食
昨日、ふと「そろそろ運動を再開してみようか」と思ったのだが、時間がなかったので、部屋でスクワットをしたり腕立てをしたりするに留まった。
本当は朝に走ったりしたい。
くたくたになるまで走って、夜は深く眠る。そんなサイクルにしたい。
ただ、ハードな運動を始めるには、いくらなんでも昨日は暑かった。この夏のピークだと言われていたくらいの日だったから。
で、そんな夜に限って、飲み過ぎ・食べ過ぎしてしまった。
これを皮肉と捉えるのか、それともエネルギーが出てきたから食欲も出てきたのだと捉えるのか。
わからない。
でも、確かに飲み過ぎは良くない。
何にとって良くないのか。それは、健康寿命だろう。
健康寿命とは、身体が思うように動く状態で、少しでも長く生きられる期間のことだ。
そうじゃなくても老いはやってくる。
老いについて、死について
老いがやってくるとどうなるか。
身体のみならず、考え方も若い頃とは違ってくる。
鈍く穏やかになるならいい。
でも、どちらかというと人間は老いによって意固地になる。
怒りっぽく、狭量になる人も多い。
ほどけるというよりも、あらゆるものが緩むというか、
自分を押さえ込んでいたものが制御できなくなる部分がある。
それが怖い。
格好をつけていられなくなる。
そして当たり前だが、時間とともに「死」そのものは近づいてくる。
昨日は、そんな映画を観た。
映画『敵』
『敵』という映画である。
Amazonプライムビデオにも来ているが、Netflixなら今はサブスクで観られる。
監督は吉田大八、撮影は『ドライブ・マイ・カー』の四宮秀俊。
「モノクロ映画」で「敵」というタイトル、ビジュアルを見るまでは「時代劇かな?」くらいに思っていた。
違った。文学作品だった。
原作は筒井康隆だ。
上記の公式サイトによると、ストーリーはこんな感じ。
渡辺儀助、77歳。大学を辞して10年、フランス近代演劇史を専門とする元大学教授。20年前に妻・信子に先立たれ、都内の山の手にある実家の古民家で一人慎ましく暮らしている。講演や執筆で僅かな収入を得ながら、預貯金が後何年持つか、すなわち自身が後何年生きられるかを計算しながら、来るべき日に向かって日常は完璧に平和に過ぎていく。収入に見合わない長生きをするよりも、終わりを知ることで、生活にハリが出ると考えている。
毎日の料理を自分でつくり、晩酌を楽しむ。朝起きる時間、食事の内容、食材の買い出し、使う食器、お金の使い方、書斎に並ぶ書籍、文房具一つに至るまでこだわり、丹念に扱う。(略)
できるだけ健康でいるために食生活にこだわりを持ち、異性の前では傷つくことのないようになるだけ格好つけて振る舞い、密かな欲望を抱きつつも自制し、亡き妻を想い、人に迷惑をかけずに死ぬことへの考えを巡らせる。 遺言書も書いてある。もうやり残したことはない。
だがそんなある日、パソコンの画面に「敵がやって来る」と不穏なメッセージが流れてくる。(略)
「敵」とは何なのか。逃げるべきなのか。逃げることはできるのか。
自問しつつ、次第に儀助が誘われていく先にあったものは――。
老いをこじらせた元大学教授の晩年の妄執、という形容ができなくもない主人公だが、長塚京三演じる儀助の暮らしは十分に整えられていて、古い日本家屋に暮らし、デスクトップパソコンを駆使し、食事もきちんと自分で作って食べ、自足している。荒れた生活ではない。理想的だとも言える。
あらすじにあるように、儀助は自らの終わりを具体的に意識しながら、人に頼らない暮らしを実現しているのだ。老いてからの暮らしぶりとしては十分すぎるほどにスタイリッシュだ。
1998年という時代
厚生労働省のデータによると、2025年時点の日本人男性の平均寿命は81.35歳。筒井康隆の原作小説が刊行されたのは1998年で、当時の日本人男性の平均寿命を調べたら77歳。ちょうど儀助の年齢だった。
知的職業人上がりだからか、儀助は年齢の割に若く、艶がある。性欲もあるようだ。人生を自分で制御しようという意思もある。だから、残りの預貯金から換算して、いつ自死するかということを考えている。1998年はバブル崩壊を受けて、失業者が目に見えて増え、生活保護受給者が増加した年でもある。だが、生活保護を受けて生きながらえる発想が儀助にはない。それは儀助のダンディズムに反する。
「ただ生き延びるために生きるってことを、どうしても受け入れられないんだよ」と儀助は話す。これが儀助の矜持であり、同時に彼を苦しめているものの正体だ。
儀助の暮らし
映画の前半は、淡々とした儀助の暮らしが描写される。焼き魚が美味しそうだと思ったら、フードスタイリストに飯島奈美が起用されていた。『かもめ食堂』『南極料理人』『深夜食堂』『舞妓さんちのまかないさん』など、食事がやけに美味しそうな映画には軒並み飯島奈美が絡んでいる。
話を本筋に戻す。映画の中盤から、儀助の一人語りのようなこの映画(ただし儀助のモノローグは一切ない)に、現実と幻想が混在してくるようになる。儀助のメールアドレスに時折送られてくるスパムのようなメッセージも不穏だ。「敵がやって来る」────
スパムメールに意味を見出すのは不毛だ。だが、我々はこの世の中のどうでもいいようなことについて意味を感じることがやめられない。メールに書かれた「敵」という言葉に、儀助の妄想は膨らむ。家の中に薄汚い身なりの集団が押し寄せてくるし(1998年はホームレス問題が表面化した年でもある)、自宅の周りでは銃撃戦が始まる。そして自らが撃たれる。妄想だ。妄想なのだが、儀助はその恐怖に怯えながら、まるで自分の人生を終わらせてくれる何者かの襲来を待っているかのようにも映る。
公式サイトにある長塚京三のコメントを一部引用してみる。
老耄に押しまくられて記憶が混濁し、授けを求めようにも、人も、物たちさえも、いつの間にか掌を反したように敵側に回っていて、恐らくは粗略でもあり、傲慢でもあったろう主人公の嘗てのあしらいに、幾星霜かを経て、なお復讐するかのようだ。
女性への欲望
儀助の家に元教え子の女性が訪ねてくる。儀助はこの女性に好意を抱いている。大学教授とその教え子だった時代の話に二人は花を咲かせる。彼女は結婚しているのだが、「離婚しようかしら」などと言ってくる。またある日、儀助の家でワインを傾けながら食事をする二人。彼女はソファに儀助を誘い、儀助は彼女の服を脱がせる…というところで儀助はソファで目を覚ます。その後にテーブルのカットが映るのだが、グラスも皿も一人分のものだった。この夜のことは儀助の頭の中だけの幻想だったのだ。
また、河合優実演じる大学生。彼女は叔父が経営するBARでアルバイトをしている。フランス文学に興味があり、元大学教授で知的な儀助に憧れを持っている。儀助はふとしたことから彼女がお金に困っていることを知る。そして滞納している学費と当座の生活費のために300万円貸したら、急に連絡が取れなくなってしまった。「騙されたのかもしれない…世間知らずの大学教授に相応しい…罰だよ」と儀助は話す。だが、この女性のくだりはすべてが幻想だろうと思われる。
儀助の女性に対する態度を見ていると、そこには欲望だけでなく、後悔のようなものも感じられる。知的であろう、節度ある人間であろうとするあまり、本当にしたかったようにはできてこなかった。その悔恨が、物語後半の描写の隅々に滲んでいるように思う。
それは下心といえばそうだし、助平心と言ってもいい。だが、それだけでは片づけられない。むしろ、長いあいだ自分を律してきた男が、人生の終わりが近づいたところで、その鎖から少しずつ外れていく。そのこと自体が、この映画における儀助の「敵」と無関係ではないのではないか。
夢と現実の違いとは?
こうなってくると、儀助の暮らしそのものが、現実なのかどうなのか怪しくなってくる。この映画のすべては儀助の夢なのかもしれない。どこかに夢と現実との境目があるのかもしれない。もっと言えば、夢だろうが現実だろうがどうでも良くなってくる。そもそも、人生という時間を生きる人間にとって、いつか必ず死ぬ運命の我々にとって、おのれの「体感」という意味で、夢と現実には実質的な違いがあるのだろうか?
また、自宅前の路上で何度も繰り返される、犬のフンについてのやり取りと、幻影の妻が話す「パリなんてどうせ犬のフンだらけなんだから」というリンクは、いかにも夢という感じがする。
「敵」とは何を表すのか
タイトルであり、テーマでもある『敵』が何を指すのか。
一番シンプルに答えるならば、それは「死」なのだろう。死そのものと、それに準ずる老いや、内側からだめになっていく自分。
しかし、それだけではないのだろうと思う。「敵」=「死」であれば、一本の小説、一本の映画にする必要はない。小説と映画は作品であり、作品とは「問い」そのものだ。一言ですべてを言い表せるなら、作品にする必要はない。僕はそう考えている。
だから、「『敵』とは何だったのか?」という問いについては、「この映画を観てあなたが感じたそのことが正解だ」と言いたい。
知的労働者として生きてきた一人の男の、悔恨と願望、そして恐怖の入り混じった長尺の走馬灯。それが映画『敵』についての僕の印象だった。
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