「国民の99%は消費者」考

江戸時代の頃、国民の八割が百姓。国民の大半が農業にたずさわっていた。
第二次大戦に負けた頃でも国民の半数が農家。しかも、疎開で農村に来ている子どもたちはみな農業体験を積むことになった。「平成の米騒動」の時点でも農家は400-500万人はいて、親戚の誰かが農家だったりするから、そこからコメを入手した、という人も多かった。お盆や正月には、農村に帰省する人が多かった。

ところが2026年、ついに農家は100万人を切り、国民の1%以下にまで減った。いまや、国民の99%以上が消費者。1%以下しかいない農家は、投票権も1%以下しかない。農業の運命も、99%の消費者が決定する時代に。

ところが厄介なことに、日本では農家(生産者)と消費者は対立構造で語られることが多い。消費者だけでなく「有識者」と呼ばれる人まで、「農家は補助金漬けで甘えている」と批判する。農家は農家で、「消費者はもっと農業について勉強してほしい」と上から目線でものをいう。対立構造がなかなか解消されない。

では、欧米ではどうなのだろうか。面白いことに、欧米でも農家の数は少なく、人口の1%かそれ以下だったりする。農業がセぎだすお金(農業生産額)もGDPの1%程度と、日本と事情は変わらなかったりする。なのに欧米では農家への所得補償が行われ、農業は保護されるべきだと消費者たちは考え、政策に反映させている。日本と大違い。いったいこれはなぜなのだろう?

アメリカの場合、二つの理由が考えられる。一つは「食料は武器」だから。日本や韓国のように食料自給率の低い国に食料を輸出し、その胃袋を牛耳っておけば、これらの国はアメリカに逆らえなくなる。食料は武器以上に安全保障にかかわる戦略物資だと言えるだろう。もう一つは「選挙への影響力が強い」。アメリカには、農家が多くて政治力のある州が複数ある。州の人口は少なくても大統領選に与える影響力は大きく、大統領も議員も農家の意向を無視できない。

ヨーロッパの場合は「飢餓の記憶」が強い。ドイツは第一次大戦で「カブラの冬」と呼ばれる飢餓により78万人が死んだと言われる。第二次大戦では、飢餓の記憶に怯えるナチスドイツにより大量の食料を奪い去られたフランスは、農業国であるにもかかわらず飢餓に苦しんだ。イギリスは第二次大戦の戦勝国だったのに、ドイツの潜水艦攻撃でアメリカから食料を輸入できず、餓死寸前にまで追い詰められた。こうした体験があったために、ヨーロッパでは飢餓に対する警戒心が強く、EUの予算のうち31%が農業予算(CAP)だったりする。飢餓を回避するためなら、農業を保護するのは当然だし、農家に税金から補助金を出すのは当然、という意識になるらしい。

ところが日本ではそうなっていない。上述したように、農家は補助金漬けで甘えている、と攻撃される状態。消費者から理解が得られているとはいいがたい。なぜこんな違いが生まれているのだろう?

それは恐らく、「つい最近まで農家が多かった」ことが原因だろう。欧米では早くから農業の大規模化が進行していて、世界大戦がはじまるころには農家の数がかなり減っていた。そんな中で二つの大戦が起き、消費者は親戚に農家がいるはずもなく、飢餓で苦しむことになった。農家と縁遠い消費者ばかりの国に早くからなっていて、その間に飢餓を経験したことが、「農業は政策でもって支える必要がある」という意識に消費者がなった、ということなのだろう。

これに対して日本では、上述したように戦争に負けた時点でも国民の半数以上が農村にいた。都市住民はむしろ少数派で、戦後の食糧難ではダイヤの指輪でざる一杯のイモと交換する、という、平和な時代ならありえない取引でも応じるしかなかった。このとき、早くから都市住民だった消費者は農家のことを恨んだりしたケースもあったという。

また、長男は田畑と財産をもらい、次男以下は何一つ持たされないで都会へ働きに出ざるを得なかった。当然、長男はうらやましがられた。ところが戦後の高度経済成長で立場は逆転、長男は田舎に住み続けざるを得ず、次男以下はきらびやかな都会の生活をエンジョイする、という構図が生まれた。こうした、「長男と次男以下」に与えられた境遇の違いが、生産者と消費者の対立に影を潜めている面もあるだろう。

しかし今や、孫の顔を見せに祖父母の家に行っても、祖父母も都会人、というケースが増えた。圧倒的多数が消費者。農業体験が3代にわたってゼロ、という国民が大多数となった。それでいて、つい最近まで「農家が多かった」ために、歴史的な背景も手伝って、農家と消費者は対立しがち。対立しがちなのに、農業の未来は消費者に託されるようになっている。消費者が農家に理解を示す、ということが難しい構図になっている。

先日、結構グルメな30代の男性が「玄米はコメの品種の一つだと思っていました」と言っていた、というエピソードを聞いた。白米は玄米を精米して作るのだ、ということさえも知らない消費者が増えている。実は恥ずかしながら、私自身消費者出身で、畔(あぜ)と畝(うね)の区別が長いことつかなかった。私自身、農業のことがわからないできた消費者。

私は農業研究者だから「そんなことも知らないのか」と農家の方から言われれば、恥じ入らなければならない立場。でも、消費者が同じ言葉をかけられていい気分がするかと言えば、そうではないこともわかる。誰も上から目線でものを言われたくないもの。でも、つい最近まで農業は強い立場にある、国の礎は農業にある、という信念も手伝って、農家は消費者を見下し気味だったのも事実。けれど。

農業の運命はもはや、消費者の手にあって、農家にはない。99%と1%では勝負にもならない。消費者に農業の運命を決してもらうしかない。なのに農家がいつまでたっても上から目線で消費者を説教したら、消費者はヘソを曲げて話を聞こうとしなくても無理もないだろう。農家は上から目線な発言をやめ、誠実に、かつ分かりやすく説明することが求められるだろう。

実は、消費者は食料確保に大きな貢献をしている。現在、日本の食料自給率は38%だが、これは見方を変えれば消費者が食料の62%を確保しているということでもある。自動車などの工業製品や、外国人旅行客へのサービス提供などで稼いだお金で、海外から食料を購入できている。そうした労働者でもある消費者もまた、食料安全保障を支えるうえでの重要なパートナー。農家だけが食料確保の問題を独占できるものではない。そもそも、日本の国土では全国民を養うことはできないし。

かといって、海外に食料すべてを依存するのは危険。たとえ4割弱の食料自給率と言えども、それは見方を変えれば5か月近くをしのげる量の食料があるということで、戦争があっても国内の食料を食べつなぐうちに国際情勢の変化が期待できることを考えると、やはり食料自給率をなるべく高めにすることも大切。

農家は国内で食料を生産する努力をし、消費者(非農家の労働者)は海外から食料を調達する努力をする。こうした「パートナー」として、農家と消費者の関係を位置づけなおす必要がある。ケンカしている場合ではない。日本の未来を共に作っていく「仲間」として、協力し合うことが大切。そのためには、農家および農業研究者は決して上から目線でものを言わず、しかし、日本の農業の現状をしっかり伝えることを恐れず、また消費者は、農業のことがわからないことを自覚し、農家が誠意をもって伝えようとしている現実を踏まえ、99%の投票権を行使する必要がある。「農業のことがわからないのに農業の未来を決しなければならない」のは日本だけではない。欧米もそう。欧米ができてどうして日本でできないはずがあろうか。できていない理由があるなら、その問題を解きほぐそう。それが私たち、現在を生きる人間の使命と言えるだろう。

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