(個々の事情を別として)不登校が増える基礎的原因の仮説・・・群れ遊びの欠如
不登校児が増えている。
小・中学校全体の合計は353,970人にのぼり、前年度から約7,400人増加、過去最多だという。
不登校の原因は、2023年の調査で「無気力・不安」51%だという。つまり、はっきりした理由がわからないケースが多いらしい。これは逆に言えば「学校に行きたいと思える理由がない」とも言える。不登校になるのはイジメの問題や人間関係のもつれなど、その子によって理由は様々だから一概に言えないが、少子化で子どもの数が減っているにも関わらず不登校の総数が増えてしまった大きな原因として、「学校に行きたいと思える理由が見当たらない」が大きいように思う。
では、今の学校が昔の学校よりも面白くないからそうなっているのか、というと、私にはそうは思えない。今の小中学校の多くは、私が過ごした管理教育の時代と違ってずいぶん開放的で、授業も楽しいものになっている。就職氷河期の時代に教員になっている先生たちが主力でもあり、そんな時代に教師になってる人たちだから、私から見ると粒ぞろい。教員として実に優秀な人が非常に多いと感じる。なのに不登校が増えるというのはどういうことか。私には、学校とはまた別の原因があるように思われてならない。
これはあくまで私の直感でしかないが、「群れ遊びの欠如」が非常に大きいように思う。これが非常に少なくなっているために、「学校は友達がたくさんいる場所、楽しい場所」と思える子どもが減っているのではないか、という気がしている。
私が小学生になる前、近くの公園に行けば様々な年令の子どもたちがいて、年長の子どもが「キックベースボールをしよう!」「鬼ごっこをしよう!」「ダルマさんが転んだをしよう!」と声をかけてくれ、年令様々な子どもたちが一緒に遊んだ。
すると、小さな子には手加減して、大きい子には容赦しないというほどよいバランスを無言のうちに子どもたちは実行して、どの年齢の子もそれなりにスリルを味わえるように工夫していた。ダルマさんなんかは、小さい子はすぐに動いてしまうのだけど、目こぼししたり。そうした年長の子らの優しさで、集団で遊ぶことの楽しみを、私たちはよく知っていた。
小学校に上がる前に、散々みんなと遊ぶことの楽しさ、興奮を知っていたから、そうした仲間がたくさんいる学校は楽しい場所として認識する子が大半だった。授業はつまらなかったけど、休み時間はみんなと遊べる楽しい時間。子どもからしたら、学校は授業を受けに行く場所ではなく、休み時間に友達と遊ぶ場所と捉えていた子どもが大半だったのではないか。
ところが今の子どもは、そうした体験を積むのが難しい。私の子ども時代には、公園に大人の姿はほとんどなかった。子どもばかり。砂場で小さい子が遊んでいて、それに母親が同伴してることはあったけど、それもなんならその場にいる子どもたちに遊んでもらったりしてたので、大人の数はほんとうに少なかった。
ところが今の公園は、大人が大量にいる。子ども同伴。そうすると子どもは親と一緒に遊ぼうとする。子ども同士の交流が発生しづらくなる。普段から顔をあわせていたら仲良くなれるかもしれないけど、せいぜい一人か二人。私の世代には普通だった、10人20人の群れ遊びは発生しづらくなっている。
キックベースボールの興奮を、私は今でも覚えている。小学6年生のお兄ちゃんは、幼い私にはゆるいボールを投げてくれる。それを力いっぱい蹴り、ボールを取った内野手は「いーち、にー、」と数えてから一塁に投げ、ギリギリセーフに。その嬉しさたるや。
他方、6年生が打席に上がると、投手は容赦なく剛速球。一塁に素早く送球。自分も成長してチカラがついたら、ハンデなしにプレイしたいものだ、と思ったものだった。
今の子どもは、そうした体験をすることが難しくなっているように思う。似たような年齢の子らと群れるのは基本楽しいことであり、そうした子らと会える学校は楽しい場所、と思える体験が、今の子どもたちには欠如しがちなのではないかと思える。そうした体験が欠如していたとしたら、子どもたちが大量に集まる学校を、必ずしも楽しいものとして捉えることは難しくなるのではないか。同じ年頃の子どもと遊ぶことの興奮、圧倒的な楽しさを味わったことのない子どもに、学校は楽しいところだよ、と感じろというのは、ややハードルの高いものになっている恐れがある。
もちろん、保育園や幼稚園などで子供たちは同じ年頃の子供と集団遊びする経験を積んでいる。ただし、これらの遊びは先生という大人が仕切っている遊びとなる。どうしてもそうした遊びはおしとやかなものとなり、身勝手なことはできなくなる。
しかし、仕切り屋の大人がおらず、子供達だけでルールを考え それを創造していく群れ遊びは、大人の仕切った集団遊びとは全く異なる興奮がある。べらぼうな喜びがそこにはある。この快感を知っているのと知らないのとでは、「同じ年頃の子供と遊ぶのは楽しい!」と信じる気持ちの強さが全然違ってくるように思う。
うちの子らがまだ小さい頃、同僚の虫の研究者が虫や植物を観察するムシムシ会というのを企画してくれた。子どもたちが何人も集まったのだけれど、一緒に遊ぶ気配はなかった。人見知りしてしまい、親のそばを離れない 子供が大半だった。
ところが、ムシムシ 会を開催して3回目ぐらいだったろうか、突如として群れ遊びが発生した。1人が「あっちに行ってみよう!」と声をかけると、子供たちは一斉にそちらに向かって「叫びながら」走り始めた。その場にいる大人たちなんかほったらかしで、子供達は大興奮で遊び続けた。虫や植物を観察するような場所だから遊具も何もない。でも、それがよかったのかもしれない。子どもたちは次々に工夫し、みんなで楽しめる遊びを創造し続けた。
大人の準備した遊びでもなく、出来合いのゲームでもなく、遊具もない環境だからこそ、子どもたちは工夫するしかなかった。みんなと工夫するしかなかったから「自分たちが思いついた遊び」ということが興奮を決定的に高めたらしい。
ここでは、こうした「子どもの創造による、子どもたちだけによる集団遊び」を「群れ遊び」と定義すると、一度こうした群れ遊びを経験すると、子どもたちは自動的に群れ遊びをするようになるらしい。
初めて訪れた場所で始めて会った子どもたちと、あっという間に打ち解け、群れ遊びを始め、帰ろうと声をかけてもみんな帰りたがらない、離れがたい気持ちになった。
こうした群れ遊びを経験すると、「みんな一緒に遊ぶのは楽しい!」となるらしい。その楽しさは強烈なものだから、基本、みんなといるのは楽しい、という気持ちになり、私たちの世代は「たとえ休み時間しか遊べなくても、その為に学校に行く」という動機に多くの子どもがなっていたように思う。
この「群れ遊びの欠如」を不登校の全ての理由にすることはもちろんできないが、不登校が増えた基礎的条件になっているように思われて仕方ない。何しろ、そこにいけば一緒に遊ぶと楽しくてならない時間が待ってる、とは思えなくなるわけだから。みんなと遊ぶことがそんなにもべらぼうに楽しいことだとは思えなくなるだろうから。
だからもしかしたら、不登校の個々の事情は様々だけど、不登校が全体として増加するという現象は、子どもが子どもと遊ぶことを楽しく感じるために非常に重要な「群れ遊び」が欠如していることが大きいのかもしれない。
保育園や幼稚園も、はたまた小学校も、大人の仕切る空間だから、子どもが創造する「群れ遊び」を発生させにくい。大人が介入すると群れ遊びは発生しづらい。さりとて、群れ遊びの経験のない子どもらが群れ遊びを自然発性させるには時間がかかる。うちの子らも、大人が子どもを基本ほったらかしの2時間ほどのムシムシ会を開催して三度目くらいにようやく群れ遊びが発生したくらい。大人が介入しない、しかし子どもたちがいる、という時間をそれなりに過ごさないと、無から有は生まれがたいらしい。ただ、一度群れ遊びを経験すると、知らない子が交じっても当たり前のように群れ遊びが発生する。
今の子どもたちは、個々で定義する群れ遊びの経験がゼロの子どもが多い。どうやったら子どもたちに群れ遊びの経験を取り戻せるか?幼い頃に経験しておけばおくほど、小学校に入ってから「楽しくない」になる確率が減るように思う。後になればなるほど、「みんなといても楽しくない」という経験が積み重なり、不登校の要因となる「なんとなくの不安」が高まるように思う。
以上は私の仮説でしかない。しかし、今のところ、不登校が増える大きな要因になっている気がしている。
