コミュニティ再生ではなく、公的責任の縮小だった
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地域の絆を強めれば、社会は良くなると信じていた
東日本大震災のあと、「絆」という言葉を数えきれないほど耳にしました。マンションの自治会で「顔の見える関係を作りましょう」と呼びかけられたときも、素直に良いことだと思い、当番を引き受けていました。人と人のつながりが強くなれば、それだけ社会は温かくなるはずだと考えていたのです。ただ、回覧板を次の部屋に届けるたびに、なぜこれを行政ではなく住民同士でこなしているのだろうという小さな引っかかりが、心のどこかから消えませんでした。伊豫谷登士翁・齋藤純一・吉原直樹著『コミュニティを再考する』(平凡社新書689)を読んで、この引っかかりの正体がはっきりしました。
「コミュニティ再生」は、公的責任を肩代わりさせる仕組みでもあった
本書の第1章「コミュニティ再生の両義性―その政治的文脈」で、政治哲学を研究してきた齋藤純一氏は、コミュニティ再生という言葉が持つ「両義性」を指摘しています。人と人の結びつきを取り戻そうという呼びかけは、それ自体は善意から出ていても、社会保障が縮小していく時代には、本来公的に担うべき福祉や支援を「地域の自助」という形で住民に肩代わりさせる政治的文脈と結びついてしまう、という指摘です。第2章「豊かさを共有できた時代の終焉」では、グローバリゼーション研究を専門としてきた伊豫谷登士翁氏が、格差が広がる経済の側面からこの問題を描いています。そして第3章では、都市社会学を専門とする吉原直樹氏が、東日本大震災後の日本を「『コミュニティ・インフレーション』化する社会」と呼んでいます。何か困難に直面するたびに「コミュニティ」という言葉が持ち出され、意味が薄まりながら増殖していく状況を指す言葉です。巻末には三人による鼎談「コミュニティ研究の射程と、現代への問いかけ」も収録されていて、それぞれの専門分野を超えてどのような論点が浮かび上がるかは、ぜひ本書で確かめてみてください。
自治会の当番表を見る目が、はっきりと変わりました
この本を読む前は、マンションの掲示板に貼られた当番表を見ても、面倒だけれど絆のためだから仕方ないと自分を納得させていました。回覧板を隣の部屋に届けるときも、深く考えることはありませんでした。読んだ後は、同じ当番表の前で立ち止まる時間が増えました。ゴミ置き場の清掃当番や見守り活動の担当を割り振る紙を見るたびに、これは本来どこまでが住民の役割で、どこからが行政の役割なのだろうと考えるようになったのです。先日、隣の住人と立ち話をしていて「最近この手の当番、増えましたよね」と言われたときも、以前なら「絆が深まっていいですね」と返していたところを、「行政のサービスが縮小した分、こちらに回ってきているのかもしれませんね」と答えている自分に気づきました。同じ掲示板、同じ当番表を見ているのに、そこから読み取る意味がまるで違っていました。
「絆」という言葉を、そのまま受け取らなくなりました
この本を読まなければ、私は「絆」や「コミュニティ」という言葉を、ずっと無条件に良いものとして受け取り続けていたと思います。政治哲学を研究してきた齋藤純一氏、グローバリゼーション研究を専門としてきた伊豫谷登士翁氏(一橋大学名誉教授)、都市社会学を専門とする吉原直樹氏(東北大学名誉教授)という、異なる分野を長年研究してきた三人が同じテーマに向き合っているからこそ、一つの角度からでは見えない構造が浮かび上がってきます。地域の集まりや職場の「チームの絆」といった言葉に、少しでも引っかかりを覚えたことがある方には、その正体を確かめてほしい一冊です。伊豫谷登士翁・齋藤純一・吉原直樹著『コミュニティを再考する』(平凡社新書689)はこちらから読めます。
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