映画評19 傑作『片思い世界』を見逃すな!(下)
【以下、ネタバレあり】
1「あとづけ」としてのSF的設定
「上」でも述べたように、本作では、美咲/広瀬すず、優花/杉咲花、さくら/清原果耶がゴーストとなった経緯についてのSF的/擬似科学的説明には、あまり力点が置かれない。
結果、ドラマの焦点は、生前には十分に意志疎通をなしえなかった者たちと思いを交わそうとする3人の言動に絞られ、それが見事に功を奏し、この映画を傑作たらしめたといえる。
脚本の坂元裕二自身、さまざまなレイヤー/層から成る多元宇宙という設定について、それはあくまで「あとづけ」だったと言っている(パンフレット)。
続けて坂元は、物理学と本作のモチーフの関係について、こう語るーー「『届かないはずだけど届く』『届きそうだけど届かない』というモチーフは昔からずっと書こうとしていることなので、物理の話というよりは、人と人との関係とか、心の中のことが先にあって、後から物理の勉強をしました」(同前)。
じっさい本作では、12年前にこの世を去った3人が、生前に深い関わりのあった者たちに、文字どおり「思い残したこと」を伝え、また前述のように、生前には叶わなかった、彼・彼女らとの十分なコミュニケーションを取ろうとするのだが、3人の心の機微が精妙に描かれていて、間然するところがない。
要するに坂元は、過度のSF的な整合性に拘泥(こうでい)することなく、見えることと見えないこと、聞こえることと聞こえないこと、さらに伝わることと伝わらないこととの間に、鋭い緊張が生まれるようにドラマを仕上げたのだ。
なお坂元は、『片思い世界』のシナリオについて、「ああ、これで最後でいいかも」と思い、「自分の脚本家人生は、これを書くためにあったんだな」と思ったとも述べている(同前)。
天才肌であり、努力家でもある坂元裕二は、まったくもって幸せ者だが、わがままな我々観客は、坂元脚本による次回作にも期待を寄せてしまう。
2 ロジックより女優の身体表現を
いっぽう、監督の土井裕泰は、「初めは多元宇宙という概念をロジカルに理解しなければと思って、そこに苦労していた」と語り、しかし、現実のレイヤーと3人の生きるレイヤーを彼女たちが行き来するというイメージが生まれることで、「概念ではなく、彼女たちの身体を通して表現する手がかりができたような気がします」、と述べている。
これまた、どこまで理詰めでSF的説明を入れるかをめぐる、作り手ならではの興味深い発言だが、土井の言葉どおり、今をときめく3人の女優が演じるゴーストたちの、歩く、走る、じゃれる、叩く、蹴る、跳ねる、といったアクションが、本作にビビッドな躍動感を与えている。いうまでもなく、広義のアクションこそ、映画の生命線なのだ。
そこを見ないで、奇抜な設定が納得できないと言って、首をひねっている人たちは、そもそもあり得ないことを視聴覚化する映画というものをーー「今ここで」生動している被写体の運動に目を向けずにーー、あまりに理詰めに、頭でっかちに鑑賞しているのではないか。
もっとも、やはり坂元裕二が脚本を書いた『ファーストキス 1ST KISS』(塚原あゆ子、2025)や、『怪物』(是枝裕和、2023)が凡作であったことは、また別の話だ。
(ここでは詳述しえないが、とりあえず言えるのは、前者ではタイムトラベルを感傷的なロマンチック・ラブの道具として下手に使ったことがマイナスに働いた、ということ、後者では、3人の視点人物による意図不明な「藪の中」形式や、幼い者たちの性的指向を思わせぶりに暗示するあざとさなどが、映画的リアリティーを致命的に損なった、ということだ。)
3 映画狂としての坂元裕二
「キネマ旬報」2025年4月号掲載の、「ーー坂元裕二 語り起こしーー僕が見てきた映画と、映画について考えたこと」は超必読であるが、坂元の偏愛する映画作家/作品群を目にすると、彼のシネフィル(映画狂)ぶりに圧倒される。
ーーフランソワ・トリュフォー(とくに『恋のエチュード』(1971)!)、エリック・ロメール、成瀬巳喜男、ジャック・タチ、ジョン・カサヴェテス、そして相米慎二(!)、そしてさらにエルンスト・ルビッチ(!)。
(「映画修行」の場所のひとつが、今はなきシネ・ヴィヴァン六本木だった、というのも感動的だ。)
ともかく凄まじいリストだが、「20代ですでに新作には興味がなかった、残りの人生もトリュフォー、カサヴェテス、ロメールさえ繰り返し観られたら、もう満足です」、といった過激な発言も飛び出す。当代きっての名脚本家としては意外な発言にも思われるが、しかし、思わず快哉(かいさい)を叫びたくなるような言葉だ(私にはこう言い切る勇気はないが)。
また、脚本を取り除いた部分に映画の面白さがある、脚本家は「映画的な瞬間」みたいなものには、触れられない、という意味の、脚本家のジレンマも語られる。しかし、我々はこの坂元の発言を、どう受け止めればいいのかーー。
4 黒沢清作品の独創的アレンジ!?
坂元裕二/土井裕泰が意図したかどうかは不明だが、『片思い世界』ではーーきわめて興味深いことにーー、1967年生まれの坂元が、東京藝術大学の教員として同僚だった、12歳年長の黒沢清監督の執着するいくつかのモチーフを、独創的にアレンジしているようにも思われる。
たとえば、美咲、優花、さくらの住む、いくぶん「廃墟」的な古い一軒家。しかもその一軒家は、こちら側の世界では、さらに本格的な廃墟=がらんとした空き家であり、門は錆び付き、庭には落ち葉が積もり、雑草が生い繁っている。(「廃墟・廃屋」は黒沢清のトレードマークである。)
さらに何と、そこに客を連れてやって来る不動産業者に扮するのは、黒沢清の傑作『Chime』(2024)で主役の料理教室の講師を演じた、変に甲高い声の名優、吉岡睦雄なのだ!
あるいは、「ゴースト」。これについては解説不要だろうが、むろん、黒沢映画の不気味な幽霊たちとは異なり、売れっ子女優らが扮する3人のゴーストは、みな快活でチャーミングだ。
ただし、最終盤で、典真/横浜流星が美咲を抱きしめると、彼女の姿がすっと消える瞬間は、黒沢の傑作『叫(さけび)』(2006)のそれーー役所広司が小西真奈美を抱きしめるところーーを連想させてやまない。
さらに、美咲がある夜、典真と何度めかに乗り合わせるバスは、黒沢清映画でお馴染みの、あの空中を走行するような浮遊感を放ち、しかも、窓外の夜景は一部、おそらく、黒沢好みのスクリーン・プロセスが使われている。
そしてさらに、前述のように、『片思い世界』で殺傷事件の加害者・増崎/伊島空を見舞うアクシデントの場面は、リチャード・フライシャー『絞殺魔』への目配せであると思われるが、そのフライシャー作品のワンシーンは、やはり黒沢清の『叫(さけび)』でも「引用」されている(黒沢は自他ともに認めるフライシャー狂だ)。
(もちろん、『片思い世界』における、土井による役者たちの演技設計、あるいは作風、ルック(画調)は、黒沢清作品のそれとはまったく異なっている。)
5 片思い世界としての現実/日常
映画の外の、この現実を生きる我々も、まさしく「片思い世界」を生きている。家族や、親しい友人、あるいは同僚、ペットと、我々は完全なコミュニケーションを取ることなど、絶対にできない。
つまり、我々の思いは、他者の思いと、必ずどこかしらズレている。我々は、他者と理解しあっている、という錯覚のもとで生きている、と言ってもいい。もっとも、互いにまったく理解できない、という(他者との)関係も少なからず存在するが。
要するに人間同士は、さまざまな程度でディスコミュニケーションを生きているのだ。
また、距離によって隔てられた、ガザやウクライナやミャンマーやシリアの死者たち、あるいは国内外を問わず、地震や水害や交通事故や殺人事件の犠牲者たちと、こちら側の我々は、ほとんどの場合、思いを交わすことはできない。彼、彼女らに関心をもち続けることも難しい。その意味で、人間はみな孤独であるほかはない。
ーーこうしたことを、『片思い世界』を見て、考えさせられたが、それはむろん、この映画から教訓やメッセージを読み取った、ということでは毛頭ない。
坂元裕二はまた、世界で起きている戦争や、それに付随する虐殺などに対する、脚本家としての自身のスタンスについて、次のような注目すべき発言をしている。
ーー「たとえば、戦争や虐殺の行為なんかにしても、プラカードにして批判することはできるし、署名運動などの活動もできるけど、多くの人は無力感が同時にあると思うんです。自分が(脚本家として)描くことはそこだと思ってますね、不条理な出来事に対して、人がどれだけ無力だと受け止め、その上でどう抗おうとしたかということは今回も映画にしたいと思ったことですね。」
(この言葉にも、【異なる世界への片思い】という坂元の思想が見て取れるだろう。)
さらに坂元は言うーー「(・・・)個人を描きながら、どうしてこういう個人が出来上がったのか、何に対して抗おうとしているのか、(社会や組織の中にーー引用者補足)取り込まれているのか、という背景が(・・・)ストーリーの中で滲み出るのがいいと思うんです。社会問題を糺(ただ)したくて物語を作っているんじゃないんので。やっぱり人が直面する不条理劇として描きたい。」(前掲「坂元裕二ロングインタビュー」)
これらはいずれも、決定的に貴重な発言だが、私見では、坂元がここで述べているのは、こういうことだと思う。
ーー社会問題に安易にコミットし、それを社会派的メッセージ映画に仕上げてしまえば、その内容が保守的であろうとリベラルであろうと、またLGBTQ擁護であろうと、そのアンチであろうと、それはつまるところ、性急なプロパガンダ映画に近いものになってしまう、ということではないか。
つまり、劇映画はあくまで、個人を描くことで、その背後にある「社会」を浮き彫りにすべきだ、と坂元は述べているように思われる。むろん、これだけではあまりに舌足らずだが、ここではひとまず、こう記しておく(読者の意見を仰ぎたい)。
■補説
『片思い世界』から連想される映画ベスト15 (製作年順。必ずしも作風や物語内容は似ていない。)
● 1『幽霊と未亡人』(ジョゼフ・L・マンキーウィッツ、1947)
●2『雨月物語』(溝口健二、1953)
●3『楊貴妃』(溝口健二、1955)
●4『恐怖の足跡』(ハーク・ハーヴェイ、1962)
●5『荒野のストレンジャー』(クリント・イーストウッド、1973)
●6『HOUSE ハウス』(大林宣彦、1977 : 記念すべき大林唯一の傑作! )
●7『ペイルライダー』(クリント・イーストウッド、1985 )
●8『ベルリン・天使の詩(うた)』(ヴィム・ヴェンダース、1987/ヴェンダース最盛期最後の映画だが、黒沢清作品の空中を浮遊するバスの着想源は、本作にあり!)
● 9『東京上空いらっしゃいませ』(相米慎二、1990)
● 10『シックス・センス』(M・ナイト・シャマラン、1999)
●11『アザーズ』(アレハンドロ・アメナーバル、2001)
● 12『コッポラの胡蝶の夢』(フランシス・フォード・コッポラ、2007。なおコッポラの新作『メガロポリス』が今年/2025年6月20日に日本公開される)
●13『ヒアアフター』(クリント・イーストウッド、2010/知る人ぞ知る、イーストウッドの最高作の1本だが、本作や上記の西部劇2本には、超常現象や幽霊に対する彼の偏愛が示されていて、興味深い。またイーストウッド作品には、マッチョイズム(男らしさの誇示)やナルシシズム(自己陶酔)が稀薄であり、かつマゾヒズム(被虐嗜好)がしばしば見られる点もユニークだ)。
● 14『岸辺の旅』(黒沢清、2015)
● 15『ア・ゴースト・ストーリー』(デヴィッド・ローリー、2018)
(本稿を書くにあたって、映画研究者・坂尻昌平氏のご教示を得た。記して感謝する。)
