『みいちゃんと山田さん』を社会派作品として称賛するのは、差別を理解に言い換えているだけだ
『みいちゃんと山田さん』のアニメ化そのものに反対するつもりはない。
作る自由はあるし、見たい人が見るのも自由だ。表現の自由という言葉を持ち出すまでもなく、それは当然のことだと思う。
ただ、この作品を「今の社会に必要な作品」や「障害への理解を深める社会派作品」として称賛する風潮には、かなり疑問がある。
この作品によって広がるのは、本当に理解なのだろうか。
むしろ、社会がもともと持っていた偏見に「これは現実を知ったうえでの正しい認識だ」という根拠を与えてしまうのではないか。
私が問題だと思うのは、みいちゃんのような人物をフィクションに登場させたことではない。
一人の人物を描いた物語が、いつの間にか「こういう人たちの現実を描いた作品」として扱われていることだ。
「こういう人もいる」という話と、「こういう人とは、こういうものだ」という話はまったく違う。
しかし、「社会派」という言葉は、その違いを簡単に曖昧にしてしまう。
「現実を描いている」は、あまりにも便利な言葉だ
この作品への批判に対して、よく「実際にこういう人はいる」という反論がされる。
それは事実だろう。
他人の意図をうまく理解できない人もいる。危険な判断を繰り返す人もいる。周囲の助言に応えられず、結果として他人を疲れさせてしまう人もいる。
だが、現実に存在することと、その人物像が現実を代表していることは別である。
作品の中で描かれるのは、現実そのものではない。
誰のどの行動を見せるのか。何を強調し、何を省くのか。誰の視点から眺めさせ、どんな結末へ向かわせるのか。
そこには必ず作者の選択がある。
『みいちゃんと山田さん』も例外ではない。
それにもかかわらず、この作品はしばしば「普段は見えない社会の現実を描いた作品」として評価される。
この評価によって、みいちゃんの人物像は単なるフィクションの登場人物ではなくなる。
視聴者にとって、障害や認知上の困難を抱えた人を理解するための、一種の見本になる。
話が通じない。
何度助けても同じ失敗をする。
周囲の人間を疲れさせる。
善意を差し出されても、それを無駄にする。
最後には、自分から破滅へ向かってしまう。
こうした印象は、障害のある人に対して社会が以前から抱いてきた偏見と、それほど遠くない。
この作品が見せているのは、誰も知らなかった新しい現実なのだろうか。
単に、昔からある偏見を、説得力のある物語として並べ直しているだけではないのか。
それを「社会理解」と呼んだ瞬間、偏見は偏見ではなくなる。
自分は差別的な見方をしているのではなく、作品を通して現実を学んだのだと思えてしまう。
そこが一番危うい。
「社会派」という評価が、感情を事実に変える
フィクションとして読むのであれば、どんな人物が描かれていてもいいと思う。
極端な人物も、救いのない人物も、見ていて腹が立つ人物も、物語には登場していい。
しかし、「社会派作品」という評価がつくと、受け取られ方が変わる。
これは単なる作り話ではない。
実際の社会問題を描いた作品である。
見ることで、現実への理解が深まる。
そういう前提が生まれる。
すると、視聴者が作品を見て抱いた感情まで、現実に対する正しい認識として扱われるようになる。
みいちゃんの言動に苛立てば、「こういう人と関わるのは本当に大変なのだ」と思う。
山田さんの苦労に共感すれば、「支援する側はここまで振り回されるのだ」と思う。
みいちゃんが助言を受け入れられなければ、「結局は本人が変わらなければどうにもならない」と思う。
もちろん、作品が直接そう主張しているわけではない。
だからこそ厄介なのだと思う。
作品から受けた印象が、明確な主張ではなく「現実を見た結果」として視聴者の中に残る。
ただ一人のキャラクターに腹を立てただけなのに、障害や福祉の現実を知ったうえでの判断だと思えてしまう。
偏見を持ったのではない。
現実的な理解を得たのだ。
本人がそう信じている以上、その認識を自分で疑うことは難しい。
差別的な感情を露骨に語る人より、「現実を知っているだけです」と語る人のほうが、場合によっては厄介である。
前者は少なくとも、自分が批判される理由を理解できる。
後者は、自分を冷静で理解のある側に置いたまま、同じ偏見を語ることができるからだ。
みいちゃんに自己責任を求めることの無理
みいちゃんの行動を見て、周囲が疲れる理由はよく分かる。
言われたことを守れない。危険な相手から離れられない。何度助けられても、また同じような状況に戻ってしまう。
これが繰り返されれば、「ここまで周囲が助けたのに」と思うのは自然だろう。
本人にも責任があるのではないか、と考える人が出るのも分かる。
ただ、みいちゃんは、一般的な成人と同じ条件で判断し、選択し、行動できる人物として描かれていない。
選択肢を与えられたことと、その意味を理解して適切に選べることは同じではない。
忠告を受けたことと、その内容を今後の行動に反映できることも同じではない。
危険だと説明されたことと、その危険を実感し、自分の欲求を抑えて回避できることも違う。
そこに大きな困難がある人物を、一般的な自己責任の基準で評価することには無理がある。
しかし、物語の中では、周囲が助けようとすればするほど、みいちゃんの「助けても変わらない人」という印象が強くなっていく。
支援を受けても失敗する。
忠告されても繰り返す。
安全な選択肢を示されても、危険な方向へ戻ってしまう。
結果として視聴者の記憶に残るのは、本人が適切な選択をできない原因や、支援制度の限界ではない。
「こういう人は、どれだけ助けても無駄なのではないか」という感覚である。
それを見て「障害者への理解が深まった」と言うのであれば、その理解とは一体何なのだろう。
助けても変わらない人がいると知ることなのか。
周囲が苦労させられる現実を知ることなのか。
それは理解というより、距離を置くための理由を手に入れただけではないか。
山田さんは、視聴者を安全な場所に置いてくれる
山田さんは、みいちゃんを露骨に馬鹿にする人物ではない。
話を聞き、心配し、何度も助けようとする。
作中のほかの人物と比べれば、善良に見えるのは当然だと思う。
しかし、善良であることと、相手を対等な人間として理解していることは同じではない。
山田さんは常に、みいちゃんを観察し、判断する側にいる。
何が危険なのか。
どの選択が間違っているのか。
どうすれば、よりまともに生きられるのか。
それを判断できるのが山田さんであり、判断できないのがみいちゃんである。
もちろん、能力や状況に差がある以上、完全に対称な関係にはならない。
問題は、視聴者が自然と山田さんの側に置かれることだ。
視聴者は、みいちゃんを笑う人物とは違う。
露骨に差別する人物とも違う。
自分は彼女を心配し、理解しようとする側である。
そう思うことができる。
その安心感があるからこそ、視聴者は自分の見方を疑わずに済む。
みいちゃんを「理解してあげる対象」として眺めながら、自分は偏見のない人間だと思える。
だが、「理解してあげる側」と「理解される側」に人間を分けること自体が、すでに対等な見方ではない。
山田さんは、視聴者を差別する側から救い出してくれる。
代わりに、「善意を持って評価する側」という、もっと安全な場所へ置いてくれる。
だから私は、山田さんを単純な理解者だとは思えない。
むしろ、視聴者が自分の優越感や偏見に気づかないまま物語を見るための、非常に都合のいい存在に見える。
露骨に悪意を向ける人物よりも、理解者の立場に疑問を持たない人物のほうが有害なこともある。
悪意は批判される。
善意の形をした偏見は、「寄り添い」や「理解」として称賛されてしまう。
アニメ化で広がるのは、物語の文脈だけではない
漫画とアニメでは、作品の広がり方が違う。
漫画は、基本的には関心を持った人が自分で選び、自分の速度で読む。
アニメはもっと広い。
映像や声、音楽がつき、短い場面だけが切り抜かれ、作品を最初から見ていない人にまで届く。
みいちゃんの失敗や、会話がうまく成立しない場面、周囲を困らせる場面だけが拡散される可能性もある。
そこで広がるのが、福祉や支援への関心だけだとは到底思えない。
「こういう人とは関わりたくない」
「助けても意味がない」
「結局は本人の責任だ」
「こういう女、実際にいる」
そういう反応のほうが、はるかに簡単に共有される。
丁寧に作品を見て、支援制度について考える人もいるだろう。
しかし、一部の視聴者が深く考える可能性があることは、多くの人に単純な人物像が広がる危険を打ち消さない。
「考えるきっかけになる」という言葉は便利だ。
どんな描写でも、誰か一人が深く考えれば社会的意義があったことにできる。
だが、考えるきっかけになれば、どのような印象が広がっても構わないわけではない。
作品の意図だけではなく、その作品がどのような文脈で評価され、どのような認識を社会に残すのかまで考える必要がある。
特に「社会派作品」として売り出すのであれば、なおさらだ。
娯楽として作りながら、批判されたときだけ「現実を伝える意義」を持ち出す。
その態度は、かなり都合がいいと思う。
表現の自由は、称賛される権利ではない
この作品をアニメ化してはいけないとは思わない。
作る自由も、見る自由もある。
ただし、表現の自由とは、社会から意義のある作品として称賛される権利ではない。
批判されない権利でもない。
作品が偏見を強める可能性を指摘しただけで、「表現規制だ」「嫌なら見るな」と返すのは話が違う。
作品を禁止することと、作品の社会的な評価を批判することは同じではない。
本当に表現の自由を大切にするのであれば、作品を作る自由だけでなく、その作品を批判する自由も認めなければならない。
自分の好きな表現だけを守り、その表現への批判を封じようとするのは、自由の擁護ではない。
『みいちゃんと山田さん』はアニメ化されてもいい。
ただ、それを障害への理解を深める作品として、無条件に称賛するべきではない。
悲惨な人生を描けば、社会派になるわけではない。
差別的な人物を悪役として登場させれば、作品そのものが反差別になるわけでもない。
作者に善意があれば、偏見が広がらないわけでもない。
この作品を見て「現実を知った」と感じたときこそ、その現実が誰によって、どのように切り取られたものなのかを疑うべきだと思う。
社会派という言葉をつければ、偏見まで理解に変わる。
そんなに都合のいい話はない。
