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もしも復活が真実ならば──義務教育的な伝道という思索

※この記事は、キリスト信仰に関する、一つの思索です。ご自由に判断して下さい。違うようにも感じられるかもしれませんが、書き手、読み手ともに信教の自由を尊重したいと考えています。

はじめに

私はときどき、こう思うのです。

もしイエス・キリストの復活が本当に「客観的な真実」だとするならば──
それが空想や願望などの産物ではなく、実際に歴史上で起こった、神による確かな行為だとするならば──

なぜ、それはもっと当然のこととして教えられていないのか?
なぜ、義務教育のように、誰もが子どもの頃から学ぶ内容として伝えられていないのか?

もしも復活が真理なら、それは、単なる個人の宗教的思いに留まらず、世界の中心を揺るがす出来事であり、人間の死生観、倫理観、人生観、すべてが根底から変わって当然の出来事のように思います。

教会の教えによれば、これは数百人の目撃証言と、使徒たちの殉教によって裏づけられているとされています。

なぜ、それほどの出来事が、知る人と知らない人に分かれ、信じる機会を持つ者と、何も知らずに人生を終える者とに分かれてしまうのか?


本来、誰にでも知られるべき真理では?

キリストの復活が、信じる人の空想や願望や気持ちに過ぎないのだとしたら、特に人に伝える必要はないかもしれません。

しかし新約聖書が、教会が語るには、キリストの復活は真実だと言う。
本当は嘘なの?
本当に本当なの?
信じるか信じないか、それはあなた次第です、なのか?

もしもキリストの復活が真実であるとするならば…。

日本では、すべての人が通ることになっている義務教育を通して、基本的な読み書き計算や、社会のルール、道徳、歴史などが教えられます。なぜなら、どの子どもにも「正しいことを知る権利」があるとされているからでしょう。

であるならば──
もしもキリストの復活が真実であるならば、それはまさに人間にとって、最も重要な「正しいこと」のはずです。それは、人が神によって義とされるためにも。ならば、どの子どもにも、それを知る「権利」があるのではないでしょうか。

教会の本来の使命とは?

だからこそ、教会には本来、次のような使命があるはずです。

それは、閉じられた空間になるのではなく、むしろ、信じていない人や、これから信じるかもしれない人たちに向けて、真理を開かれた形で、親切に、誠実に、そして確かに伝える場所であるのが望ましいのでしょう。

そして、そこに集う一人ひとりもまた、「正しいことを正しく伝える」という責任を分かち持つのだろうと感じます。それは押しつけではなく、共有の願いです。まるで義務教育の教師が、文字の読み方を子どもに教えるように──そこには、愛と希望があることでしょう。


偏った情報と、信じる機会

現代では、YouTubeなどを通して信仰について学ぶ人が増えています。確かに、素晴らしい方々も多く存在することでしょう。しかし一方で、偏った情報や、極端な解釈、誤解を生むような語りも見られるように思います。

新約聖書が言う、本当に大切なこと──
神の愛、イエス・キリストの贖罪と復活、そして信じることによる義──
これらを、誠実に、わかりやすく、偏りなく伝える場がなければ、人々は何を信じればいいのでしょうか?

教会がその役割を果たせないとき、信仰は孤立し、真理は個人の選別能力に委ねられます。しかしそれは、誤りも多い、情報社会の荒波の中に一人投げ出されるようなもので、あまりに危うい現実かもしれません。

しかし、実はこうも言えるのかもしれません。
神の計画は、見えない水面下で進んでいる。気付いた時に、一気に押し寄せてくる。もしかすると、実はそうなのかもしれません。


伝えることは、押しつけではなく、分かち合い

「復活が真実ならば、なぜ神は全員に知らせてくれないのか?」

この問いに対する答えについて、このように言う人もいます。

その重大な使命を、人類に任せている。

復活のイエスは弟子たちに「行って福音を伝えよ」と命じたとされます。

仮に復活が真ならば、それを知らせることは「信仰を押しつけること」ではなく、「分かち合おうとすること」なのだと、思います。


もしもキリストの復活が真実ならば・・・

聖書の教えは、最終的に、この思いに行きつくことだと思っています。

その日、エッサイの根が立ち上がる。それは諸国の民の旗となり、異邦人たちは彼に求めを向け、彼の安息の場は栄光に満ちる。

旧約聖書・イザヤ書11章10節(翻訳)


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