高原剛一郎さん『世界は聖書でできている』を読んで
※この記事は特定の信仰理解を断定するものではありません。信教・思想・良心の自由を尊重しつつお読みいただければ幸いです。
1. はじめに
最近、高原剛一郎さんの著作 『世界は聖書でできている』 を読み終えました。
高原さんは、著書紹介欄にて「日本を代表するキリスト伝道者」と紹介されており、YouTube「ごうちゃんねる」はキリスト教界屈指の人気を誇っているといいます。
これほど広く知られ、教会外の方々にも届く語り方ができる人はそう多くはないとも思われます。
そのため、私自身も「一体どのような信仰理解をもって語っているのか」と興味をもって読みました。
2. 本書の内容から読み取れる信仰姿勢──福音派の明確さ
本書全体を通じて強く感じたのは、
「福音派」
「聖書無誤派」
という二つの傾向でした。
「聖書無誤派」は私が用いている言葉であるため、一般的にはほとんど使用されていないのですが、信仰の現実を見分けるために便利な言葉なので使用しています。
特に以下の点は、キリスト教の核心的な信仰内容と一致しています。
イエス・キリストの処女降誕
十字架の贖罪
身体の復活
昇天の事実
旧約聖書にある預言の成就(ただし程度の差はある)
これらは、歴史的に見て、正しいとされるキリスト教の中心部分であると考えることができます。
3. 高原剛一郎さんが「ディスペンセーション主義」とされることについて
※ここは本書外部の情報であり、本文から直接読み取れない点
高原さんが福音派の中でもディスペンセーション主義的であるという情報は、あくまで本書の外部から得られたものです。
本書『世界は聖書でできている』の中には、
「ディスペンセーション主義」という単語
「救済史の区分」
「イスラエル民族を完全区別する読解の仕方」
などの明示的な記述はなかったと思われます。
ただし、「旧約預言を歴史に文字通り照らして読む」、「ユダヤ人に対する神の扱いを特別視する」という特徴から、福音派の中でもディスペンセーション的な要素が感じられる、というような間接的な印象は確かにありました。
したがってこの記事では、「ディスペンセーション主義であるという断定は避け、あくまで外部情報による周知の傾向として扱う」という立場を明確にしておきます。
4. 旧約預言とユダヤ人の祝福──本書が強く語るテーマ
本書では、旧約聖書の預言と世界史を結びつけながら、「ユダヤ人を大切に受け入れた国は発展し、世界的に覇権を握る」という主張が語られています。
確かに、ユダヤ人は少数でありながら世界で大きな役割を果たし続けてきたと考えることができるのかもしれません。
ノーベル賞受賞者
政治・経済のキーパーソン
科学・芸術の巨匠たち
など、多くの面で現在においても影響力が大きいのは事実です。
5. 因果関係の二重性──「祝福か、移動か」という異なる視点
しかし、本書の因果関係の説明において、少し違う側面もあるのではとも感じる要素がありました。
「ユダヤ人を大切に受け入れたから発展した」というだけではなく、「発展していたからユダヤ人が集まってきた」というような側面もあるのではないか。
歴史的に見ても、ユダヤ人が向かった地域の多くは、
政治的に安定している
経済が発展している
迫害を逃れやすい
学問が盛んである
などの特徴を持っていた国々であるようにも考えられます。
つまり、ユダヤ人の祝福という旧約聖書の預言を適用するような視点と歴史・社会学的な移動の要因は、どちらも理由として成立し得るものではないかと感じました。
ここは、よりディスペンセーション主義的な読み方と、そうでない読み方の間で差が出る部分ではないかとも思われます。
6. アブラハムの子孫とは誰か──新約聖書との向き合い方
続いて考えさせられたのが、「アブラハム召命」の祝福の問題です。
本書では、アブラハムの祝福が、キリスト以後のユダヤ人にも続いているという理解が示されていました。
しかし、パウロは『ガラテヤの信徒への手紙』の中でこのように書いています。
(キリストへの)信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であると知りなさい。
もしあなたがたがキリストのものなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
この視点からすると、
旧約の民族的なイスラエル
新約のキリストへの信仰によるイスラエル(キリスト信仰者)
という区分が浮かび上がります。
個人としては、この「信仰によるイスラエル」という理解に真理性があるように感じています。
そのため、本書の強調とは少しずれを感じたのも事実です。
7. しかし──強い印象を与えたのは、この「まっすぐさ」だった
ここまでやや批判的な点を述べてきましたが、本書を読んで最も強く印象に残ったのは、批判ではありません。
それは、「これほどまっすぐに、揺るぎなく信じて語れる人がいるという事実そのものが、他の信仰者にとって大きな励ましになる」という点でした。
迷いのない語り
高原さんは、キリストの処女降誕も、贖罪も、復活も、昇天も、すべて歴史的な「事実である」と力強く語ります。
その迷いのなさに、すごいと思いました。
私は細かな部分で立ち止まり、疑問を覚え、慎重に読み進めるタイプの信仰者です。
だからこそ、
迷わず語れる人
素直に受け取れる人
聖書をそのまま信じられる人
がいるということは、信仰共同体の全体にとって大きな財産なのだと感じる部分があるのです。
信仰共同体には「多様な役割」があるとされる
新約聖書においても、パウロはこのように語ります。
身体とは多くの部分が一つになって働くものです。ある人は目のように、ある人は耳のように、ある人は手のように働いています。
まっすぐ語る人がいて、慎重に疑問を検討する人がいて、文化や歴史を分析する人がいて良いのではないだろうか。
そういう意味では、福音派・無誤派のまっすぐな信仰は、求道的な信仰者にあったとしても、大きな励ましを与えてくれるのだと感じました。
8. おわりに
考え方や信仰の姿勢が異なると「強調点」が違うというのも当然のようにも思われます。しかし、
迷いのない福音の宣言
日本で伝道を続けてきた実績
これらに関しては、どのようなキリスト信仰者の立場から見ても尊敬すべきものであるようにも思われます。
今回の読書を通して、
立場が違っても、互いに学び合い、補い合うことができる。
そして、まっすぐ語る人の存在は、多くの信徒の励ましになる。
というようなことを感じました。
また、信仰の姿勢を問い直す機会にもなりました。
同じキリストを信じる者として、異なる立場の信仰が互いを励まし合うということも、信仰する人々の中にある豊かさなのだと感じました。
