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無意味と非意味 - アートとあなたの存在意義(の不在)について

「芸術が何の役に立つのか」という質問があるとき、どのように答えるべきでしょうか。noteで創作活動をしている人であれば、意地悪な誰かから「わざわざそんなことに時間を割いて何の意味があるの?」と言われた場面を想像してみてください。

これに対する適切な答えは、「そもそも芸術は役に立つ・立たないの問題ではない」というものになると思います。「意味があるのか、ないのか」という質問に「ない」と答えているのではなく、「あるなしではない」という形で質問の枠組みそのものを否定しているわけですね。適当な造語にしてみるなら、これは意味に対する「無意味」とは別の「非-意味」の話だということになります。

たまたま自分が美術好きで、冒頭の質問が芸術全般の価値を否定しているように聞こえてムッとしたとしても、ここで「ある」と主張すること、つまり「芸術が世のため人のためになる理由」を躍起になって証明しようとするのはあまりよくないんです。たぶん、それではこの質問者と同じ穴に落っこちることになります。

前提や論点の設定がおかしいとき、その議論に勝とうと(負けまいと)してしまうのはまずい対応でしょう。質問自体に含まれている問題点を整理しない限り、不毛で不愉快な口論が生まれるだけだからです。

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それが意識的なものにしろ、無自覚なものにしろ、この質問者は「人や物は他の何かの役に立つために存在している」という世界観を取っています。

この人に言わせるなら、存在しているものには理由がなければならず、行為には目的がなければならず、その存在と行為はメリットを生まなければなりません。公園に植えた木がベンチに木陰を作ってくれるとき、その木は人様の役に立っているので、その木は存在していてよいです。山に生えている木々は、伐採すれば木材として人の生活の役に立ってくれるので、その木は存在してよいです。

このとき、木々は何のためにでもなく存在しているとか、木々は木々としてそれ自体のために存在しているといった視点は想像すらもされていないようです。今挙げられた「理由」や「目的」は、いずれも当の存在の外部にあります。

これは大変に貧しい世界観だと言わなければなりません。通常、「役に立つ」というのは物質的、実際的なメリットのことで、その判断基準は平たく言えば「カネになるかどうか」の一点に集約されます。

芸術の価値ということを考えるなら、そこに「お金では測れない価値がある」とか「物質的な豊かさ以外の豊かさを示すことが芸術の社会的な役割だ」といった言い方をすることもできるでしょう。それはそれで合っています、そのとおりだと思います。

しかし、そこには依然として「価値がある」「役割がある」という旧来の枠組みが残されています。価値や役割のあるものは存在してよく、芸術には価値があり、役割があるので、存在していてよい。これは考え方として健全なものでしょうか。

おそらく、当の芸術そのものが、このような世界観への抵抗を多分に含んでいます。そういうメッセージを社会に送るために作品が作られているとか、アーティストは常識や時流に逆らわなければならないとか、そのようなことは言っていないです。それでは落とし穴に仲良く落っこちる話の繰り返しになってしまいます。

アーティストは作品それ自体のために、表現という行為それ自体のために、そのように存在している自分がそのようにあり続けるためにそれを行います。社会というのは個人に対して圧力を加えることもあるので、「ただの木」として存在する自分がそのままであるためには、ときに伐採者に対して抵抗を行う必要もあるでしょう。しかし、掃除をすることが家に住むことの目的ではないように、この抵抗は第一目的ではありません。

これを「芸術に目的などない」と言ってもよいし、「それ自体が目的である」と言ってもよいです。細かい言葉の定義などは重要ではありません。定義するということは固定するということで、それも木を殺そうとする圧力の一部だからです。

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別の質問を取り上げてみます。「人生に意味はあるか」という問いかけに対して、あなたは何と答えるでしょうか。

大筋では、ここに必要な態度はさきほどの質問に対するものと同じです。「意味があるのか、ないのか」という質問の枠組みに問題があります。「意味がない」のではなく「意味の問題ではない」というのがその答えです。

去年出した書籍の中で、私はここに「客観的な意味」と「主観的な意味」という区別を示しました。「意味」は「価値」と読み替えることも可能です。木々の客観的な価値とは、木材や森林機能としての利用価値のことです。そこで、あなたの客観的な価値とは、あなたの生涯収入にだいたい等しいと言えます。

資本主義の原則は「他人が必要としているものをうまく提供できた人間に利益が渡る」というものです。虚業で儲けている人間がいるとか、エッセンシャルワーカーの賃金が低いといった指摘はあるにしても、経済の仕組みがこうなっている以上、人よりも特別に役に立つ人間であるなら、収入の高さがそれを間接的に示してくれると考えるのが自然です。客観的な物差しによって考えるなら、どうしてもそうなります。

それでも、こうした生産能力を個人の価値に結びつけるというのは馬鹿げているでしょう。さきほど「人生は意味の問題ではない」と述べたのは、「人生の意味や人間の価値というものを、客観的な意味や価値の問題と取り違えてはならない」ということです。芸術の存在意義というものが、客観的な利用価値や役割に根拠を持つものではなかったことと同じです。

あなたがそこに「意味がある」「価値がある」と感じるなら、それは実際に、事実として意味があり、価値があります。客観的な事実としてではなく、主観的な事実としてです。ここに他人様や世間様のジャッジは何ら影響力を持ちません。

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そもそもの話、「価値があるなら存在していてよい」というのは、なかなかに尊大な発想ですね。多少なりとも常識や良識を持ち合わせている人であれば、他人が価値を感じているものに対して「何の意味があるのか」などとずけずけと言うことはないでしょう。

この人物は他人の価値を自分が判断できると思っており、そこに対して存在を許可したり許可しなかったりすることができると思っているわけで、ほとんど神様のような発想です。価値のある者は存在してよい、なぜならそれは価値があるから。みなさんも世界史の時間に習ったと思いますが、かつて存在したナチスドイツはそのようにして「価値のない人々」をガス室に送りました。

こうした歴史を引き合いに出すのは、少々話が大きすぎたかもしれません。ガス室の話のおぞましさは誰にでもわかります。また、大抵の人は「お金はお金で大切だ」と当たり前に認識しながら、「お金で測れるものだけが重要なのではない」という話にも同意します。ここまではいいです。だいたいの人は既にわかっています。

そこで、今回考えたような「何も意味がなくてもそれ自体で意味がある」という視点はどうでしょうか。おそらく、この指摘はまだそこまで広く理解されていません。アートの話としてもそうですし、私たち自身の生き方の話としてもそうです。

どれだけ欠点だらけのポンコツであろうと、私たちはそのままに生きていてよいのですが、この「よい」というのはよい悪いの「よい」ではないんですね。許すか許さないかの「許す」でもないです。そこに承認が必要だなどと思わないでください。そのような声に取り合ってはなりません。

評論家や世間の声に耳を傾けるのではなく、あなた自身の内なる声に耳を傾けてください。美術や音楽や執筆をやっている人でも、やっていない人でもそうしてください。あなたに値札を貼ることのできる人間はいません。

関連書籍

今回のお話にちらっと出てきた本は、2025年に出版した「人生の意味のつくり」です。人生に意味が「ある」と言うとき、その根拠はあなたや私という個別の人間の主観の中に存在します。だいぶ分厚い本になっているので、お時間のあるときにどうぞ。

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