短編小説267「行かなくちゃ」後編
そんなことを考えながら長い廊下を引き返し、壁掛け時計で時刻を確認すると、11時45分になりかけている。少し早足で突き当たりの下駄箱へ向かう。スリッパから自分の靴に履き替えて外へ出ると、冷房の効いた校舎内と外気との気温差がすさまじい。 天気は抜けるように良いのだが、夏の容赦ない日差しが肌をジリジリと焦がすようで相当キツい。今の学生たちは、複雑な友達関係やSNS、厳しい部活、長時間の授業、さらには放課後の塾など、精神的にも肉体的にも諸々キツい環境に身を置いているとは思うが、大人になるともっとシンプルに「気候」がキツいのだと痛感する。
さらに輪をかけるように、今年は梅雨明けが早く、本格的な夏本番はまだこれから先にあるという事実が重くのしかかる。しかも、近年はゲリラ雷雨や台風の発生、集中豪雨の被害も恐ろしい。今、自分にとって一番大事なミッションは、回収した空の弁当箱を無事に会社まで持ち帰ることだ。ただ、天候の急変は常に配達員の悩みの種である。 ふと空を見上げると、向こうの方角にどんよりとした黒い雲が湧き上がってきている。嫌な予感しか無いのだ。
これからひと雨降るのだろうか。気圧が下がってきたせいか、頭を上からどんよりと圧迫されるような独特の感覚がある。急激に湿度が上がってきて、空気が重たくまとわりつくようだ。帰り道、軽バンの助手席で、風が強くなっているのが分かる。車体が軽いので風量はわずかでも、横風にあおられる感覚が助手席の揺れで伝わってくる。 「これから、どれくらい降るかわかりませんけど、確実に雨降りますよ」 赤信号で停車した際、私は助手席から向こうの暗い空を指さしてドライバーに言った。
するとドライバーは、ハンドルに手を置いたまま、「困ったなぁ……今日、傘をもってきてないんですよ」とポツリとこぼした。 その瞬間、私の中では「だららららっ、じゃーん、じゃーん、じゃっ」と、あの有名な曲の重々しいピアノの前奏が脳内で鳴り響いた。井上陽水の『傘がない』である。
「都会では自殺する若者が増えている……」と続くあの名曲が、頭の中で自動再生される。 とはいえ、私たちが会社に帰るのは昼過ぎの予定であり、「まあ、帰るまではギリギリ大丈夫ですよ」と、根拠のない慰めを伝えた。空はまだ半分晴れているし、あの真っ黒な雲が本当にこちらに向かってくるのかも分からない。誰かの発した言葉の端々を切り取り、無理矢理自分の知っている曲の歌詞やメロディーから引用してしまうこの脳内の悪癖は、もしかすると突然降ってくる雨よりも、よっぽど悩ましい問題なのかもしれない。
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