短編小説244「50メートル独り歩き」後編
嘉川と三勢は、そんな互いの近況を少しずつ打ち明け合いながら、運ばれてきた「お店のおすすめ」に手を伸ばした。目の前に並んだのは、美しく盛り付けられた季節外れの栗のケーキと、マスターが試験的に数回だけ提供しているという、深く澄んだ香りの有機コーヒーだった。
三勢はフォークを動かしながら、「あの時、先生が本当に伝えたかった教えっていうのはさ、スタートからゴールまでの間に、実はいくつも散りばめられていた気がするんだよなぁ」と、しみじみとした口調で言った。 嘉川もコーヒーカップを傾けながら頷いた。「同感だけど、当時の俺たちにはいささか早すぎる教えだったとも思うよ。小学4年生の頭じゃ、到底理解が追いつかなかった」 やはり、あの教育的メッセージは深すぎたのだ――二人がそんな結論に達しようとした、その時だった。
「『分かるか分からないかではなく、色々なことに気づくのが大事である』……どうやら、君たちの記憶からは、私が最後に言ったその一番大切な言葉が、綺麗さっぱり抜け落ちているようですね」 すぐ後ろの席で、がさがさと大きな音を立てて新聞を広げていた客が、突然低い声で会話に割り込んできた。
驚いて二人が振り返り、その客がゆっくりと新聞を畳むと、そこには芹田先生の姿があった。 嘉川と三勢の目の前に、まさに「未来は分からない」という言葉をそのまま体現したような、あまりにも予想外な劇的展開が突如として出現したのだった。
「久しぶりですね、二人とも。嘉川さんも三勢さんも、元気そうで何よりです」 先生は立ち上がり、手にした新聞を慣れた手つきで壁の新聞掛けに戻すと、二人の座るテーブルのすぐ隣、カウンター席へとぬるりと腰掛けた。
そして「主人、私にもお二人と同じものをもらえますか?」と流れるように注文を済ませた。
三勢は目を丸くしたまま、「芹田先生、一体いつからそこにいたんですか?」とお約束の質問をぶつけた。「お二人がこの店に入ってくる5分前くらいでしょうか。私は普段、この店には夜に来るのですが、おすすめの栗のケーキが出るのは昼間だけだと聞きましてね。今日はこれを目当てに来たのです」 どうやら先生は、この風変わりなカフェの熱心な常連客であるようだった。
嘉川は少し首を傾げ、「先生、さっき注文はコーヒーだけだったのに、新聞をもの凄い勢いで、ずっと食い入るように読んでいましたよね」と疑問を口にした。すると芹田先生は、ニヤリと笑み浮かべ、「そうなんですよ、実はこれを見てほしくてね」と、先ほど片付けたばかりの新聞を再び壁から取ってきた。
「ええと、ここです」 先生の細い指が示唆した紙面には、見覚えのある端正な顔写真が掲載されていた。 三勢が身を乗り出す。「ん? 誰かに似ているような……あっ、知立だ!」 そこには、かつて小学生時代に短距離走で表彰台の常連だった知立が、その後に長距離ランナーへと劇的な転身を遂げ、数年の時を経てついに地方のマラソン大会で優勝を果たしたという記事が、写真付きで大きく報じられていた。どおりで、先生が我が子のことのように夢中で読み耽っていたわけだ。おそらくコーヒーを注文して新聞をとったらかつての教え子を見つけ、そこに自分たちが来たという感じだろう。
「さらに、ここを見てください」 芹田先生が、その記事の締めくくりにある、小さな署名欄を指さした。「西川……って、ええ!? あの時の副担任の西川先生ですか!?」 嘉川が声を裏返らせた。驚きの連続に、二人の頭は完全にキャパシティを越えかけていた。あの後、西川先生は教員を辞め、教育系のコラムを細々と執筆する記者になっていたらしい。地道な活動が実を結び、今では編集長にまで上り詰めたそうで、この知立の優勝記事は、彼が編集長に就任する直前に自ら現場へ赴いて執筆したものだという。
運ばれてきた栗のケーキを愛おしそうに口に運んだ芹田先生は、「ご主人、やはり昼間に来て大正解でした」と小さく呟いた。言葉にせずとも、その至福の表情だけで「美味い」という感情がダイレクトに伝わってくる。
三勢は、ここぞとばかりに長年の胸のつかえを解消すべく、切り出した。「先生、さっきの話に戻りますけど、あの50メートル走の件です。今なら僕たちも大人になって、色々な意味を理解できるようになりました。……あの授業の、本当の狙いは何だったんですか?」
すると先生はフォークをピタリと止め、少し決まり悪そうに視線を泳がせた。「あぁ、あれですか。うーん、今だから時効ということで言えるんですけどね……なんだかこう、荒唐無稽というか、無茶苦茶なことを、時間が余ったからどうしてもやってみたかったんですよね。あの時、道徳の教科書で教えるべき範囲は、もう前の週で全部終わってしまっていましたから」
恥ずかしそうに頭を掻く恩師の姿を見て、三勢も嘉川も、今度こそ文字通り椅子からズッコケそうになった。長年の人生の指針であり、大層な教育的意図が隠されていると信じ切っていたあの原点は、そもそも存在すらしていなかったのだ。
『分かるか分からないかではなく、色々なことに気づくのが大事である』という発言も意味深のようで、受け取りようには「意味不明」である。
張り詰めていた緊張の糸が、一気に抜けていく。「まぁ、でも……こうして何年ぶりかに先生と再会できて、知立たちの今も知れたんだ。結果オーライ、ということで良しとしよう」 三勢と嘉川は、お互いに顔を見合わせて苦笑いしながら、心の中でそっと、人生の不条理を無理やり納得させるのだった。
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