短編小説239「運がいいのか悪いのか」後編
伊禮子はライターで、ここは会員制の貸別荘である。著名人が運営するコミュニティの特典として、仕事の生産性を上げるために開放されている隠れ家だ。清掃や炊事の担当者以外、人の気配はない。
ただ、財力だけで利用が決まるのは不公平だということで、年に四回、百人前後の会員による抽選が行われる。当選すれば、通常の半分の期間である二週間を無条件で利用できるのだ。伊禮子はその幸運を引き当てた。
しかし、彼女は入会してまだ一ヶ月足らず。会費も一度しか納めていない。その「運の良さ」と、物怖じしない彼女の振る舞いは、古参の著名人たちの反感を買っていた。
彼女の著書は三冊出版され、話題にはなったものの、爆発的なヒットを記録したわけではない。会員になったのも、出版社の社長から「執筆には環境が大事だよ」と半ばノリで誘われたに過ぎなかった。現に、この別荘を使い終えたら退会しようとさえ考えていた。
「失礼しまーす」玄関のドアを開けると、使用人が出迎えた。「初めまして、伊東と申します。渋滞の件は聞き及んでおります。お荷物をお預かりしてもよろしいでしょうか」名刺を受け取り、言われるままに荷物を預ける。広いリビングを通って、お手洗いや書斎の案内を受けた。夕食の準備もちょうど整ったようだ。
「では、私はこれで失礼いたします。また二十時頃、お片付けに参ります」伊東が出て行くと、伊禮子は用意されたビーフシチューを口にした。「人の出入りはあるけど、基本的には一人の時間があるわけね」このメニューも、社長が勧めてくれた際に「食べたいものは何でも作ってくれる」と言っていた通りだった。「夢のような場所」という言葉は、あながち誇張ではなさそうだ。味もレストラン級である。
食事を終えて書斎へ向かうと、そこには美しい木製の机があった。わずかに誰かが使ったような気配が残っている。持ってきた下書きの推敲は後回しにして、この静寂の中で「新作」に取りかかろうとPCを開いた。 『不可能犯罪』も面白いかもしれない。「混雑で救急車が遅れて死亡する。タクシー運転手がキーマンで、犯人は意図的に混雑する日を選んだ――」 そんな素案を書き出し、構成を練っていく。他にも、温泉地を舞台にした大学生の話や、飲食店の客争奪戦など、いくつかのアイデアを肉付けしていった。
しかし、食後の心地よい満腹感のせいか、彼女は机に突っ伏したまま眠りに落ちてしまう。 部屋の天井に設置された監視カメラが、その姿を冷徹に捉えていた。別室でモニターを見つめる伊東の口元が、わずかに緩む。 果たして、彼女を待ち受けているのは幸運か、それとも――。
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