短編小説244「50メートル独り歩き」中編
当時、今はどこか懐かしい響きすらある「道徳」の時間のことだった。担任の芹田先生は、4年2組の30人全員に向かって、今から校庭に出るようにと言い渡した。何が始まるのかとざわつく生徒たちの中から、先生は伊藤、木下、島内、知立、新田、平野の6人を指名して前に立たせた。校庭へ出ると、副担任の西川先生がその6人を集め、入念なストレッチを始めた。
芹田先生は残りの生徒たちを50メートル先のゴールライン際へと誘導し、白線を見つめながらこう告げた。「みんなで、伊藤さん、木下さん、島内さん、知立さん、新田さん、平野さんがゴールをする様子をじっくり見てみましょう」 周りの生徒たちは首を傾げ、「え、どういう事なんですか? 走る順位を当てるんですか?」と口々に尋ねた。
しかし、普段ならどんな些細な疑問にも丁寧に答えてくれる芹田先生が、その時に限っては「静かに」とだけ言って、それ以上の説明を拒んだ。
そうなると、誰がどういう順番で飛び込んでくるのかが気にかかるのが子供というものだ。一応、選ばれた6人の中では、知立が運動会のリレーでアンカーを務めるほど圧倒的に足が速かった。それ以外の5人は、良くも悪くも平均的、といった印象だ。
誰もが心の中で「知立がぶっちぎりの1位で、他の奴らが同じくらいのタイミングで雪崩れ込んでくるだろう」と予想していた。 やがて、芹田先生が小さく手を挙げ、副担任の西川先生へ合図を送った。スタートの笛が鳴り響き、6人が一斉に飛び出す――はずだった。
しかし、目の前で展開された光景は、誰もが思い描いていたものとは全く異なっていた。あの足の速い知立だけが、なぜか最初からゆっくりと歩いているのだ。それに対して、他の5人は顔を真っ赤にして全力で疾走している。さらに奇妙なことは、コースの中間地点を過ぎたあたりで起こった。先行していた5人が突然足を緩め、後ろから歩いてくる知立を待ったのだ。
そして、6人はごく自然に互いの手を繋ぎ、綺麗な横一列になった。最後は全員で「せーの」と声を合わせ、右足から一歩を踏み出して、同時に白線を越えたのだった。
唖然とする私たちに向かって、芹田先生は静かに問いかけた。「皆さんは事前に予想をして、知立さんが1位になると思いましたよね」、「だって、知立さんはリレーのアンカーもしていましたし、普通に考えたらそうです」 納得がいかないという風に、三勢が声を尖らせた。
先生は微笑みながら答えた。「分からない未来だからこそ、事前に考えるのはとても大事なことです。ただね、私はここで徒競走をするとは一言も言っていませんし、順位を予想してくださいとも頼んでいないわけです」、「結局、先生は何が言いたいんですか?」いい加減に何かしらの明確な答え、つまり「正しい道徳の教訓」が欲しかった嘉川が、じれったそうに口を挟んだ。
芹田先生は6人の生徒たちを振り返りながら言った。「予想はどこまでいっても予想でしかなく、未来がどうなるかは誰にも分からないということです。」、「皆さんが走ることや誰が一番になるかという事は思い込みに過ぎないのですよ」
この時、先生が言った言葉の意味は、正直に言って当時の私たちの胸には今ひとつ刺さらなかった。それどころか、貴重な道徳の時間に変な嫌がらせをされたような、不条理な不快感さえ残ったものだ。
しかし、中学、高校へと進学し、社会の荒波に揉まれるようになると、「え? どうしてこんな結果になるんだ?」「こんなはずじゃなかったのに」という、自分の予想を裏切る予測不能な出来事が、人生の中で確実に増えていった。
とりわけ進路相談の時期には、「進路」という漠然とした未来の選択肢を前にして、多くの元クラスメイトがあの日の授業を「そういえば……」と思い出していた。普通、進路と聞くと「何か一つの目標というゴールに向けて、どう最短距離で動くか」を考えがちだ。
しかし、芹田先生にあの光景を見せられた彼らは違った。「自分は一体、どのスタートラインに着くべきか」と考えたのだ。その結果、元4年2組のメンバーには、「まずは選択肢を狭めず、できるだけ多くの可能性が広がる場所へ進もう」という共通認識が、偶然にも、確実に共有されていたのだった。
高校でアルバイトを始めれば、どうしても反りが合わない人間や、苦手な相手とでも「手をつなぐ」ように、否応なしに「協力」せざるを得ない場面が何度も訪れた。
また、あの時一人だけ歩いていた知立のように、組織の中では人それぞれに「スピード感の違い」があるのだということも、身をもって知った。さらに社会人になってからは、仕事が遅い自分を先輩が当たり前のように待ってくれていたり、同僚と他愛のない休み時間を共有したりすることの中に、小さな幸せを見出せるようにもなっていた。
あの日の不可解な50メートル走は、私たちの血肉となり、人生のあらゆる場面を支える土台となっていたのだ。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援をお願いします。
頂いたチップは活動費に使わせていただきます。