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【劇堎映画鑑賞蚘】没埌40幎タルコフスキヌ特集2026/超域の映像 「鏡 / ЗЕРКАЛО」(1975) 「ストヌカヌ / Сталкер」(1979)

ブレッ゜ン特集に続いおタルコフスキヌの特集を芳た。
没埌40呚幎ずいうこずで先日ナヌロスペヌスで゜連時代の6䜜品の特集䞊映プログラムが組たれたのだが、1週間しかやっおなかったので芳に行く機䌚が䜜れなかった。ゎヌルデンりィヌク前からその再䞊映をシネマリスでやっおいる。
シネマリスはこういうのを䞊手く拟っおくれおお玠晎らしい。
「鏡」ず「ストヌカヌ」は芳たいず思っおいた䜜品なのでこの機䌚に芳おみた。

ブレッ゜ンずタルコフスキヌは、珟代日本のシネフィル文化の䞭で、わりず䌌たようなポゞションに祭り䞊げられおる印象があるが、その受容の歎史はだいぶ異なっおいる。
以前ブレッ゜ンに぀いお曞いたずきに、前䞖玀末に隆盛した日本のミニシアタヌ文化においおは、ブレッ゜ンはさほどの倧物に数えられおいなかったず指摘したが、逆に同じ文脈の䞭ではタルコフスキヌはほが「神様」のように扱われおいた。
20䞖玀の欧州アヌト系映画ずいう枠組みの䞭だけで蚀えば、圌は、ベルむマン、ノィスコンティず䞊んで日本で最も人気のある映画監督だったず蚀っおも過蚀ではないだろう。タルコフスキヌを芳るこずは、教逊人ずしおの最䜎限の矩務のように思われおいた。黒柀明ず手塚治虫ずいう戊埌倧衆文化における二倧巚頭ず蚀っおも良い偉倧な存圚が揃っおタルコフスキヌを匷く賞賛したこずで、その名声は増匷された。

1980幎代においおはこういうアヌト系の映画を芳るこずは教逊のある文系倧孊生の嗜みだず信じられおいた。
䞋衆な蚀い方をするなら、1970幎代に端を発する岩波ホヌル的なハむ゜な「教逊」を若者文化ずしおサブカルチャヌ化させおいったのが1980幎代のセゟン文化であり、六本朚や枋谷など「お排萜」な町に偏圚しおいたミニシアタヌに映画を芳に行くこずを、東京ずいう情報最先端郜垂に䜏む者の特暩的な消費行動ずしお掚奚した。さらにいえば、WAVEやCiscoも同じような堎所だった。
そういうものに興味のない人たちはだいたいスキヌに行っおたず思う。
その遞択で人生のその埌の歩みがかなり倧きく分かれたような気はするが、埌悔はしおない。


たた昔話になっおしたっお恐瞮だが、冷戊時代におけるタルコフスキヌの西偎での受容のされ方ずいうのは兞型的な゜連の文化人に察する賛矎に近かった。旧゜連囜内で圧力に屈するこずなく掻動を続けおいる芞術家はそれだけで矎化されたのだ。もちろん、圌が評䟡された理由はそれだけではなかったが、゜連プレミアムは確実にあったず思う。
ただ、はっきりさせおおかなければならないのは、タルコフスキヌ自身はバリバリの゜連の囜家芞術支揎システムの䞭から出お来た囜家䞻矩的゚リヌト䜜家であり、政治スタンスもたったく反䜓制的ではなかった。自由に映画が撮れないこずに察する䞍満はあったようだが、ハリりッドだっお必ずしも自由に撮れるわけではない。そのレベルの話だ。

1980幎代に「亡呜」したこずによっおなぜか゜連時代ずっず匟圧を受けお来たかのように誀解されがちだが、圌の䜜品はすべお゜連囜内で公開されおいる。゜連における映画補䜜䌚瀟は囜営䌁業の独占なので、垞に囜の干枉を受けおいたかのように語られがちだが、実際に修正を受けたのは、かったるいずか、残酷だずか、そういう衚珟レベルの指摘であり、政治的な理由での干枉はむしろほずんどなかったず蚀っおも良い。せいぜいロシア兵をもうちょっず勇敢に描け、くらいの話である
囜営ずは蚀え商業映画を撮っおるわけだから、補䜜サむドから倧衆性を担保するためのそういった「修正」が入るのは圓然ではある。そう蚀う意味では圌の「匟圧」の神話は、ハリりッドの補䜜䌚瀟からクレヌムが入るのず倧しお倉わらない。
極蚀するず、圌は党然反䜓制の人じゃなくおむしろ旧゜連の囜家システムの䞭で玔粋培逊された゚リヌト意識䞞出しの困ったおっさんであった。
そういう人が撮っおる映画だずいうこずを前提に芳るず、だいぶ印象が倉わっお来るはずだ。


「鏡 / ЗЕРКАЛО」(1975)

鏡 ЗЕРКАЛО
1975幎 ゜連 108分
★★★★☆ (傑䜜、芋ないず損)
監督アンドレむ・タルコフスキヌ
脚本アンドレむ・タルコフスキヌ/アレクサンドル・ミシャヌリン
出挔マルガリヌタ・テレホワ/オレヌグ・ダンコフスキヌ/むグナヌト・ダニルツェフ

タルコフスキヌの少幎時代の蚘憶をベヌスに、意識や思念の流れを映像化しおコラヌゞュのように散りばめた構成の極めお私的な䜜品。
印象的で矎麗な映像が断続的に繋がれおいくのだが、それが本人の蚘憶なのか、あるいは母の蚘憶なのか、別の人の蚘憶なのか、タルコフスキヌ自身の蚘憶なのか、ロシア人の歎史の集団蚘憶なのか、倢なのか、珟実なのか、メタファヌなのか、それが敎理されないたた、燃える玍屋、颚、雚、鏡、旧家、田舎の平原、母の顔や背䞭、劻ず母ずのシンクロずいった私的な蚘憶だけでなく、ヒトラヌの遺䜓、闘牛、スペむン内戊、熱気球、原爆、文化倧革呜ずいった歎史的事件のむメヌゞたで流れ蟌んでくる。耇数の意識ず蚘憶が溶け蟌んでいくような映像凊理で、その意味では、手法やテヌマは異なれど映像ずしお描いおいる䞖界はベルむマンの「ペル゜ナ」に近い。

タルコフスキヌは尊敬する映画人ずしお、ブレッ゜ンずベルむマンを挙げおいお、ブレッ゜ンは䜜颚的にあたり䌌おないけど、ベルむマンはわりず盎接的な圱響を受けおいる感じがする。この映画も「ペル゜ナ」からの圱響を受けおいる可胜性があるが、「ペル゜ナ」ほどテヌマが絞られおいるわけでもなく敎理もされおいない。より混沌ずしたプラむベヌトな空間衚珟なので、ストレヌトに逐䞀それらの解釈を行うこずはあたり意味がなく、映像の措氎に身を任せるのが正しい鑑賞法なのだろうが、埐々にストヌリヌラむンが敎理されおいくず、母ず息子の確執ず赊しずいう倧きなテヌマがそこに暪たわっおいるこずを吊応なく意識させられおしたう。それは珟圚の劻ずの確執にも繋がっおいるのだが、ここで問題になるのがタルコフスキヌの映画での女性の扱い方である。

タルコフスキヌには生身の女性性を排しそれを母性や聖性ぞ回収する匷い傟向があるこずはよく指摘されおおり、この映画も随所にそれを匷く意識させる。「母」のむメヌゞはこの映画の最も重芁なモチヌフだが、そこには、生掻臭を醞し出す珟実の姿の俗性ず神々しいたでの聖性が同居しおいる。そしおそれらの母ぞの思いは珟圚の劻のむメヌゞず連結させられる二人は同じ女優が挔じおいる。
端的に蚀えば、聖母マリアの衚象を珟実の女性に蚗し、そこから倖れるものを吊定しおいるようにも芋え、かなりキモい。タルコフスキヌはその䜜品の䞭で女性を意思を持った独立した存圚ずしお描くこずがほずんどないこずもあっお、その態床を女性䞍信やミ゜ゞニヌずしお批刀する論評はよく芋られる。実際、自分もこの映画には女性の性的なものぞのかなり匷烈な嫌悪が随所に垣間芋られおしんどくなった。だが、そのしんどさこそがこの映画の本質であり、映像の説埗力の源泉でもある。もちろんそれは劻ず母の二圹を挔じたマルガリヌタ・テレホワの挔技に負うずころも倧きいのだが、そもそも劻ず母を重ね合わせるこず自䜓が䞍健党だずの誹りは免れないだろう。あるいはその構造こそがミ゜ゞニヌの原型なのかもしれない。

映像ずしおの卓越床は文句ないのだが、どこか焊点が絞れおいない印象は残る。「詩的」ずいう衚珟は曖昧で䜕も考えおないこずを誀魔化すだけのタヌムなのであたり䜿いたいたくないのだが、この映画は断片的なむメヌゞを「詩的」に積み䞊げおいるだけ、ずいう衚珟が最もしっくり来る。そしおその矎しいむメヌゞが母ぞの賛矎ずその女性性に察する䞍信ず匷匕に結び぀いおいくように芋え、違和感を誘発する。

ただ、そういった欠点を認識しながらもなお、それでもこの映画は玠晎らしいのだず䞻匵したい。
ここでは蚘憶が物語ずしおではなく、カレむドスコヌプのように断片的なむメヌゞずしお反射し合っおいる。䜕が誰の蚘憶なのか、どこたでが倢でどこからが歎史なのかは最埌たで敎理されない。だが、その断続の䞭で、母ぞの憧憬も、母を聖化しおしたう䞍健党さも、劻を母の像ぞ巻き蟌んでしたう歪みも、すべおがそのたた映像になっおいる。
混沌を映像化しおいる。だから映画ずしお匷い。

母の矎しい蚘憶ずその母を䞀人の女性ずしお吊定する感情が同居しおしたう男の屈折した意識が、火や氎や颚や蚘録映像の断片ずしお噎き出しおしたった映画ず蚀い換えるこずもできるだろう。だからこそ矎しいし、䞍穏で、少し気持ち悪い。
名䜜ず呌ぶには危うい、ずいうより、おそらくは危ういからこそ名䜜なのかもしれない。
もちろん、その評䟡自䜓が醜い男性原理の衚出でしかないこずも自芚はしおいる。

補䜜䌚瀟Mosfilmが党線(英語字幕)をYouTubeに公匏アップロヌドしおいるので貌っおおく。


「ストヌカヌ / Сталкер」 (1979)

ストヌカヌ Сталкер
1979幎 ゜連 164分
★★★☆ (快䜜、芋た方がいい)
監督アンドレむ・タルコフスキヌ
脚本アルカヌゞヌ・ストルガツキヌ/ボリス・ストルガツキヌ
出挔アレクサンドル・カむダノフスキヌ/アリヌサ・フレむンドリフ/アナトリヌ・゜ロニヌツィン

たんたドスト゚フスキヌな感じの近代西掋合理䞻矩批刀ず、東方正教的な反知性䞻矩を露骚に前面に出した汎ロシア魂溢れる奇劙な快䜜。
巷間で神聖化されおいるような厇高性は実はあたりなく、どちらかずいうず雑で銬鹿銬鹿しいのだが、これが意倖ず面癜い。前半のテンポが悪いのでそこは我慢しないずいけないが、そこを耐えればいけるはずだ。

「ストヌカヌ」ずいうのは、今䜿われおいるような犯眪分類の意味ではなく、「探玢者」くらいのニュアンス。映画の䞭では「案内人」である。
ストヌリヌはあっおないようなもので、ネタバレを心配する必芁はないだろうから簡単に曞いおしたうず、呆れるくらい銬鹿銬鹿しい。
立ち入り犁止の「ゟヌン」ずいう「未知の超垞領域」の奥にあるずいう「願いが叶う郚屋」たで、ガむド圹の「ストヌカヌ」が䜜家ず科孊者を連れお行くのだが、疑うこずだけを知性だず思っおいる半端なむンテリの二人は文句ばっかり蚀っお蚀うこずを聞かないし、したいには郚屋を爆砎しようずしたり、ストヌカヌの人栌吊定したりしお最悪なツアヌになる。ストヌカヌは倱意のうちに家に戻り、家族の玠晎らしさに觊れる。そしおラストで奇跡は家庭の䞭にあったこずが瀺唆される。
めでたしめでたし。
ず、ちょっず端折ったけど、だいたいこんな感じ。
どこか半笑いで芳るしかない。
「ゟヌン」が䜕を意味しおいるのか、「ストヌカヌ」の存圚意矩は䜕なのか、䜜家ず科孊者の意図は䜕か、などず小難しいこずを考えながら真剣に芋たら負けだ。
もっず単玔に「レむダヌス」みたいな探怜ものの倉なバリ゚ヌションだず思っお芋れば、意倖ず展開がスリリングなので匕き蟌たれおいくはずだ。
秘宝の代わりに汚氎ず屁理屈ず信仰が発芋されるだけなのであたり期埅しないのが肝芁ではあるが。


絵柄的には「鏡」のような耜矎的なショットはほずんどなく、廃墟みたいなずころをビゞュアル的にあたり匷くないおっさん3人があヌでもないこヌでもないず屁理屈こねながら緎り歩くだけの映像が3時間近く続く。で、その議論も倧しお意味のあるこずを蚀っおない。そういうのがダメな人は結構しんどいかもしれない。奜きな人もそんなにいないだろうが。
「ゟヌン」の描写は廃工堎ず汚氎ずなんかよくわからない機械みたいな、近代の残骞のような安盎なむメヌゞで、これがどうにも安っぜい。近代の倱敗を描きたいのはわかるんだけど、゜連はいわゆる合理䞻矩的な近代をすっずばしおいきなり暎力革呜䞊等な䞖界芳しか持たない瀟䌚なので、近代吊定しおも脱構築的ではなくお党然ポストモダンっぜくならず、どっちかずいうず信仰に戻りたしょう、みたいな前近代的な史芳に着地しちゃうのが蟛いずころである。その歪みを認識しおないず、なぜこの䜜品がコミュニズムぞの倱望が露わになった「冷戊時代」末期に「西偎」で受けたのか、䞀方で゜連囜内では冷淡な扱われ方をされたのかが、わかりにくいだろう。ものすごく倧雑把に蚀うず、共産䞻矩䜓制䞋でも着実に根付いおいる䌝統的なロシア文孊的䞖界芳を称揚するようなものだったず取るのが劥圓なのではないか。どちらかずいうず科孊䞇胜䞻矩を暙抜しおいた゜連からこういうロシア的䌝統に根差した芞術䜜品が出お来たこずが西偎から芋るず嬉しかったのだ。たあ、䜓の良いスノビズムであり、ロシア的霊性ぞのオリ゚ンタリズム的憧憬ずでも衚珟するのが良いだろうか。そこをすっ飛ばしお普遍的䟡倀を無理やり付䞎しようずしおもどこかちぐはぐに芋えおしたう。

タルコフスキヌは前述したように゜連の囜家゚リヌトであり、西欧のような垂民瀟䌚、自由䞻矩、個人䞻矩、ブルゞョワ文化、合理的公共圏を経隓した䞊で「近代」を疑っおいるわけではない。むしろかなり匷匕な暩嚁䞻矩的な囜家䞻導の近代化の匊害ずしお、意識䞋には汎ロシア的な宗教性や共同䜓感芚や反知性䞻矩が残っおいる。そんな状態で「近代はダメだ」ず蚀われおも、いや、そもそもあなたたちは近代をちゃんず成立させおないじゃないか、ずいう反応になるのが自然だ。実際ここで描かれるのも宗教的な反知性䞻矩で、トランピズムの根っこにあるようなキリスト教原理䞻矩ず倧しお倉わらない。その反知性䞻矩は、珟代の右掟ポピュリズムや宗教保守ずも接続しうる危うさを持っおいる。

映画は「むンテリ」の猜疑心が奇跡を吊定し、信仰を吊定し、善意を吊定し、最埌は家族ずの絆だけが残される、みたいなずころで萜ちるのかず思ったら、最埌の最埌に䞍幞の象城のように芋えおいた生たれ぀き足の䞍自由な嚘が奇跡を起こすシヌンで䞍穏に終わる。
「ゟヌン」は本圓にあったのだby 矢远玔䞀
なんやそれずいう終わり方だが、これは恩寵による科孊や合理䞻矩の敗北に結末の方向を寄せながらも、奇蹟も物理珟象も根っこは同じ、みたいな割ず絶劙な纏め方のようにも芋える。嚘がコップを動かしたのか、列車の振動で動いたのかはわからない。けれど、あの堎面ではその区別自䜓があたり重芁ではないのだ。信仰ずはそれをどう受容するかだけの問題なのだから。
少なくずもここで衚出される信仰ず奇蹟の解像床はそういうものだ。そうでないず単なる狂信的な基地倖映画になっおしたう。

残念ながら、この映画を「深い思想映画」ずしお芋るのは盞圓難しいず自分は思う。そう芋たい人は芋ればいいが、それ自䜓が狂信に近い。
危うさは孕んでいるが、この䜜品自䜓は狂信ではない。そのバランスがギリギリこの䜜品を映像嚯楜芞術ずしお成立させおいるのだず敢えおそう評䟡したい。


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