時を越える非実在少女は昭和のオッサンの夢の中だけで生き続ける あるいは【映画レビュー】「時をかける少女」(1983)
時をかける少女
1983年 日本 104分
★★★★★ (映画史に残る名作、必見)
監督:大林宣彦
脚本:剣持亘
出演:原田知世/高柳良一/尾美としのり/岸部一徳/根岸季衣/津田ゆかり

角川書店と角川春樹が昭和末期以降の日本のメディア業界に果たした功罪については半可通の自分が語ることなど殆どないが、恐らくは当人が生きている間は客観的な考察も難しいのではないかと思う。
自分の記憶では派手な宣伝で映画界に切り込む前の角川書店のイメージは「文庫本」を出している立派な出版社だが、岩波や新潮と比べると一段格が落ちる、というものだった。新潮と角川の両方から文庫本が出ている例は多かったが、その時は必ず新潮を選んだ。特別な理由があるわけではない。ブランドイメージだ。角川は出版社としては二流だった。
だが、言い方は悪いが「二流」だからこそリスクを負って映画製作という全くの門外漢のフィールドに投資ができたということなのだろう。
角川が映画界に参入した1970年代後半、日本映画で流行っていたものと言えば、「寅さん」と「トラック野郎」のような定番シリーズもの、「日本沈没」や「ノストラダムスの大予言」のようなパニック大作と、山口百恵の主演映画だけと言っても過言ではなかった。斜陽の映画界に突如現れた新参者は、スタジオシステムが崩壊し行き場を失っていた既存映画業界のリソースをうまく活用しながら、それまでの映画界の常識を覆すような大量のテレビCMで一挙にその名を世間に知らしめることに成功した。
ただ、実質東宝作品だった最初の作品「犬神家の一族」はまだ良いとしても2作目の「人間の証明」以降の一連の作品がどれもかなり酷い出来だったこともあり、ヒット作は生み出しても映画界からのリスペクトは得られなかった。一方で横溝正史の一連の映画化シリーズは東宝自主製作ながら企画はすべて角川春樹事務所が担当していたように、既存の映画業界が踏み切れなかったテレビメディアを使った企画宣伝力だけは評価されていたと言えるのだろう。
平たく言うと、当時の角川春樹のイメージはテレビの宣伝力を使って駄作をヒットさせる凄腕プロデューサーというもので、いまだにそのようなレッテルは付いて回っているように見える。
ただ、製作費との比較で言うと、この当時の角川映画は言われるほどヒットしていない。宣伝費まで入れると興行収入だけではペイしてないのではないか。
その状況を変えたのが大作主義を排し、プログラムピクチャーでのアートシネマ路線に転じた「セーラー服と機関銃」だったというのは有名な話。
1億円そこそこの製作費で20億円を超える収入をたたき出した上に、作品の評価も上々、すでに映画スターとして確かな地位を築いていた薬師丸ひろ子の代表作となった作品であり、名実ともに角川映画を代表する作品ともなった。
以降、角川事務所は大林宣彦、相米慎司、根岸吉太郎、森田芳光、崔洋一、井筒和幸など作家性の強い監督を起用して、80年代半ばまで良作を製作していく。
だが、当時の角川映画は実質薬師丸ひろ子一枚看板であり、この路線を続けるには、スターがもう一、二枚必要だった。
薬師丸の休業中に手駒を増やすためにオーディションで渡辺典子と原田知世を獲得し、角川事務所の専属女優としたのだが、Wikipediaを見ると、原田知世がこの映画の封切前はまるで人気がなく引退を考えていたように書かれており面食らう。角川春樹自身がそう言ってるみたいなのだが、「時をかける少女」で一躍大ブレイクしたことを強調したいがための歴史改変に近い。
原田は今でいう「ゴリ押し」気味のプロモーションでアンチも多かったことは事実だが、オーディション後すぐに薬師丸が主演した映画二作「セーラー服と機関銃」と「ねらわれた学園」のテレビドラマ版の主演が決まり、歌手デビューも果たしている。「セーラー服と機関銃」以降大ブレイクした薬師丸ひろ子と比べると地味だったのだろうが、普通に雑誌メディアやミニコンサートなどをやっていて、デビューしたての新人としてはかなり露出があったと思う。
不遇だったのはむしろ渡辺の方で、オーディションの副賞として真田広之主演の映画「伊賀忍法帖」への出演は果たしたものの、さほど話題にもならず、しばらく低空飛行を続けていたという印象が強かった。渡辺の映画主演デビューは1984年東宝製作の「積み木くずし」の映画版、不祥事で降板を余儀なくされたテレビドラマ版の主演女優高部知子の代役だった。見るからに力を入れられていないのがよくわかる。このあたりの角川事務所のマネジメント力学は通常のタレントプロダクションとは異なる原理だったということなのだろう。
話を原田知世に戻すと、角川春樹が大袈裟な歴史改変をしたくなるくらい、この映画での彼女の輝きぶりは尋常ではなかった。
自分は彼女のライトなファンだったので、初めての主演作ということで期待して観に行った記憶がある。この当時の角川映画は必ず二作併映で、この作品の同時上映は薬師丸ひろ子の大学受験休養からの復帰作「探偵物語」だったので、角川の二枚看板の競演揃い踏みというイメージだった。
ネットの記述を見ると、9割方が「探偵物語」目当てだったなどと書かれていたりするが、自分の周囲の肌感覚としてはいいところ2:1とか3:1くらいだったのではないかと思う。薬師丸ひろ子の人気は底堅いものがあったが、彼女は松田聖子や中森明菜のようなカリスマアイドルではなくミーハー的な動員力はそこまでではなかったし、「時をかける少女」はアイドル映画に定評のある大林宣彦監督の新作ということで注目されていたし、筒井康隆の原作もNHKでドラマ化されてて有名だったので「時をかける少女」の方の期待値もそこそこ高かったように記憶している。
少なくとも誰も期待してなかったのに蓋を開けたらビックリ!なんと大ヒット!みたいなサプライズではなかった。期待値は上回っていたかもしれないが、期待値が低すぎたということはありえない。それなりに高い期待値だったのにそれをはるかに超えて来たのだ。
併映の「探偵物語」も「セーラー服と機関銃」に劣らない名作だったので、この同時上映は伝説となったのだった。伝説に尾鰭は付き物だ。仕方がない。
ストーリーについては、これだけ有名な作品でもあり、今更ネタバレを恐れる必要はあまりないと思うので、敢えて書いてしまう。
主人公の女子高生芳山が理科実験室でラベンダーの不思議な香りを嗅いだことをきっかけに、時間を超えて過去や未来へ移動できる能力を得てしまう。幼馴染だと思ってた友人深町は未来から薬草を獲りに来てるタイムトラベラーで、ずっと昔からいるように皆が記憶操作されてた。芳山の本当の幼馴染の吾朗への恋心は深町に上書きされてしまって消失し、タイムトラベル先での恋はご法度なので深町との関係もここで終わってしまうという切ないお話である。成人した芳山は職場で深町と出会うが記憶を失っている芳山は気付かず、彼から遠ざかっていく。一瞬の再会の余韻だけを残して映画は終わる。
青春の甘酸っぱい空気感に満ちたジュブナイルストーリーだが、実際の映画の中での物語は過剰なセンチメンタリズムを感じさせることもなく、比較的淡々と当たり前の日常のように進んでいく。
この映画の何が凄いかというと、そういうどこにでもありそうな日常の中で主人公の女子高生がおっさんの空想の中でしか存在しえないピュアな少女として描かれ、彼女が穢されることによって特殊能力を得て、此処には存在しないはずの未来の王子様と恋をするというプロットになっていることだろう。今見返すとストーリー全体が単なるおっさんの妄想の産物でしかなくてむちゃくちゃキモイ。ほぼ犯罪行為スレスレだ。公開当時自分にこのキモさがわからなかったのは中高一貫男子校で六年間男子だけで日常生活をすごした弊害だろう。周りに女子がいないから女子を見るキモいおっさんもいない。つまり、おっさんが女子を見るまなざしのキモさに無自覚だったのだ。
深町を演じる高柳良一は意図的な棒読み調で現実性が薄いキャラに見せている。尾美としのり演じる吾郎だけが等身大の高校生男子として現実感を漂わせている。どこにも存在しない想像上の少女である芳山を交えたこの3人の関係性はリアリティとファンタジーの間を上手い具合に浮遊している。
原作では二人は再会を約束して別れるのだが、映画ではもう二度と遭えないと未来永劫の別れを示唆しているという違いがある。原作もいい加減おっさんの妄想っぽい話ではあるが、映画の方がより確信犯的だ。王子様の再来を待ち続けるよりも、強烈な恋愛体験によってその後ずっと処女性を保ったままでいる方がおっさんの妄想的にはそそるのだろう。もう一度言う。
キモい。
ほぼ変態的な妄想と欲望をうまくオブラートに包んでエバーグリーンな青春物語に偽装した大林宣彦の執念を称えたい。
一躍大ブレイクした原田知世だが、この作品での浮世じみたキャラのイメージが浸透したことでその後役者としては低迷する。
その殻を破ったのは典型的なバブル映画「私をスキーに連れて行って」だが、これはこれであまりにも時代に媚びすぎたせいで、役者としては完全に終わってしまった。角川から離れて演技の幅をどんどん広げて日本を代表する女優となった薬師丸ひろ子とは対照的な歩みとなったが、まあ、演技に関してはもともと引き出しの多い人ではなさそうなので、仕方ないところだろうか。彼女が一瞬だけでもこれだけの輝きを見せたことは日本の芸能史にとって幸運なことだったと考えたい。
