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【たちよみ】鈴木大介さんがオープンダイアローグをやってみようと思えた理由──『専門家なしでやってみよう! オープンダイアローグ』より

著者のひとりの鈴木大介さん、最初はオープンダイアローグについて半信半疑だったのだそう。なのに、なぜやってみようと思えたのか? 鈴木さん執筆の第1章「紹介 「胡散臭く」なかったオープンダイアローグ」より、「やってみようと思えた理由」「心理的な安全性」のパートをお届けします。「なんだか胡散臭いなあ」「興味はあるけど不安もある」というあなたにぜひ読んでいただきたい文章です。

晶文社編集部

やってみようと思えた理由

ではまず、こんなにも猜疑心マックスの僕がなぜオープンダイアローグ「やってみよう」になったのか? その最大の理由は、オープンダイアローグには僕自身、そして「多くの当事者」が心の底から望んでいるであろう「対話の場における心理的な安全」が確保されていると感じたからだ。

「そもそも対話の場とは、安全なものではないのかもしれない」。これは今回一緒にオープンダイアローグに参加した頭木弘樹の口から出た言葉だが、これには完全同意というか、「かもしれない」じゃなく「危険なものですよ!」と僕は断言してしまいたい。それは僕自身が、40代の前半をほとんどを丸々「対話への恐怖」の中で過ごしたからだ。

僕には高次脳機能障害という中途障害(41歳で発症した脳梗塞の後遺症)がある。そしてこの障害を負うことで、僕は様々な対話を恐れるようになった。具体的には、松本人志とひろゆきを心の底から忌避するようになり、挙げ句に「その声を聞くだけ」、メディア上で「顔を見るだけ」で心拍数が上がり、テレビの前から逃げたりノートパソコンを閉じるほど心理的に追い詰められるようになった。

なぜか? それは、彼らの対話スタイルが僕にとって「危険だった」から。そう感じさせたのは、僕の中に残った様々な「症状」によるものだ。

僕の抱える高次脳機能障害には、脳の情報処理がゆっくりになることで、込み入った内容の話をとっさに理解したり、伝えたいことにピッタリの言葉を即座に思い起こすことが難しくなるという症状がある。

かつ、せっかく思い浮かんだ言葉や考えが実際に口に出すまでの間に頭の中から消えてしまったり、相手に伝わりやすい言葉の組み立てを考えているうちに「何を言いたかったのか」がわからなくなってしまうといった、短期の記憶障害(いわゆるワーキングメモリの低下)もある。

ダメ押しに、目につくもの、気になる音、相手の言葉でインパクトのある語句などにギュッと注意を持っていかれて、本来そのとき考えるべき相手の言葉の解釈や返答の用意などがまったくできなくなってしまうといった、注意障害の症状もある。

とまあ、挙げだしたらきりがないほど面倒くさい&意味わからん症状がいっぱいあるわけなのだが、こうした症状こそが、僕がノーモア松本、ノーモアひろゆきになってしまった理由だ。

上記の症状が重なることでできなくなるのは、まず言葉の理解と返答に時間を与えてもらえない対話だ。早口の話者や一方的に話す話者が鬼門中の鬼門なのは言うまでもない。

必死に理解しよう、相手の言ったことを憶えよう、返答を考えようとしているときに、矢継ぎ早にどんどん言葉を重ねられること。

こちらが必死に絞り出した返答を遮って言葉をかぶせられること。

返答の前に新たな質問を重ねられること。

強いニュアンスの言葉を連続で浴びせかけられること。

そうしたあらゆるタイミングで頭の中が真っ白になり、混乱し、必死についていこうとしても対話から脱落する。

理解もできない、返事もできない、相槌すら取れず、ただただ一方的に相手が振り回す言葉の鞭にビシビシ打たれっぱなしで、呆然とした自分だけが取り残されるのだ。

最悪なのは、論破や反論を「主目的」としたコミュニケーションを取る相手への対応だ。なぜならそうした相手への対応には、相手の中にある自分に対しての誤解を解くために、または相手の間違いを覆すために、一番適切な言葉を選択し、一層論理的に組み立てて話す必要があるから。

これはこの脳ではとてつもなく困難で時間のかかる思考作業にもかかわらず、論破目的で話す話者の多くは「論理構成で相手を打ち負かす」のではなく、「相手に考える時間を与えずに一方的に押し切る」スタイルをとってくるから、まったく太刀打ちできない。

反論を目的として、こちらの言ったことを吟味せず返答もせずに「とは言ってもね」と食い下がってくるタイプも同様。

というわけで、この脳になった僕は、健常の脳だったころには(少なくとも小中学生男子だったころには)痛快さすら感じたかもしれない、松本の食い気味の対話スタイルや、ひろゆきのスピーディな論破術が、すべて圧迫面接なみの威圧に感じるようになってしまったのだった。

彼らのような話者と話すと、一方的に自分が不利な状況に追い込められるように感じられる。それは、フェンシングでこちらの剣がまだ鞘から抜けないうちに、相手が高速の剣戟でザクザク貫いてくるような感じだ。

そうして自身が日々のコミュニケーションに失敗し、自分の言いたいことを言えないままに言葉を封じ込められる経験を重ねる中で、僕は否定的な文言を聴くだけで、攻撃的だったり他罰的・尋問的なニュアンスを聞くだけで、軽くパニックに陥るようになってしまった。

たとえそれが自分とは無関係な第三者間で交わされる対話だったとしても、それを耳にするだけで頭が真っ白になってしまったり、脳に濃い霧がかかって思考が混乱するようになってしまったのだ。

石田月美、頭木弘樹、鈴木大介、樋󠄀口直美『専門家なしでやってみよう! オープンダイアローグ──安全な対話のための実践ガイド』晶文社

心理的な安全性

これが、僕がオープンダイアローグを「やってみようかな」と思えた最大の理由だ。

僕はこれまで、自身の障害に伴う症状を、上記のようなコミュニケーションの困難も含めて方々で書き散らしてきたが、共感を寄せてくれた読者は僕同様の高次脳機能障害の当事者だけではなくて、発達障害や認知症、そしてうつ病をはじめとする各種精神疾患の診断を受けている人たちが多く含まれていた。

確信した。「我々」にとって、健常者スタイルの対話や言葉の掛け合いは心理的な危険を伴う。我々にはそうした共通症状がある。僕らにとっては総じて松本&ひろゆき的コミュニケーションが鬼門だ。両名ゴメン。

さらに、オープンダイアローグには、そんな僕らにとっての心理的な安全性を確保するための、もっと言えばパニックに追い込まれないための基本的な防護柵が張り巡らされているようにも感じた。

具体的にはオープンダイアローグには「説得・議論・説明・尋問・アドバイスをしない」ことが基本として設定されている(ディテールは巻末のガイドラインを参照)らしい。

何より入門的に手に取った『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』(斎藤環・水谷緑、医学書院)には「聞くことと話すことを丁寧に分ける」(話者が最後まで話し終わってから次の話者に移る)ことの重視が明記されていた。

これだ! と思った。

「被せないで」「遮らないで」「なんとか繰り出したこちらの言葉の鼻骨をカウンターパンチで折らないで」……。その願いが、このルール下なら叶う。

さらに同書にあった斎藤環の言葉を僕なりに曲解すると、染みついたヒエラルキー感を脱することが苦手で、対話にどうしても権力の勾配を発生させてしまいがちな医療者は「その場に居なければ居ないほどいい」。

エビデンス以前に理念が先にあって、やってみたら結果が出た=副産物としての自己回復こそがオープンダイアローグの魅力、等々らしい。

これはいい。

環さんに「お酒を飲んでやってもいいですか?」と聞いたら、どうぞどうぞという感じではないにしても、クライエントにとってそれが楽なのであれば禁じる道理はない(といった印象の)返答だった。

失礼にもこんなことを聞いたのは、僕自身があまりの話しづらさから二次障害としてヒステリー球を発症していた時期に、アルコールを入れることでそのつらい身体症状を随分緩和することができていたからなのだが、この質問で、『やってみたくなる~』で環さんが繰り返していた「対話の継続こそが目的」を再確認することもできた。

どうやら、とにかく一定のルールに則っていさえすれば、対話し続けるだけでいいらしい。しかもそのルールは、僕自身が安全だと思えるスタイルで、脳機能障害の当事者として心底希求してきたスタイルそのものにも見える。

これは、齧ってみてもいいかな? と思ったわけなのだ。どうだろう。猜疑心のハードルは越えられそうだろうか?

それで、実際にやってみたらどうだったか? 続きはぜひ本文で!

晶文社編集部
石田月美、頭木弘樹、鈴木大介、樋󠄀口直美『専門家なしでやってみよう! オープンダイアローグ──安全な対話のための実践ガイド』晶文社

【目次】
はじめに やってみる!?
 斎藤環さんに聞いてみた オープンダイアローグQ&A

第1章 紹介
 「胡散臭く」なかったオープンダイアローグ(鈴木大介)

第2章 実践 オープンダイアローグ1 日々の困りごと
 「嫌なことがあると、ずっとそのことを考えてしまう」(石田月美)

第3章 実践 オープンダイアローグ2 人生の困りごと
 「兄のケアを負わせた母への捻れた思い」(樋口直美)

第4章 総論 オープンダイアローグを終えて
 危険な会話から安全な対話へ(頭木弘樹)

おわりに
 一致しなくてもわかり合える

付録 『オープンダイアローグ対話実践のガイドライン 第1版』(オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン/ODNJP)抜粋